AC・結婚・離婚・言霊の働き

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今回は幼少の頃から親によって言葉の暴力や虐待を受けて育った方から、メールで問い合わせをいただき、その方と私とのやり取りをそのままアップさせていただきました。
言葉には人間の思い、精神状態が如実に含まれているものであり、それが相手に伝わっていくものであります。
「言霊、言魂」とはよくいったものですが、私自身、今回のやり取りもまたとても貴重な学びとなりました。
訪問してくださった方々にとって、何らかの参考になればと掲載をしたものです。
以下。
2014/2/13 藤田彩乃様(仮名)より受信
観童さま。初めまして。
サイトをありがたく拝見しております。ありがとうございます。
私は35歳の女です。〇〇県に住んでおり、藤田彩乃と申します。
私は転生やあの世といったものを信じきれないでおり、ある苦しみを手放せずにいます。
これについてご意見を伺いたくメールいたしました。
私はいわゆるAC(アダルトチャイルド)でしたが、回復に至るまでにちょっと変わった経験をしております。
私の父は、子供を人手扱いする農家で虐待されて育ち、心薄いまま家庭から逃げるように早い結婚をした人でした。
父の家系は、被差別部落から口減らしのように嫁がされてきた人などもいたし、暴力沙汰、精神異常が絶えず、地獄のようでした。
皆さん教育もつけられず、離婚したり精 神を病んだり、ひと通りでない人生を送っています。
母は父が頼りにならないので気が強く、攻撃性が強くなり、自分の世界から強く人を否定してばかりになりました。
兄は知的障害者として生まれました。
人を差別して自分の下に人をつくらねば自分を保てない精神性だった父は、自分を基準にして物事をとらえ、こんな子がいたら人にバカにされて俺は終わりだ、あの子を何とかして手放したいなどと気に病んで、さらに母に激怒され人格否定されていました。
やがて父はアルコール依存症になり、数多くのトラブルを起こしたあげく何も思うに任せぬまま、回復せずに死んでしまいました。
私はというと、親からあまりにも愛情や理解が得られないので、物心ついたときに彼らを 見限ってしまったようです。
無知蒙昧で話の通じない人たちなんだな、と割り切り、彼らを心に入れず、理不尽に罵られても殴られても感情が凍り付いたように動かなくなりました。
彼らからは何も与えられなそうだと思ったので一人で図書館に通い、何かあれば家庭外の大人に助けてもらい、具合が悪ければ自分で調べて医者に行きました。
感情が上がらないので論理性が育ち、依存心や依頼心がないので強いのですが、何も愛せず器も広がらず、いつも自分を無理に引っ張り上げて生きているようで苦しかったです。
被虐待児童によくある事ですが、自己肯定感も低く、かなりの年齢まで水や注射におびえました。
しかも、トラブル続きの家庭にいたため、恐怖や不安に 吸い取られるような感じで、視野の上半分から遠くを強く見るような感じが固く固定されてしまっていて他の状態を知りませんでした。
そのため自分の中に自分のためのものがなくなり空虚で、いつも吐き気がするような疲れがあり、欲望が薄く、自分の事を話していても他人事のようだとイラつかれる事もありました。
しかし理性が強く思考回路が利他的で言動がおおむねまともであったため、大きな問題を起こさず、むしろ精神性が高いかのように見なされたり、専門家にかかっても異常が見出されませんでした。
高校のとき私の見た目を気に入り執着していた男の同級生と漠然と年間付き合い結婚、3人子供をもうけて10年間結婚していましたが、私のほうは彼に愛情を持てず、機械的に生活をこなすばかりで、これが結婚生活と割り切っていました。
私は生活が苦しくて子供たちに愛情を注ぎきれなかった部分はありますが、義務感は強くとにかく育児書などをまじめに読んで実行し、理性で無理に頑張っていたので、子供はどうやら無事でした。今も健全に育っています。
もともと私とは対照的にユルくて自己愛の強かった彼は好きな女にも愛されず、まともな生活をする気力を保てなくなり、身の回りの事もできず汚い部屋の中に引きこもり、働かなくなり、他所に執着する女性を新たに見つけて入り浸るようになりました。
私は彼にも何も求めなかったので、壁や床と同じくらいに思い、黙って彼を養い続けましたが、妊娠時や出産前後はさすがに 働けません。
ふた親そろっていてどちらも働いていないタイミングでは子供を預けるところも確保できませんので、とり崩していた貯金も底をつき、経済的に立ち行かなくなって行きました。
ついに電気も止められるというとき限界を感じ、「ひとり親になれば手当ももらえるし保育園に子供を入れられる可能性が出て来る。そうしたら私が働けるから、離婚して」と、渋る彼を家から追い出しました。
私は依然「自分は普通でない事はわかるが何が普通でないのか」を追求していてある人に出会いました。
彼は「一日に100回ありがとうと言うようにしてみろ」とアドバイスしてくれました。
私はそれをしながら、時期同じくして自分と同じような精神不全を起こしていた人と出会い 、その人への共感や愛情で、苦しいくらいの猛スピードで回復しました。
今は器も広がり、視野も直っていますが、感情が平坦ではあり、上がりづらいです。
その代わり人にこうあって欲しい、こうあるべきだという要求がないため事実がありのまま見える事が多いようです。
今となっては、孤児のような強さ、感情上がらぬために得た論理性、母親としての愛情、かつての自分や家族のような不幸な人がこの世に一人たりとも出て欲しくないという強い気持ちをあわせ持つ結果になりました。
物事がうまく行かない人の精神世界をトレースし、その人に必要なものを見つけ出して気づきを誘発したり認識をひっくり返し、状況を改善する事も意図的にできるようになりました。
コ ーチングなども行って、お役に立てていただいています。
虐待されて育った人は、依存心や恨みつらみが大きくなって問題を起こす事が多いと聞きますが、私はそうならなかった例ですよね。
依存性も低かったので、父のようにお酒に逃げたり、母のように何をやらかしても省みずすべて忘れてやり過ごし、それを生活のためと正当化するなどという事もしませんでした。
それはおかしい、と、心薄く自分の価値観しかない世界ではっきり思っていました。
虐待の連鎖など厳しい事例を見慣れたカウンセラーさんなどは私を珍しがります。
これは私の努力というより単に生まれ持った性質のように思われ、逆になぜ私のように回復しない、父のような人が後を絶たないのかと思うよ うになりました。
人により生まれ持った、今生与えられた魂のステージみたいなものがあるのだろうか、これは自分の意思で上げる事ができるのだろうか。
それができる人とできない人はどこで分かれるのか。
また、来世があれば父のような人も救われるチャンスがあるのでしょうしそれならこんな良い事はありませんが、確たる証拠なくそれを信じる事は私にとって、お酒や薬物に逃げるのと同じような安易な自己救済のように思えて、それがブロックになって信じられないのです。
臨死体験なども脳の機能として説明がつくような気がするし、人口が増えているのなら魂も増えるのか、それはどこから来るのか、生活が苦しかった時代には転生などないという教えが流行ったり、国によって宗教が違うのは、ニーズが先にあって都合良くつくられているからではないのか。
それとも私が小さな視点から見ているから物事を逆にとらえてしまっているのか。
目に見えないものを信じるのは良い事だと思うのですが、信じる事に抵抗を感じているのです。
このままで良いのだろうかと疑問に思っています。
また、世界に、理不尽な慣習に苦しむ人たちや、虐待されている生物たちがいる事も苦しく、その苦しみが手放せません。
具体的にそういう事を改善するよう行動してもおりますし、自分が余裕を持って貢献し、良い心を波及させて行くのが一番良いのだと思ってはいるのですが、微力すぎて、とりこぼしが出るのが苦しく、無力感があります。
も ちろん私がすべてを救える訳はないのですが、救われない人にとっては、何もしない人間はすべて一種の加害者だと思います。
自分が自覚もなく何らかの犠牲のうえに安全なところで暮らし、自分以外の苦しみを知らない、あるいは知っていても何もできない事はそれだけで害をなしているのではないでしょうか。
だとすればどうしたら良いのか・・・。これについて何かご意見をいただきたく思っております。
今後の生きる指針を探し続けたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
 
2014年2月15日 土曜日返信
藤田彩乃さま。おはようございます。
返事がおそくなりまして、失礼いたしました。
ブログを訪問してくださりありがうございます。
転生やあの世の存在を信じる、信じない、信じきれない、確信がもてない、これは誰もが持っている思いであり当然のことと思います。
実は、あの世ということを言い方を変えて表現するならば「通常では見えない次元の存在」といっても間違いではないと思います。
その意味で言えば、私たちの肉眼では見えないものはたくさんあります。
電気エネルギーは見えません。
水だって気化すると見えません。
紫外線だって肉眼ではみえません。
磁気だって見えません。
この他に見えないけれど実際に存在するものは無数にあります。
人間の体から発する生体エネルギーも見えませんが特殊な機器を使用することでこれが確認できます。
魂は機械器具で確認できないほど精妙な存在ですから根拠がないということになっているだけです。
科学的根拠がなければ信じることができないという現状でもありますが、しかし、これが人間の限界かもしれませんね。
唯物的思考の限界点はここにあります。
しかし、まれに、高性能な電子機器によってオーブ(生命体、魂)の動きをとらえることも可能になってきました。
転生やあの世は存在しているのですが、その理論が自分のなかで裏付けされていないがためにわからないというだけのことではないでしょうか。
さて、あなたの生い立ち、メールを拝見しまして先ずは、「ご苦労されましたね」と声を掛けさせていただきます。
よくぞこれまで試練を超えて生きてこられましたね。
私は思います。
あなたのような非常に厳しい家庭環境に生まれていながら大きく脱線することもなく歯を食いしばって耐え忍んで生き、自立する人もいれば、グレてしまって親に対して仕返しをしたり、社会を敵視するような人もいます。
同じような環境に生まれていながら道を分けることの違いは何であろうか。
これは一言、気根の違いといえるでしょう。気根とは心根(こころね)のことであります。
要するに、もって生まれた其々(それぞれ)の魂のステージ(個性、徳性)の違いということがいえると思います。
何度も転生輪廻を繰り返しながらここまで成長してきた証であるといえます。
そういう意味で言えばあなたは厳しい環境に生まれることを敢えて避けることなく、覚悟を以って生まれてきた勇気ある魂だといえるでしょう。
失礼かもしれませんが、これまでのあなたのご苦労には心から同情を禁じ得ません。
「見えないものを信じることに抵抗を感じる。」
これは無理して盲信する必要はないでしょう。
何故なら、今以上に心の拡大が成されてくれば、それを信じるというより自然に感じてくるようになるからです。
見えないエネルギー、それは宇宙の万象万物を生かす慈愛のエネルギーと私は心と体で受け止めております。
「また、世界に、理不尽な慣習に苦しむ人たちや、虐待されている生物たちがいる事も苦しく、その苦しみが手放せません。」
このようなあなたの思いこそが他を生かす力となるのでしょう。
しかし、どのように善を思い、行動しても、それが苦しくなるのであれば、それはその苦しくなる心から脱して、自然体で生きることが必要であります。
をもって行動をする者が、自分自身の心に重さや苦しさを抱えては本当の調和とはいえないのです。
何事に対しても事にあたっては『淡々と為すこと』この心構えが己の心の解放の秘訣です。
私も毎日人々と話し合い、手助けしたいと、できる限りのことはさせていただいておりますが、しかし、必ずしも思うようにいかないことが多々あるのです。
虚であることはいいとしても、私自身が微力だからと自分自身を卑下したりすることは自己否定にもつながり、やがては苦しみとなって無力感に苦しむことにもなります。
こうなるとせっかくの行いである善行も執着になりかねないでしょう。
ここにも拘らない心のバランスが要求されますね。
何事にも片寄った思考、偏った価値観をもっては苦悩の元になってしまうのです。
「救われない人にとっては、何もしない人間はすべて一種の加害者だと思います。
自分が自覚もなく何らかの犠牲のうえに安全なところで暮らし、
自分以外の苦しみを知らない、あるいは知っていても何もできない事は
それだけで害をなしているのではないでしょうか。」

ここのお話しには少し偏りがあると思うのですが、何もしない人間を差して加害者という言葉が必要でしょうか?
本来加害者という言葉の意図するところは、『他人に対する加害行為を行った者をいうのであって、民法学では、不法 行為を行った者を加害者と呼ぶ』ということかと思います。
何かをしたいと思ってはいても実際には他のためにその何かをできないでいる人たちは多いでしょう。
それには立場上それぞれのおかれた状況、都合などもありその理由は千差万別です。
あなたの生い立ちからくる反骨精神?、熱い心故にほとばしる言葉だとは思いますが、
「一種の加害者」は適切なことばとは言えないのではないでしょうか。
 良かれと思うことは『淡々と為す。』この精神で生きたいものです。
他を裁くより、慈愛を以って事を為す。
こういった自身の心の波紋が人々の心を動かしていくでしょう。
観童
 
2014年2月15日 土曜日 午後3:17受信
観童さま。お返事ありがとうございます。
以前身近に、利己的な思考回路を土台に、「自分が死ぬまでに結果が出なくても、自分が生まれ変わってその恩恵を受けると思えばがんばれる」と言っていた人がいて、その方はあくまで自分のためにひたすら転生を信じていました。
その方の場合は、頑張らなければ社会に認められないので何とか自分を日々の生活につなぎとめるため、自己救済のために転生を都合良く信じた事例だと、私には思われました。
私は、自分が死ぬまでに報われなくとも子供の代にはもっと良い世界を残したいために努力するのだという思考回路です。
これはまったく目に見える範囲で正しいと思います。
しかし、結果が保障されない中での努力というのが苦しく感じる事もあります。
おそらく、私にはわからない高次元の事が世界にあり、それは私が思うより救いのある事なのではないかと思いつつあります。
そしてそれは科学で解明されつつあり、もっと魂のレベルを上げて行くと、確信できるようになるのですね。
私が道を外れなかった理由は気根であり、今生、生まれつき与えられた魂のステージという解釈で良いのですね。
今までの生い立ちに対してもご同情ありがとうございます。心から感謝いたします。
最中にいるときには説明できない事でも、回復した後にはこうして理解していただける事もあるんですよね。
そして、今生で魂のステージ低い方たちは、修行の一番苦しいところをまさに行っているところなのですね。
それはそれで頭の下がる事と思います。
父は一生かけて救われぬ姿を見せる事で、私にこの精神を定着させたという意味で、身を捨てて最大の功徳をしたのかも知れないとも思います。
心薄い父はおそらく最後、人を恨み死を恐怖して死んで行ったと思います。
その魂はどう救われるものかと気になっております。
彼が私の子供として生まれ変わって来れば今度は幸せに育ててやれますが、彼は転生してもまた試練を与えられるのでしょうか・・・。
書き方が悪く誤解があったかも知れませんが、
私は人に要求が薄く、平坦で、熱い心を持ちづらいので、他の人を責める気持ちはありません。怒りを感じる事もほぼありません。
とにかく私自身がこれ以上行えないという事に無力感や罪悪感を感じてしまいます。
これは一種の傲慢なのかも知れませんが・・・。
よく「いじめ被害者にとっては、何もしない人は皆加害者」という認識がありますよね。
これは、確かにそうなる事があるだろうなと思います。
見ていながら知らんぷりをしている、これは加害者と同罪ではないかと。
たとえば中国の「熊農場」で生きたまま腹部に管を入れられ、漢方薬として胆汁を搾取される熊が一万頭もいるそうです。
今この瞬間、彼らは誰でも良いから助けて欲しい事でしょうが、誰も助けられない。
私もです。
せいぜい、ネット上で熊農場廃止の署名をするくらいです。
私が精いっぱいやっても微力なのでとりこぼしは出る。
実は、虐待死のニュースがあったりすると、これも自分の心と波及力が至らなかったためだと、その子供に申し訳なく、無念に思っています。
自分が幸せになる事にもためらいがあります。
幸せの波及を起こす反面、幸せな人が増える事で不幸感が増す人たちがいる事、その人たちが精神状態による棲み分けの二極化が起きる事でさらに救われづらくなる事。
幸せになる事で「平和ボケ」して悪を想像できなくなる事の弊害などを考えてしまいます。
反骨精神というほどのものかどうかわかりませんが、
職場などで強引な人や立場ある人が力づくで状況を思うままにし、全体の良い流れを妨げているような状況で、私は、徐々に、あるいは急速に、状況を変える事をしばしばして来ました。
それは反抗心によってはなしえません。
大抵は、問題になっている人の精神をトレースし、気づきの材料を置いて行く事で可能になります。
私は幼く見えるため、しばしば中高年の男性に見た目を気に入られ、「感情的でかわいらしく媚びてくれる、自分より見識が下のオンナノコ」を期待され、思い通りにならないとわかると嫌がらせをされたり、場を出されたりという事が何度かありました。
そういう方は、私がご自分より仕事ができたり、ものがわかっている部分があるとそれだけで気に入らず、大抵は、根も葉もない事を言い立てて罵ったり、あらぬ噂を立てて陥れようとしたりなさいます。
家庭がありながら私に本気で懸想してしまわれ、その恐怖からそういったはかりごとをした方もいました。
場を出されると決まれば私個人への害はおそれず行動する事ができますので、確実に問題の人の認識をひっくり返してそこを後にして来る、というパターンが多かったです。
自己満足になってしまっていないかと何度も考えましたが、そのご本人には認めたくない事を認めるという苦痛が伴うケースもあれど、他の方たちのためにはなっただろうと、思っています。
それを正直に話しても、最初は「こんな小娘にそんな事ができる訳がない」
「できてたまるか。事実であっても認めない」といった感じで信じてくれない方もいるし、認めても、ただの自慢話として受け取ったり、向上心の裏返しや自己価値感の低さからか、劣等感を感じて攻撃して来る方も絶えません。
いつかはそれもご理解いただけるだろうと思っておりますが、結局のところ、最初から抵抗なく波風立てず受け取っていただけるだけの力が色々な意味で私にないようです。
ゆっくりでとりこぼしが出ても、自分に無理のないようにやって行くのが私の限界で、設定された魂のレベルなのでしょうか。
たとえば私の寿命を何年か差し出せばつらい思いをする人が何人減る、という事であればそれはそうしようと思いますが、(つらい思いをして100年生きる人が1人いるより、思い通りに50年生きる人が2人いたほうが私は良いと思っていますので)、そうは行かないのですね。
戦争や犯罪などで一見無駄に苦しめられ浪費されて行く命にも意味があるのでしょうか。
私には何の役割が与えられているのでしょうか。
それは、私が考えても仕方ない事なのでしょうか。
 
2014年2月17日 月曜日 午前7:20返信
田彩乃様
メールを拝見していて感じるあなたの知性と、論理的物事の見方に対してどうお答えすればよいのか、私の技量不足を痛感するところです。
そのような訳で、必ずしもあなたの望む返事にはならないかと思いますが、その点はご容赦いただきまして私の意見を述べさせていただきます。
さて、転生に対する受け止め方、考え方については皆さんそれぞれの知識によっても違いがあるようです。
それはその方の人生での知識や様々な経験からくる価値観にもあり、この世での実体験もあり、自分が気づいてはいなくても過去世での経験による魂への潜在意識などが影響を及ぼしていることにもよるでしょう。
転生を信じない、否定するという人に比べれば、転生を信じる人の場合、個人個人が魂のステージにこそ差はあっても、まだ次のステップに進むための心の準備ができているといえます。
「自分が死ぬまでに結果が出なくても、自分が生まれ変わってその恩恵を受けると思えばがんばれる」と言っていた人がいて、その方はあくまで自分のためにひたすら転生を信じていました。
その方の場合は、がんばらなければ社会に認められないので何とか自分を日々の生活につなぎとめるため、己救済のために転生を都合良く信じた事例だと、私には思われました。」とありましたが、
恩恵を受けるという言葉は、単純に今世の行いが来世に結果となって現れてくるというように捉えて良いのではありませんか?
因果応報があり、原因と結果の宇宙大自然の法則を自分の人生で表現した極自然の思いだと感じますがいかがでしょうか。
果たしてご本人は自己救済のためと思って転生を信じているのでしょうか。
仮にそうであっても良いではないですか。
そこから時を経て相互扶助の精神に昇華していくことを待つことが大切ではないだろうか。
やがて真実を悟る時がくるのです。それまで優しく、心静かに待ってあげてくださいな。
私たちはこの地上で生きているがために、物質の恩恵をいただき生命をつないでいることは否定できない事実であります。
そのために物に拘り、お金に拘りながら、形に見えるものに拘りながら生きているということも事実であります。
ただ人によって拘り、執着の程度の違いがあるだけといえるでしょう。
この3次元物質世界では、努力してもそれがすぐに結果が出るということにはなりません。
物理的制約のなかで生命活動を行っているからです。
むしろ報われたという実感がもてるまで相当の時間、月日、年月がかかるし、人によっては、今世でその喜びを実感できないままに帰幽しなければならない人も多いかと思います。
それだけに自分の努力が今世で報われなくても、あるいは恩恵を受けなくても来世でその恩恵があるなら頑張れる。
こう思い、こう考えるのはこの物質世界である3次元の地上で生活する人間としては何ら不自然なことではないと思うのです。
人は最初は誰もが自分の為を思い、その思いがやがて人生経験のなかから昇華されて向上し、他の為にという『利他心』にまで成長していくものではないでしょうか。
社会のなかで生きる私たちは、
人の頑張る姿に感動もします。
励まされます。
涙もします。
自分の為に頑張ることは悪いことではありませんね。
自分の為に頑張っていた人も、
時が来ればやがてはそのような経験が己の心の成長の糧となり、
心の充足にもなり、
余裕にもなり、
やがては他の為に心を尽くすということによって、至上の喜びを体験するにまで心が進化していくでしょう。
成長は一夜にして成されるものではありません。
どのような人を見ても『待つこと』を心に置いて接していきたいものですね。
特に、自分から見て未熟と思われる人をみたならば尚更のことです。
人間は他人を見た時にこそ、そして接したときにこそ自分の本質が表面に出てきます。
その表面にでてきた自分を他人が見聞きし、感じ、思い、反応し、行動となって返ってきます。
「今世で魂のステージの低い人」というのは何を以って基準とするのでしょうか。
人間は本来、生まれた環境、土地、物質経済の多寡に関係なくみな平等に丸く豊かな魂をいただいて地上に降りているはずです。
ただ違うのは、輪廻転生する過程において、何かしら心に曇りを宿し、執着という不調和な想念を重ねた度合いの違いだけのことでしょう。
しかしそれでも、人間は逆境や試練によって気づかされる心をいただいております。
私たちはいま、目の前にいる同僚、部下、上司、お客様たちのなかに、もし不調和な想念と感じられるような方がいたとしても、決してそのことで自分が心を動揺させたり、不満の心や、愚痴や怒りの心をもってはならないでしょう。
仮に、相手が間違っていたとしても、自分が正しいとしても、自分を押し通すような言動は避けなくてはなりません。
どれほど正しいことでも作用すれば必ず反作用が生まれます。
これは宇宙大自然の法則でありますが、私たちの心にも同じ働きとして常に日常生活の中で作用しております。
相手が敵対してくる。
傲慢な態度で接してくる。
これは自分の心の働き、言動、魂から発する波動エネルギーの特性がそう部分を持ち、発しているために起こる結果だと受け止めたいものです。
言いかえれば、他人は自分を映し出す鏡ともいえます。
人間対人間の関わり合いは、見 えない心の関わり合いであることを肝に銘じて知っておきたいものです。
人間が成長して育っていくには時間が必要ですね。
私がこのようなことを言う理由は、24年間営んでいる整体院で多くの若い人たちを育ててきたなかで気づいたことが『待つこと』だったからです。
医療専門学校を卒業して国家資格を持ち、どれほど知識豊富で弟子入りしてきても、合理的に、論理的に、知識偏重に過ぎると不思議とお客様から敬遠される傾向にあることも弟子たちの姿から学びました。
人はそのようなことより、心のこもった対応、言葉、態度、施術、押し付けでないもの、そして最後に技術を望んでいることも学ばされました。
また、どれほど素晴らしいことも、知識も、論理も、技術も、方便も、望んでいない人には余計な事でしかなく、精神的負担を強いることになるものです。
喉の渇いていない人には美味しいお茶を差し上げてもそれほ喜びもしませんが、渇いている人はコップ一杯の水をあっという間に飲み干してしまいます。
あなたのお父様の生きざまはお父様ひとりをみれば決して良い人生とは言えないでしょう。
しかし、あなたが言う ようにお父様のお陰でこの世に生まれさせていただきました。
そのことによってあなた自身、非常に厳しい家庭環境のお陰でとても深く学ぶことがあったかと思います。
親子愛の大切さ、あり方、素晴らしさ、人間は試練に立つほどに深く学びを頂くものですね。
お父様自身はあの世では相当のご苦労をされることになるでしょう。
何故なら、たとえお父様自身が恵まれない家庭環境に生まれ育ったのだとしても、自身の精神をどうもって人生を学ぶかはお父様自身の心一つにかかっていることだからです。
この世で心を曇らせて死んだ人間が、亡くなった途端に天国に生まれることなどできない相談です。
この大宇宙大自 然のなかには慣性の法則が働いています。
この法則は地上で生きる私たちの心にも働いている、変えようのない不変の法則であります。
不調和なままに心を曇らせて亡くなった魂は、そのままの状態であの世に移動することになります。
これは死者を近親者に降霊することで語りだす霊の言葉によって現在の置かれている状況が如実に証明するものです。
一般的に言われている死んで仏になるということの意味は、ただ亡くなったことの代名詞として「仏」と表現しているだけであって、大きく悟られた方という意味での「仏」とは大きく異なります。
ですから、大方は生前の生きざまがそのままあの世の姿と思って間違いではないでしょう。
当分は心の修正にご苦労されることになろうかと思います。
お父様は数百年後か千数百年後に転生できた時に、今世での心の業をどれだけ清算できてくるか否かで来世の人生における大きなガイドラインが定まってくるかと思います。
人間は強くもありますが、弱くもあります。
みんなそれぞれに持ち合わせた個性、気質、徳性、いろいろあります。
私自身、弱点もあります。
あなたは「私は人に要求が薄く、平坦で、熱い心を持ちづらい」といっておられますが、しかし、こうしてあなた自身のお話しを客観的に観ておりまして感じることは、目先の小さな事には要求が小さくても、決してあなたがおっしゃるほど、必要なところでは要求が薄くもなく、平坦でもなく、熱い心がない訳でもないと思えるのです。
このことは決して否定されることでもなければ、十分に心の内にほとばしる求道心が随所に表現されているものと思います。
そして、その証拠に、中国の「熊農場」の問題に対する疑問と自分自身への歯がゆさ。
そして自分が幸せになることへの抵抗感、自分がこれ以上できなことへの無力感と罪悪感。
れらの感情の働きはそのまま裏返しの感情でもあります。
心が希薄でもなければ、情熱の欠如でもありません。
心にあるからこそあなたの文章に表現されてくるのです。
ただあなたがもう少し楽な心で生きる為に心していただきたいことがあります。
それは自分を責めないこと。
過剰に責任感を持たないこと。
自分を解放すること。
そして自分が幸せに生きることに素直になること。
これまでのあなたの努力には感銘するものです。
あなたはご自分の人生すなわち寿命を全うしなければなりません。
自分を犠牲にする心は崇高なものですが、しかし、心身を犠牲に することは必ずしも尊いことではありません。
これまであなたは十分に心を尽くし、努力をされてきました。
私からあなたへのメッセージとして言わせていただけますなら、
「あなた自身を赦し、他を赦し、他の成長を待ちなさい。」
失礼いたしました。観童
2014/2/17受信 藤田綾乃
観童さま
重ねてご丁寧なお返事ありがとうございます。
(私のお話しした事例に対して)
「果たしてご本人は自己救済のためと思って転生を信じているのでしょうか。仮にそうであっても良いではないですか。そこから時を経て相互扶助の精神に昇華していくことを待つことが大切ではないだろうか。やがて真実を悟る時がくるのです。それまで優しく、心静かに待ってあげてくださいな。」
書き方が悪く誤解があったらすみません。このエピソードを挙げたのは、転生を信じる事が自己救済のように思えてしまうという私のマインドブロックの説明をしたかったための単純な補足のつもりで、私はそれをいけない事とは思っておりません。
書き方が悪いのかも知れず、言っても信じていただけないかも知れませんが、
私は人を裁く気持ちも見下す気持ちもありませんし、人が変わらない事に対しての怒りも焦りも本当にないのです。
ここ数ヶ月「テンションが上がる」という経験を初めてするようになっていますが、
上がり下がりの波が極端に少なく、衝動的の逆だと思っていただければと思います。
もし私が、思い通りにならない事に怒ったり投げ出したりする精神性であれば、
観童さまに自分の本意が伝わらない感触なのにも憤慨して、このお返事も書いていない事でしょう。
(すでに書きましたが、私はただ待っているだけでなく、目の前の人の認識を意図的に促進する事もできますし、それに時間がかかる事も経験的に知っています。
関わる時間さえあるならば、その人の世界観をトレースし、積極的にその人の気づきの材料を置いて待つ事ができます。(この時、自分本来の価値観から見て相手を裁いたり感想を持つのは邪魔でしかありません。
ひたすら相手になりきる事で相手の本当の要求が見えて来るのが重要なんです)
心が拒否している人はまっこうから事実を突きつけても受け入れてくれませんから、それ以外の方法をとるという事です。
これまでのところ、目の前にいた人に、何もできなかった事は一度もありません。
具体的にお話ししたらなるほどそういう事もあるのかと思っていただけるかも知れませんが、長くなるので今回は書きません。
これも誤解されるかも知れませんが、これまでに黒星なしだからと言って私は得意になっている訳ではありません。毎回が出たとこ勝負で、余裕の顔で話しながら内心必死に、
手探りで相手の理解ポイントを見つけて行くのです。
毎回、ああ今回こそはもうダメかと思います。それでもあきらめずやっていると、不思議な事に、どこかでその人の認識をひっくり返すタイミングが訪れます。
いい気になっている余裕など私には一瞬たりともありません。
私など遠く至りませんが、世界銀行の副総裁だった西水美恵子さんという方がおっしゃっている事がとてもよくわかります。
ご興味あれば読んでみてください。 
ちなみに、その転生の話をした方に私は直接
「私は子供たちのため次代に良い世界を残そうと思えば転生を信じる必要はない」と言った事があります。
この方は「あなたの考え方のほうが理想的だし、理にかなっているし、今の自分ならば、あなたと同じように考えられる。
自分は転生を信じ始めたときは利己的な理由だったし、今も人間は基本的にそういうものだと思っている」
と言っていました。ですからこの方は本当に世界のシステムとしての転生があると確信しているのではなく、単に自分にとって合理的だから便宜上信じる事にしただけとご自分で言っていますし、その時点ではそれで良いのだろうと私も思っています。
「しない善よりする偽善」だと思います。
ただ私自身はこの方のように「自分に便利だからそう思う事にした」という発想が
にわかにできないという事をご説明したかったのです。
それよりも「安易な自己救済としての妄信ではないか。都合が良いから信じたでは、実際にいるかも知れない神仏や、真実への冒涜なのではないか」と思ってしまうのです。
そしてこれはそう考えている方への批判ではありません。
安易な自己救済を良しとしない事で正気を保って来た私特有の性質が邪魔をし、一段上の理解をしなければならなくしているのです。
今の私の認識に一番近いのは、神仏はサンタさんみたいなものだという事です。
子供にとって、信じている限りプレゼントだけは届くから「サンタさんはいる」という認識で支障ない。
ただし、この子供の立場で終わるなら良いが、プレゼントを用意する親の立場になったら
「サンタさんがいるから任せとけば良い」という認識でいては、子供たちにプレゼントが届かないのです。
私はこの「用意する」役割を果たすように生まれついて来たのかも知れないと
今回の一連のお話を通じて思いました。
サンタさんは実際にいるのかも知れません。
しかしすべての人には手が届きません。
その意思を理解し継ぐ者がいなければ必要な人々すべてにプレゼントが行き届かないのです。
こういう事を思い行動する存在も含めて、サンタさんの意思の波及なのではないのかと思います。
おっしゃる通り、私は人に対しての目先の要求というのはほぼ持てないのです。
そういう気持ちは物心ついた頃に消えてしまったからです。
抵抗できない内から相当イヤな事をされて育ちましたが、私の親たちは話してわかる相手じゃないし、物事は自分の問題としてとらえねば解決できない。
自分の力で解決できないのなら耐えるしかない。
つまり起きる事は必ずしも自分の落ち度によるものではないが、解決するのは自分しかいない。誰も助けてはくれない。
この親はさんざん虐待したあげく自覚もなく何の責任もとらずに死ぬだろう。
自分の人生は自分でつくるしかない。
生まれつき自然にそのように考えていました。
私の見た目に一方的に懸想し、勝手に恐怖して私に濡れ衣を着せて
クビにする上司がいたとしても、それは私の見た目に起因する事ですから、私の体が引き起こした事です。
女性が、自分にその意思なくとも生まれつき男性を惑わすようにできている。
これはキリスト教で言うところの「原罪」の解釈のひとつであると私は考えています。
落ち度ではないが原因はこちらにあるのです。
私は基本的にすべての物事にそのように思っています。
今私が望んでいるのは、すべての生物がつらい思いをしない世界だけです。
父やかつての私のような人間がもう一人たりとも出て欲しくないのです。
そう思って目の前の小さな事を日々微力ながらなしていますが、これで良いのかと自問の繰り返しです。
れ自体が良くない事なのだろうかとも迷いますが、私が何をすべきか考え続けるべきなのかとも思います。
かと言って養護施設などのカウンセラーさんにお会いした時は、ああこれはとても私にはできないと思いました。
虐待された実経験がある人は、自分がやられてしまうので、一般的には、直接そういう仕事に就かない方が無難な事が多いようです。
ここまでお話しして来て、アドバイスを求めさせていただけるのであれば、
私が何をすれば良いか、具体的に思い当たる事がありましたら、
いつでもご連絡ください。お願いいたします。
「魂のステージが低い」というのは表現が良くないのかも知れませんが、
今までお話しして来た事を基準に言っているつもりです。
先ほど書きました通り、もし私が他人を見下す気持ちで書いているとおとらえになり、
それをいさめていらっしゃるのであればそれは違いますと申し上げるしかありません。
 輪廻転生を繰り返し、最終段階に来たら、もう生まれ変わる必要はないから「入滅」する。それがお釈迦様であったのであろうと私は考えます。
宗教上正しい解釈かどうかわかりませんが、私のこの認識でお話をしますと、
ここで言う「魂のステージが低い」は、その最終段階から、より前にいるというだけの事です。
かつ、それは7時発の電車と8時発の電車の違いのようなもので、
別に現時刻においてゴールに近いからエライとかいう問題ではないと思います。
それぞれに自分にたまたま乗った客や貨物を運び、役割を果たしているだけでしょう。
私がたまたま「魂のステージが最終段階に近い」状態で今生生まれたために恨みつらみに染まらず虐待に負けずここまで育ち回復に至ったのだというお話の流れだったのではないのでしょうか?
私は誤解しておりましたでしょうか。
何か間違いがあれば今までのお話の理解に関わる事ですので、ご訂正いただければと思います。
余談ですが、私は回復以前にスピリチュアルな人にお会いした事があります。
その方は私を見るなり困ったような顔をして「あなたのオーラは、極端に大人な部分と子供な部分があって、とても変わっている。
似たような人には一生会えないかも知れない」と言いました。
これは今考えると当たっていましたし、やはり珍しく思われたようです。
今は私も、人を見ると、その人の精神段階がわかる事があります。
以前、聖人画のように神々しく顔が光っている全盲の方を見た事があり、
目の見えない方は見たものにとらわれないから、精神性が高くなりやすいのだろうなと思いました。
ですからオーラが見える人も本当にいるのかも知れません。
あの世も転生も、あるのかも知れないし、あれば良いと思っています。
長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました。(藤田彩乃)
 
2014年2月18日 火曜日 午後10:58返信
藤田彩乃さま。
こんばんわ。夜分に失礼致します。
あなたの真意を正しく理解できず大変失礼いたしました。
メールでつづる言葉というものは直接話しあう会話とはことなり、往々にしてこのようなことがおこりやすいものです。
しかし、それも私の至らなさ故のことですのお許しくださいませ。
さて、転生に関しては地上人類71億6千万人のうちの殆どの方が確信を持てているのかとなるとそうは思えません。
なかには根拠もなくそう信じている人もおられるでしょうし、否定される人たちもいることでしょう。
信じるにしても
『都合がよいからでは神仏や真実への冒涜になるのではないか』とのお話しですが、このことを冒涜という言葉で表現するまでではないかと私個人としては思います。
私自身は、冒涜という言葉の意味合いとしては一番重い罪と解しております。
それでは一番重い罪はとなると『両親を介して神より頂いた地上生命を自ら絶ってしまうこと』だと解しております。
つまり自殺です。
その点では『転生を都合がよいから信じた』であっても如何ほどの事でもないと思います。
そして冒涜という言葉を以って表現するまででもない、とても地上人間的視点でしかないと思います。
こういったことを神仏がどのように判断されるかはわかりませんが、もし、仮にです、私が神の立場とすれば、「可愛い子らよ、あなた方の成長を楽しみにしているよ」です。
まったくもって冒涜とは思いません。
何より神仏の心に沿わない生き方、反した生き方となればやはり自ら命を絶つこと。これだと思うのです。
子が自殺して一番悲しむのは親でしょうから。
経緯はともかくとして自殺したことそのことは本人 の心の罪です。
神仏と人間の関係もまさにそうではないかと思うのです。
これはあくまでも「冒涜」ということに関して私の考えを述べさせていただいたものでしかありません。
ここで質問をさせてください。
「目の前の人の認識を意図的に促進する事もできます」
「これまでのところ、目の前にいた人に、何もできなかった事は一度もありません。」
「これまでに黒星なし」
「どこかでその人の認識をひっくり返す」
これらの言葉から推察すると藤田様はカウンセリングのようなことをしておられるのでしょうか?
「私の見た目に一方的に懸想し、勝手に恐怖して私に濡れ衣を着せてクビにする上司がいたと しても・・・・・・・・」
これは実際にあなたを首にした上司がいるのではないですよね?
だとすれば起きていないことをこのように表現すると過激に感じてしまうのですが私の考えすぎでしょうか。
「女性が、自分にその意思なくとも生まれつき男性を惑わすようにできている。
これはキリスト教で言うところの「原罪」の解釈のひとつであると私は考えています。」
あなたのこの解釈を考えますと最終的に神は原罪を女性の体につくったことになりませんでしょうか?
私にはそうは思えないのです。
本来、女性も男性も非常に完全なものとして創造された存在だと思うのです。
男女がお互い足らざるもの を補い合い融合することで真の愛にまで昇華し到達するものと捉えております。
ならば何故問題が発生するのでしょうかとなると。
原因は、あなたや女性にあるのではなく、歪んだ感情で女性をみる男性個人の不調和な想念にあるのだと思います。
本能、感情、知性、理性、これら基本的心の働きが程良くバランス良く働いてこそ人間が人間であるものだと思います。
ところがこれらのどの働きが突出しても問題が発生します。
本能や、感情が突出して理性が欠如すると一方的な懸想ということにもなったり、セクハラということにもなったりしかねないでしょうし、長じては性犯罪にも発展しかねません。
例えば、キリスト教では「人間は生まれながらにして罪を背負う」
としているようですが、必ずしも聖書が間違いなく真実をのみを伝えているとばかりはいえないのではないでしょうか。
この世に生れて帰幽するまでに心を磨き、生まれたとき以上に成長して帰る人もいるでしょう。
また逆に生まれたときの魂を曇りで覆ってしまい、心に業を重ねて帰る人もいます。
この違いはどこにあるのでしょうか。
人間が罪を犯すことの原因こそが心の働きのなかにあり、執着、拘り、驕り、傲慢、等々・・・・・。
ただ人間は気づかぬうちに相手を誘発するような言動をしていることがあるかもしれません 。
そういう意味ではまったくないとは言い切れないものかもしれませんね。
それだけに自分の言動には気をつけて生きたいものと私自身は思っております。
ありがとうございます。
観童
2014年2月20日 木曜日 午前9:14受信
観童さま
かさねて丁寧なお返事ありがとうございます。
私の文章でどこまで伝わるか不安でしたが、
ご理解いただけまして安堵と感謝をいたしております。
「冒涜」についてのご説明、ありがとうございます。
なるほど、教えていただけば私もそのように思います。
軽々しく冒涜という言葉を用いてはならないと反省いたしました。
ありがとうございます。
私がカウンセリングのような事をしているのかというご質問ですが、まず私は、コーチ職の方のサポーターとして勉強させていただいている他、現在無料でモニターコーチングをさせていただいています。
(仕事にして行きたいので、今年後半あたりから有料化させていただく予定ですが、
それまでに勉強させていただくため、希望者の方たちに無料モニターになっていただいてフィードバックをいただいている段階です。
また、コーチング単体では生業にするのが色々難しく、事業の軸としては、セラピー・コーチング職の方々の事務的支援を考えており、コーチングは主にそのための傾聴・支援ツールとなって行くと考えています)
私はそれにライフペイジズというカードを使いますが、スピリチュアルなものではなく、
「今の自分だと思うカード」などテーマに合ったカードを選んでいただき、そのカードに解釈を加えて行く過程でご本人の価値観が浮き彫りになり、それを軸に今後のライフプランが組めて行くという、きわめて論理的な性質のものです。
たまたま先日セッションさせていただいた知人が当日18日付の自社ブログに書いてくださったので、もしご興味とお時間あれば読んでみてください。
私はまだ認定コーチ講座を受けておらず、公式本流のやり方と違うので、この段階では
ライフペイジズセッションと表記しないでほしいと考案者の方には言われておりますが、今まで例外なく結果は良いです。
こうして何か結果を数多く出せる事で、今はやっと何もできていないという苦しみを手放せつつあります。
何もせず他者の苦しみを思って苦しんでいるより、いま自分にできる事を数多くした方が、彼らの苦しみを救える事に近づけます。そういう意味では、私は根拠なく苦しみを手放すという事が依然できない訳ですね。
しかし、支援的な事を仕事にしているかという事は、本質的な問題ではないですよね。
支援職でない方の中にも、日常生活の中で優れた支援をなされる方たちがいらっしゃいますし、観童さまのように無償でライフワークとなされている方もいらっしゃいますから。
私は日々、すべての対話が一種のコーチングだと思っております。
一番手ごわいのは、コーチングを望んで受けに来るような人たちではありません、私の親のような蒙昧な人たちです。
その人たちと調和してやって行くという事に私は日々挑戦しています。
そしてコーチングの本質とは、きれいな鏡となって相手を映し出し、気づかせる事だと思います。
「私の見た目に一方的に懸想し、勝手に恐怖して私に濡れ衣を着せてクビにする上司がいたと しても・・・・・・・・」のくだりは、まあ言葉足らずな表現ですが、これにかなり近い事は事実ありました。
そしてそれは、私がその方を支援し続けたためにそうなったのですが、ひきかえに、精神に異常をきたしていた彼に回復の糸口をつけたので、これでまったく良かったと思っています。
人一人精神異常から回復するなら、私が仕事をかえるくらいの代償は何でもないでしょう。
拒絶され、その方の権限をもって場を出されたのでもうお会いする事はありませんが、
いまだどうしているかと案じ続けています。
その方は私の回復の原動力となった、私が初めて世界観を共有できた方だったのですが、
育ちにより精神に歪みが生じていて、その一部が私とマッチしました。
人間の成長には、内観的な事や、人とのマッチングが有効なのだと思います。
彼は私に本音を話して安堵を得たものの、その事自体や恋愛感情を抱いてしまった事におびえ、私の在職中も、私が頭のおかしい女だと他の人に吹き込み、私に話してしまった事や、私と関わりがあった事自体を私の妄想だとして無かった事にしようとずさんに企んだりしましたが、結局は普段の私の様子や筋の通り方から、私のほうが真実を話していると他の方に気づかれてしまい彼の嘘がバレてしまいました。
そんな人ですが、彼も好きでそのような精神性になった訳ではなく、気の毒な来歴があったのです。
何不自由なく育てば天使のような善人になり、苦しむ人が試練に負ければまた修行を積む事になる。
私には不公平に思え、自分の意思でそれを選んで生まれて来たというのがまだ信じられずにおります。
ちなみに、その事例のような方向性の事はしょっ中ありますよ。
まさかそんな事があるものかとお思いになるならば、観童さまご自身が良い心の方だから、そのような場面に出くわす事なく済んでおられるのかも知れませんね。
たとえば私は主に中高年の男性に見た目を気に入られ、ステレオタイプな彼らの理想
「感情的でかわいく媚びてくれて自分より頭のわるいオンナノコ」を期待される事が数多くあります。
しかし私は、決して人間としては幸せでない育ちのため、大抵の人より考える訓練ができていて論理勝ちです。恐怖や危機感は人の論理性を育てますから。
私が意に沿わないと見ると気を悪くした彼らに嫌がらせされたり理不尽に罵られたり怒鳴られる事は珍しくありません。
一般的な会社勤めの方ならそんな中高年の男性をすぐ想像できると思います。
どうも、自己承認感情に飢えた男性は、若くかわいらしい女性の保護者(あくまで自分が上)でいる事で自分を満たそうとする事がしばしばあるようなんです。
単に私が努力したために彼らより仕事ができたり、ものがわかる部分が見えただけでも、
彼らは喜んだりほめたりはできません。
生意気だ、バカにしやがってこの小娘が、と怒り、おびえ、俺のほうが上なんだお前に発言権なんかないんだと必死で私を陰に押しやってしまおうとします。
そういう方はたいてい本音や欲望を見透かされる事が嫌いで、人間関係を上下や勝ち負けだと考えて自分の下に人をつくる事で自分を保とうとし、ちょっとした事も見下されたと受けとります。
おわかりだと思いますが、私を受け入れる訳がありません。
しかも人間誰しもそういうものだ、それが社会性だと思っている事も多々あります。
そういう人が人事権を持っていれば、私のほうが「こいつは社会性がない」と見なされたり、まったく筋の通らない難癖をつけて会社を辞めさせられる事も当然あります。
私が仕事でベストを尽くす事と彼らとの関係を尊重する事は矛盾するのです。
信頼関係を築く事もできますが、あまりにもコストがかかりもったいない事が多く、私は今後、会社勤めは避ける事にして、他の道を模索しています。
とは言え当然、私の言動に配慮が欠けているというのもあるんです。
観童さまでさえ、私の文章を、人を見下しているようにおとりになられたかと思います。
私の方にまるで悪気がないため、そういう受け取り方をする方がいるという事に配慮できず、よりによってそこが敏感なポイントになっている人に対して悪くとられる言葉を発してしまって激怒される事が今でも時々あります。
これが課題と言えば課題ですが、何しろ私は悪意が強い人の精神が実感できないので、
いまだどうにもならないままです。
私の精神不全と回復の経験すらも、ある層の人たちからは嫉妬され、自分の物語より力を持つとして恐れられ遠ざけられます。
あんな事は単純にない方が良いに決まっているのに。
特にいまの40代以上の方に多いようなのですが、人を内側からでなく外側から見てしまい型やノウハウにこだわって本質を見失ってしまいがちな、欲しかモチベーション源を持たないある種の中高年の男性は、私にとっては特におつきあいが難しい事の多い層の方々なのです。
戦後から今にかけて、日本ではそういう人、特に男性が量産されたのだろうと認識しております。
今はその歪みを直すときなのではないでしょうか。
こうあるべきという型を外し、まずありのままの自分を出す事で解決に結びつく。
人単位の上下関係ではなく、個々の能力を部分ごとに切り分けて生かす選択ができる。
そんな考え方が主流になって行くのではと思います。
いかがでしょうか。藤田彩乃
以上。ここまでが全文です。
総括
私がいうまでもなく、言葉が大切なものだと理解しているのは誰もが思うところかと思います。
メールという文章のやり取りで自分の思いや真意を伝えることの難しさは、直接やり取りする会話以上のものがあります。
一般的には、これまでの経験で得たことが自分の価値観となって、それが言葉に表現されていることも多くあり、そのことによってどのような言葉づかいで表現するか、伝えるかでスムーズに受けとめられる場合もあれば、「んっ?」と思わせて読者の心に疑問やあるいは拒否反応が起こる場合もあるかもしれません。
正しいと思って発した言葉が、直接の会話の中でも、文章でもそうですが、実は、
断言するような威圧感、圧迫感となる場合もあり、
強引な発言と受け取られることで、反発心をもたせる場合もあり、
相手のプライドを強く刺激して怒りを駆り立てることもあり、
第三者からみれば必ずしも納得のできる言葉づかいではなかったり、
と様々な受けとめられかたがあるものです。
若い女性が関わりあった年配の人たちの中には、その人にとって許しがたい出来事があったかもしれないということを考えれば、ご本人にとって深刻な事態であろうことは理解するものです。
しかし、そのことで戦後から今にかけて「人を内側からでなく外側から見てしまい型や、ノウハウにこだわって本質を見失ってしまいがちな、欲しかモチベーション源を持たないある種の中高年の男性が量産された」と認識することもまた偏りすぎた見方に思えてならないが読者の皆さんはどのように思われるのであろうか。
「今はその歪みを直すときなのではないでしょうか。」ということは、戦後の日本男児が歪んでいるから、直すときだと解釈されるのですが、このように受け止める私が歪んでいるのかもしれません。
私は木が林立する豊かな自然環境のなかで暮らしていますが、山を散策しながら自然環境の健康を考えるとき。
数本の木を見て山全体を語ると間違いが起きる場合もあるように、山全体ばっかりに目を向けて一本の木を見ない事もまた、小さくも重要な実態を見逃す場合があることを知りました。
いずれにしても事の真実、実態を、偏らずに観るということは大切であるが難しいものでもある。
「今生与えられた魂のステージみたいなものがあるのだろうか、これは自分の意思で上げる事ができるのだろうか。」
これは人間の魂そのものが神からの分霊と解釈をするならば地上人類全ての人間に与えられた魂が備わっているということになろうかと思います。
そしてまた今生の人生で学び、努力をすることで魂のステージは昇華されていくものですが、しかし、逆に、拘りや執着心、歪んだ価値観などによって魂に曇りを重ねて帰る場合も多々あるのである。
このような状態であの世で一定期間の心の修養を経た後に再び地上に生れては来るのだが、前回の地上生活で魂に重ねた曇りを修正しきれないままで誕生するならば、誕生した時点で過去世の業を背負って生まれることになる。
人間の魂のステージの違いは曇りの層が厚いのか薄いのかの違い、つまり、エゴ(業)の厚さ、深さの違いであり、言い換えるなら、心の調和度の違いといえるでしょう。
こうしてみると、今世の自分は過去世の自分の生き方の結果だといえるところもある。
しかし、過去世がどうあったとしても、それより今生の人生が最も重要であることは当然の理であろうし、このことは誰もが理解できることかと思います。
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になることが有りましたら下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。
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