親と子の心理
不自然で無理な躾
『立派で素敵なお家でございますわね。』(実際は世間並み以下の家)
我が家の居間に招いた来客についてきた幼い子どもの言葉である。
小学校4、5年生頃かと思われる女の子がいった言葉だが、その物腰と言葉に私は一瞬戸惑いを隠せなかった。
私の近くに土地を所有している男性が我が家に用事があってたまたま連れてきた娘さんなのだが、その親子を居間に招きお茶を差し上げたときに切り出したその子の言葉だ。
私はその子の言葉遣いに、何かしら子どもらしくないとても馴染めない耳障りな異様さを感じた。
後日、私は用事があってそのお宅に電話した。奥さまらしき女性の声がした。
『はい。』
『柳林さんのお宅でしょうか。』
『はい。』
『観童と申しますが、ご主人はいらっしゃいますでしょうか。』
『はっ?うちの春治が何か?』
『実は土地の件でお電話をしましたが。』
『何の土地ですか?それはどういう意味ですか?』
『実は草刈りの件ですが・・・・・・』と、何故かとっさに話しをはぐらかしてしまった。
非常に人を威嚇するようなもの言いの奥さまの言葉に何かしら知られてはまずいようなことがあると直感したからだった。
後日ご主人が訪ねてきて、あの土地は家内には内緒で購入したものだと聞かされた。
ご主人は教師をしていましたが、旧家に婿養子にはいって全く女房の尻に敷かれて男の威厳などないとぼやいていた。
あの小学生の娘さんのもの言いは、お母さんの教育の影響だったと合点し納得いったのだった。
躾、教育の在り方を考えさせられた一件だった。
父と子と母・その健全な在り方
親と子はどちらが先に生まれるのでしょうか?
このように問いかけましたらほとんどの人は、「そりゃ、わかりきったことだ、子が先に生まれることがあるものか、親が先に生まれて、親があって子供が生まれるんだ」といいうでしょう。
またそれを当然のことだと皆さん考えると思います。
常識的には、そういえるでしょう。
ここで敢えてわかりきった、このような問いかけをするのは、皆さんに、人生というものをもう少し深く、ちょっとだけ哲学的に考えてみてもらいたいと思っているからです。
「夫」といった場合、「妻がいる」と考えなければなりません。
妻がいない男を「夫」とは呼ばないでしょう。
妻がいない男は単なる一人の男にしか過ぎません。
それと同じように「妻」といった場合はすぐ、その人には「夫がいる」と考えなければならないでしょう。
一切は相依性である!
これはお釈迦さまがおっしやった有名な言葉です。
物事を考える場合、常にこのような考え方があってもよいのではないでしょうか。
それだけでもあなたの心に安らぎがうまれてくるはずです。
「相依性」であるというのは、この世の中に、それ自体として単独で存在するものは一つもない、ということをいったものです。
私達が生きてゆくのでも、よく若い人のなかで、勢いのある人や反発心の強い人の場合、「おれは誰の世話にもならずに、ひとりで生きてゆくんだ」と言うことがあります。
本当にひとりで生きてゆくことができるのでしょうか。
生きてゆくには食べなければなりません。
その食べる物は自分が作ったのでしょうか。
食べるには煮るか焼くかしなければなりませんが、ではその電気やガスやプロパンガスなど、自分で作ったのでしょうか。
電気やガス等があっても器具がなければ煮ることも焼くこともできない。
食べるには、どこかで働かなければお金がもらえない、そこには働く場を与えて下さった人の存在があるでしょう。
一人では仕事ができません。
上役があり同僚があり部下がいます。
機械は全て自分が造ったのでしょうか。
違います。
人間は裸ではいられませんから、衣服を着ています。
それならその衣類は自分で作ったのでしょうか。
例えばウールのシャツ、セーター、背広を着ているとしたら、まずそれらを作ってくれた人があります。
毛といえば羊毛です。毛は羊から取るわけですが、その羊は自分が造ったのでしょうか。
住む家はどうでしようか。「いや、わしが金を出して造ったんだ」という言い方をよくしますが、それはそれでいいですが、まさか自分で建てたわけではないでしょう。
建築屋さんがいて、設計屋さんがいて……たくさんの人の手がかかっています。
家は、木材で、石で、金属でと、いろいろの組合せでできているわけですが、その木材を、玄関の大理石を、セメントの原料となる石灰石を採取した人がいるでしょう。
一人では仕事ができません。
上役があり同僚があり部下がいます。
第一に自分がひとりで生きているといったって、呼吸しなければ死んでしまいます。
それなら、空気を自分で造ったのでしょうか。
水がなければ生きてゆけませんが、水は自分でつくったのでしょうか。
それに太陽がなければ生きてゆけませんが、太陽は一体誰がつくったのでしょうか。
お蔭さまで
「おれはひとりで生きているんだ」という自我意識の強い人間が出てきたのは、遡ってみると明治維新になって西洋の合理的精神、自己中心の考え方が入ってきてからだと思われます。
昔の日本人は、何ごとでも「お蔭さまで」と感謝してきました。
相依性とは、お陰様ですということです。日本を悪く言う人が大勢いますが、日本人の優秀なさは様々な分野において活躍していることをみてもわかると思います。
西洋よりも今、日本の方が技術面でも人材の面でも世界を抜き出ています。
話題は変わりますが、インドでは昔から、男性器を「リンガ」、女性器を「ヨニ」といって神さまとして拝んでいます。
そのインドの性器崇拝信仰が仏教と一緒に日本に入ってきたのです。
男性器に似た岩に″しめ縄″を張ったり、女性器に似た割れた岩があるとそれを神聖な場所として拝んだり、ある神社の神体は男性器です。
昔のインドの人は子供が生まれてくることに不思議さを感じたのです。
男性器の先から出た″しずく々が、女性器の子宮に入ると、影も形もなかった所から人間が生まれてくる。
それは人間の力ではない。ふしぎな神さまの働きである。
だから男性器女性器にも、神様が宿っていると考えたのです。
インドへ行った日本人は、インドの人達が男性器「リンガ」女性器「ヨニ」を拝んでいるのを見て、エロだと笑ったといいますが、インドの人は、日本人が見ているような浅い考えで拝んでいるのではないのです。
その国の信仰、文化には、それが発生した原因があるのですから、それは尊重しなければなりません。
相依性の説明が、こういうことになりましたが、しかし、やはり一度は真剣に考えておかなければならないことだと思うのです。
衣食住すべてにおいて自分一人でというわけにはいきません。
ここに感謝という心の働きと、恩に報いるという行い、すなわち報恩があります。
十月十日で、お母さんの子宮の中で、赤ちゃんが造られるというその生命の神秘さには驚きと感謝が必要でしょう。
私がふしぎに思うのは、私には五人の姉妹がいますが、その五人が皆、顔形が違い、性格までも違います。
当たり前だといったらそれまでですが、その不思議さを思った時、生命の神秘さと親に感謝せずにはいられないということです。
子供を拝む
よい子に育てる秘訣は子供に感謝して拝むことです。
親だからと上から目線で物申してはならなりません。
一人の人間に対する気持ちで、子供と言えども尊重の気持ちを持たなくてはならないのです。
「あなた達は、ようこそお父さんとお母さんのところに生まれてきてくれました。」と、それぞれ顔形の違った、性格の違った、その顔をつくづく眺めて「もっと違った顔の、違った性格の子供であっても不思議はないのに、選りに選ってこういう子供を持って、この子供達が生まれてきてくれて、親となる喜びを与えてくれた」とそう思うと、その子供の顔をしげしげと眺めているうちに、自然に涙が溢れてきて「神さま、ありがとうございます」と、この子供達と親子となる縁を与えて下さったことに感謝せずにはいられないのです。
なぜ、子供のために泣かされるのでしょうか。
なぜ、子供が不良になるのでしょうか。
それは今いったような、子供に感謝するという心が親になかったからです。
子供にそういう感謝ができるためには、夫婦が調和していなければできません。
夫と不調和であると、「この人の子供を生みたくない」と思うでしょう。
すでに子供が生まれていたら、「この人の子供を生まなければよかった」とか、この夫が死んでしまえばいいと思っている女は、つい子供に向って「あんたなんか、死んでしまえ」といいたくもなるでしょう。
実際にそういう言葉を自分の子供に浴びせた親がいました。
やはり、その子は後々、心が病んでいました。
「出て行け」とか「生まれてこなければよかったんだ」とか「死んでしまえ」とか、いわれて子供はどんな悲しい思いをするでしょうか。
「生まれてこなければよかったんだ」といわれれば「それなら、生まなければよかったんだ」「生んどいて文句いうな」と、反抗したくなるのは当然でしょう。
我の強い女というのは、感情的になりやすく、自分を見失い、且つ、自分のことしか考えていないから、自分の独りよがりの言葉によって、どんなに夫の心を傷つけているか、どんなに子供が悲しい思いをしているか、そこまで考える心のゆとりがないのです。
夫や子供に嫌なことをいって、それで心が安らかになるわけがないでしょう。
自分でいって自分でプリプリ怒って、自分でイライラしている。
そういう自分のことしか考えない妻を持った夫、そういう女を母としなければならなかった子供はほんとうに気の毒です。
親と子はどちらが先に生まれるか、ということを説明しようとして、前置きが永くなりました。
親と子は同時に生まれる、というのが、哲学的な解釈です。
おわかりになるでしょうか。じっと考えてみて下さい。
先に、「夫」というのは「妻」があっていうこその言葉であるという説明をしました。
それと同じように、「親」というのは「子供」があってこその、子供に対していう言葉です。
子供がいない人は、親になる資格はあるが、まだ子供がいないから、ただの「男」であるか「女」であるか「夫」であるか「妻」であるかに過ぎません。
子供はないのに「親」とはいいません。
だから、子供が、オギャーと生まれた瞬間に親になるのです。
ということは、親と子の関係は同時に生まれるというのが哲学的な親子の関係の考え方です。
子供を持たれた方はおわかりでしょう。
「オギャー感激と感動を」と生まれてきた子供の顔を見た瞬間に「親になったんだ」というあの、もしそういう感激と、身の引緊まるような感動がなかったという人は今からでも子供が生まれてきた時のことを思い出して、感激と感動を新たにしてみてはどうだろうか。
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