何の為の人生?

人間は宗教のために生まれてくるのではない

朝の5時過ぎ、目が覚めると外ではもう野鳥の声がにぎやかに聞こえている。

丁度、雛(ひな)がかえったばかりの子育て真っ盛り、餌を運ぶ親鳥は忙しい。

私が朝ごはんをいただくときに見る子育ての光景は心を和(なご)ませてくれる。

野鳥には宗教などまったく関係のないことだが、ただひたすら雛に餌を運び立派に子育てをしている姿をみると、なまじっか人間の小さな分別など子育てには必要ないなと思えてくる。

さて日本における宗教の信者数は、文部科学省の宗教統計調査によると、合計2億900万人となり、日本の総人口の2倍近くの信者数になる。

その内訳は、神道系が約1億700万人、仏教系が約9,800万人、キリスト教系が約300万人、その他約1,000万人、神道系と仏教系だけで2億人にせまる。この要因として、以下が挙げられている。

(1)統計調査はアンケートで行うため、必然的に自団体の信者数を多めに申告する傾向にあるということ。

(2)日本古来の民俗信仰の基盤の上に、自然風土の中で培われた年中行事や、祭礼などを通じて、多くの日本人が七五三や初詣、あるいは季節の祭りを神社で行い、江戸時代の寺請制度の影響で、葬式やお盆などを仏教式で行うなど、複数の宗教にまたがって儀礼に参加しているということ。

例えば身近なことでは、日ごろ信仰心のないのに年末年始には神社や仏閣に参拝のために詣(もう)でて願い事する人々、葬儀はキリスト教や神道もあるが少なく、仏式で執り行う場合が圧倒的に多い。

キリスト教の信者でもないのにクリスマスでメリークリスマスとお祭り騒ぎをする。そして何よりも宗教団体の数の多いことが宗教人口が多い理由です。また宗教被害も多い。

キリスト教などでは洗礼を受けた時点でその宗教の信者に成るのに対し、日本ではその宗教の神を拝めば信者とみなすわけで、氏子(神社の信奉者)・檀家(寺を護持する家々)の家庭に新たな子供が生まれるとそのまま信者数にカウントしてしまう。

また、死亡しても信者リストから外すことなく放置するなどの例もあること。このような理由が重なって宗教人口が国民の総人口を上回っているのです。

しかし、現実には無宗教の人たちが相当数いることも事実である。この点は注目したい。

さて人間が生まれて来る時のことを考えてみましょう。

親が入信している場合、その信仰がどんな信仰であろうと、そんなことには関係なく、子供は自然に生まれてくる。この点では岩手山麓の野鳥と何ら変わらない。

親がある信仰をしているからといって、「お前はこういう生まれ方をしなさい。」と言う親もいなければ、自分は信仰していないから「こういう生まれ方をしなさい。」と教える親もいない。

自然の生命の法則に従って子供は生まれてくる。宗教や信仰に関係なくそのまま自然に子供は生まれてくる。宗教や信仰によって生まれ方が違うということはない。

だとするならば人生の目的である心(霊)の向上を図る、魂を磨くという生き方をするには別に今ある地上にある宗教や信仰に頼って生きる必要はないのではないか。

ある宗教の指導者は、その宗教を信じなければ幸福にならないと説くけれども、その宗教を信じなくなくても結構幸福に暮らしている人は多い。

無神論者でもないが特別ある宗教を信じていると言う訳でもないのに幸福に暮らしている人も多い。

またその反面に、その宗教を信じていても苦悩し、不幸だと言う人も多く、相談に見える方がいる。

その宗教を信じたら幸福になると言うなら全部の人が幸福にならなければならないはずなのに、入信しても幸福にならないと言う人があるのはどう言う訳であろうか。

生まれて来る時に宗教が必要である訳でもないし、現在あるような宗教を信ずることが必ずしも人間を幸福にするものではないと言うことであれば、現在あるような形の宗教というものは信じなくてもよいのではないのか。

人間が生きて行くうえに必ずしも現在あるような宗教は必要がないといっても、人間の心から宗教心を無くすることにはならないから、これまでの宗教というものに拘る必要は何もないであろうと思う。

人間が生まれて来ることと生きていくこと、それと宗教との関係はもっともっと考えてみる余地があるのではないのか。

このように考えてくると、我々は特別に何かの信仰を持たなくても、人間が神の子であることの尊厳を知り、人間は小宇宙であることを知り、心を大事にして、宇宙の法則に従って心(霊)を向上する生活が出来れば、それで良いと言うことに落着くのです。このことは死の事実による現象を見る時さらにはっきりとなってくるのである。

何故なら宗教の入信や信仰には全く関係なく、その人の心のステージ(調和度)によって往(い)くあの世の段階が違うからです。

むしろ宗教に入信することによってかえって執着をつくりあの世の低い階層に往く人が多いのは考えものである。

このことは信仰を持っている人たちの相談を受けてみてわかってきた実態であります。

信仰をもつと、ご本尊にすがりなさい、教祖を崇拝しなさい、他を救済するために布教しなさい、そして徳を積みなさい、読経しなさい、何か良いことがあるとそれはご本尊である○○の神様や教祖のおかげだといい、一向に苦悩が無くならないと、それはあなたの信心がたりないからだ、という。

つまり良いことはご本尊と教祖のおかげでよくないことは自己責任という都合の良い理屈で責任転嫁するやり方は定番です。

問題なのは、このような宗教に疑問を持たず、脱会もせずにいる人たちの場合です。

冷静に考えてみれば矛盾がたくさんあるはずです。

精神を高め、心を磨く意思があるなら、

自分自身を知ろうとするならば、

いかに他の人々が行動するかを観察せよ。

あなた自身が他の人々を理解しようとするならば、

先ず、あなた自身の心を観(み)よ。

心の苦しみは体の苦痛より悪し。

心は己をその住まいとする。

岩手県 盛岡市 滝沢村 整体

立場と分を知る

立場と分
運動を始めるときにはウオーミングアップというものがあるし、文章にも序文というものがあります。会話も同じで何の前触れもなくいきなり本題を話しかけてこられると本当に戸惑うものです。

心の準備ができていない私に、あるお母さんから『息子がおかしいのは○○が悪いからだ』と切り出された。この言葉の前に最初に話すことがあるはずです。

実は相談がありますが都合はどうでしょうか?ということもなく一気に並べ立てられて面食らった。

このような話し方は自分の立場も相手の立場も関係なく自己都合だけの一方的な主張である。せっかちというより強引で、自分が正しいと思っている人間が何故礼儀を知らないのだろうか。

嫌がおうにも私は瞬間に彼女の心を見てしまう。自分が正しいという思いが強すぎて辛辣(しんらつ)に他を裁いている。自分の考えを他の人に押し付けてしまう癖が心の傾向としてあり過ぎて、これでは人に避けられてしまうだろう。

自分が正しいと思っている人がそれを他人に押し通したらその時点で正しいとは言えません。

何故なら本当の正しさは調和されたものでなくてならないからです。押し通したら調和ではないのです。ですから押し通したときには必ず抵抗という反作用が生じます。これは物理的にも心の世界でも同じことがおこります。

正しいと思っている意識が実はエゴ(自我)であることに気づかない場合が多いし、このようにして心(魂)をどんどん曇らせていくものなのです。カルマを重ねるとか、業のうわ塗りはこんなことからつくられていきます。

それでも、人は生まれてくる時に、こんどはどういう環境の中で、どういう仕事をして、どういう体験をして魂を向上させるかを、守護霊と打合せてから生まれてきます。

その計画は生まれてきた瞬間に潜在意識の中にかくされていて、顕在意識の表面の心ではわからないことになっています。

最初からそういうことがわかっていたら苦労せずにすむと思われるでしょうが、最初からわかっていたら、入学試験の問題を最初から教えられたことと同じで、本当の勉強になりません。

こうするのが本当ではないか、ああするのが本当ではないか、といろいろな試行錯誤をくり返すなかから、本当の自分の生き方、あり方を知って行くようになっているのです。

「あの人は分を知らない」とか、「あの人は分別がある」とかという云い方がされるのは、人にはそれぞれに為さなければならない本分というものがあるということです。

その為さなければならないこととは、生れてくる時に計画し、守護霊となる方に協力を願って了承を得て約束のうえ生まれてくるのです。

ですから、心に思うことが何でもかんでも実現するのでなくて、その人が生まれてくる時に自ら計画した、その分の範囲内のことは実現しても、その分でないものは実現しにくいということになるのです。だから自分の分を知るということが大事なんです。

これは一升枡(いっしょうます)に五升の米を入れようとしても入らないのと同じです。五升(ごしょう)の米を計ろうとするなら五回に分けて計らなければできないことです。

人間は持って生まれた分があるのですからそれを知ることは自らの分を知ることになります。

それが自分をしるということです。

人のことはよく見るし批判もするが、自らの言動がとなると他人ごとではないものです。

生きるということは呼吸することではなく、行動することです。

そして人生は学校でもある。そこでは幸福より不幸の方が良い教師となる。

人のことを裁いている間に己を磨くことです。

逆に人から学ぶことを宝として腹に落とさねばならない。

人生において、万巻の書をよむより、 優れた人物に会うほうがどれだけ勉強になるか。

このように生きたら人生の黄金時代は老いて行く将来にあり、 過ぎ去った若年無知の時代にあらず、過去はただ懐かしむのみ。

思った通りの人生ではなかった?しかし、『よかった』となら言える人生になるかもしれない。

更に人間が人間として生きていくのに一番大切なのは、頭の良し悪しではなく、心の良し悪しだ。

昭和の男と女よ年を重ねても頑(かたくな)になってはいけない、赤子のように丸くなって還るがよい。

 

大事な基礎

ここ数日、朝7時のごはん前に1時間ほど4坪の薪小屋を作る作業をしている。こういう時間が実に楽しい(^.^)。

鉄製の単管パイプをジョイントして組み立てていくのですがずいぶんと便利なものです。私のような素人でも時間さえかければ形になっていきます。

骨組みはきちんと直角に仕上げないと屋根に波トタンを張る段階で端々がはみ出したり不揃いになるから骨組みがとても大事。もっと大事なのは薪(まき)を積んだときに重量に耐えるだけの基礎土台にしないと沈んだり歪んだりするのでこれもまた勉強になります。

去年は簡単にやりすぎて薪を積み込んだら一冬で全体が沈み歪(ゆが)んでしまいましたので、今回は沈まないように下にブロックを敷いて、更に筋交いも補強したから歪むこともなく大丈夫でしょう。万全です。

材料費は単管パイプとジョイント金具と波トタンで3万円ちょっと、4坪だと業者に依頼すればおそらくゼロが一つ増えるだろう。心地の良い汗の結果です。

さて『信仰する宗教があります。』という人がいました。心にも体にも深刻な問題を抱えていた。

私はその人に質問します。『あなたの宗教では教祖を崇拝するように教わっているのですか?曼荼羅に向かって朝夕の貴重な時間を割(さ)いて読経(どきょう)を1時間2時間と行うように教わっているのですか?』と。その通りであるから返答がない。

ただ盲信狂信するから疑問を持つこともなく信じきっているというか従っているというか。このようなケースは非常に多いのです。ご存知とは思いますが、お経の中身は心の苦悩の原因やその解消の仕方、囚われない生き方を説いたものです。

それをいくら読み上げてもそれだけでは苦悩はなくなることがありません。

苦悩を無くするには生活の中で正しい教えの中身を実践することではじめて囚われないこと、執着しないことが身につくものです。読経で平穏な気分になれてもその時だけで麻酔を打ったようなものでしかありません。

その意味で本来の仏教の教えは読経することではなく、いかに日常生活を行うかにあるのです。

『神とは何であるか。』と言う事は『人間とは何であるか。』ということと同じように、いちばん最初に解明してかからなければならない事であるのに、この二つの事があやふやなままで信仰している所に日本人の信仰の問題点があるのです。

これでは基礎工事をしっかりせず建物を建てるようなものですから、歪んだりして後にトラブルが起こるのは当然の流れでしょう。

苦しみから逃れたくて、改善したくて入信した宗教ではあるが、一向に苦悩が改善されないままいる人、更に苦悩の種が増えて絶えない人、信仰が足りないと言われて更に読経三昧になる、金銭の出費も増える。

そのような信仰は、根本的に間違いがあるからで、いつもどこか不安定な心があることになります。何故なら不安定は正しくない基礎(根本)の上に発生するものだからです。

信仰しようとする人が「神とは何であるか」『仏とはなんであるか』と言う事を十分に知ろうとしなかったと言う事は仕方のなかった事として許せるとしても、一番不可解な事は、教祖自身またそれに続く宗教指導者たちが、「神とはなんぞや」と言う事をなおざりにしたまま、あるいは間違えた認識のまま信仰を説いている所に最大の罪があると思います。

キリスト教は一神教で、神とは宇宙創造の神のみであるという点でははっきりしていますが、佛教は無神論、無霊魂論の立場をとっています。

実際に仏教大学ではその様に教えています。果たしてこれで良いのか、この点はまたの機会に譲って述べる事にして先へ進みます。

日本神道は宇宙創造の神を説くと同時に八百万の神といって色々沢山の神様の名前が出てきます。山の神、水の神、土地の神、草木の神、雲の神また神社の神等々。

新興宗教、民間信仰に至ってはこれまた沢山の造語された神々の名前が出てきます。近年は一つの新興宗教の教祖が亡くなると、皆、神の名を付けるのが流行のようです。

本来、神でないものを神として信ずる事は、信じているその人はそれで正しいと思っていても、正しく信仰しているという自己満足、自己陶酔していることだけの事であって、それはやはり根本的には正しくないのです。

それは丁度、ニセモノの絵をつかまされてホンモノだと思っている事と同じです。ニセモノの絵などをつかませる人は詐欺罪という事になるのに、宗教の世界においては、ニセモノの神をつかませて、それで尚、有難がられているので不思議なものです。

日常の社会では、後でニセモノだと判ったら返品するなり弁償しろという事になって問題になるのに、宗教の世界では、ニセモノの神をつかませた人は平気でいて、つかまされた信者だけがいつも被害者として泣き寝入りしているという状態です。

何か一つ物を買うという時でも、色々吟味する人達が、いざ信仰という事になると、「良く効く神様だ」と言われて何の吟味もせずに飛びつくという事もおかしい事で危険この上ない。

その点、日本人ほど信仰について無関心、無節操な民族もいないと思いますが、一面において、そうであったからこそヨーロッパにおけるような惨酷な宗教戦争がなかったのだとも言えます。

またそうであるだけに「本当の神とは何であるか」という事が解かれば大して混乱なく正しい信仰に変える事が出来ると言う事になるでしょう。

実際のところは宗教団体に入信しなくても正しい心の在り方は学べるのです。

これまで信じてきた間違った信仰を絶つにはマインドコントロールの解放をする必要があるのですが、まじめな人ほど時間を要します。

しかし、やがて冷静さを取り戻せた時点で、これまでの愚かさと非を悔いて正しく生きることの何たるかを悟ります。

多宗教、多信仰の日本には営利主義に奔走する教団や教祖、果ては霊能者や巷(ちまた)の拝み屋、占い師などが非常に多い点は吟味していかなくてはならない。

『ご利益のある神様』『よく効く神様』と言われているところほど邪悪な蛇霊や地獄霊などが後ろに控えていて口を大きく開き待ち構えている。神は人間のご都合主義に関わるような存在ではないことを知らなくてはならないだろう。

そして宗教に関わっていない人より、信仰を持っている人ほど動物霊や地獄の人霊に憑依されていることが多いのは見逃せない問題点です。

このような憑依された人たちは、本来ならば信仰によって人間として成長していなければならないのに実は傲慢であったり、自己中心的であったり、信者間での競争意識が強く妬(ねた)みや誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)する場合が多々あります。

もうこうなると気の毒としかいえない状態ですが、本人が望まないことにはいかなる手立ても打ちようがありません。泥酔いしている人にしらふになれというようなもので、諭しようがないのです。

宗教はアヘンだと言われる理由がここにあります。

 

変わらないもの

私たちが何か新たなことを発見したり、気づいたとしても新しい法則というものは一つもありません。法則は法則で既にあったものです。

単なる知識の場合はそれを受け取る人次第で内容が異なります。

子供時代にはその知能に似合ったものを教わります。まず『あいうえお』から始まり、知能の発達とともに単語を覚え、文章が読めるようになる。

こんどは活字で書かれた本が読めるようになります。どの程度のものが読めるかはすべてその段階での理解力一つに掛かっています。知識は無限に存在します。際限がありません。

が、そのうちのどこまでを自分のものに出来るかは、精神的ならびに霊(魂)的受容力の問題です。

しかし、いくら知識を蓄えても、それによって法則を変えることはできません。いくら知恵をしぼっても、法則の中身を変えることはできません。

過去において法則であったものは今日でも法則であり、明日の時代にも法則です。

法則は不変であり不滅です。

私たちは新しい叡智を身につけることはできます。

新しい知識を増やすこともできます。

が、新しい法則を生み出すことはできません。

私たちはこの法則のなかでこそ生きていられるのです。

地上人類はすでに地上生活にとって必須(ひっす)の法則『親切と助け合いと愛についての基本的法則』のすべてを魂の内に授かってこの世に生まれてきます。

世界をより良くするためには如何にすべきかを既に心の内に潜在しております。

成長と発展と向上と進化にとって必要なものは過去幾世紀にもわたって啓示されてきております。

それに素直に謙虚に従いさえすれば、今この地上において、万民の誰もが内部に宿された神性をより多く発揮することができるのです。

ただ地上に生まれてからのエゴ(自我)を拡大するから、もてる神性を発揮できないだけです。

過去におけるこれまでの偉大な指導者、地上に光輝をもたらした覚者は、根本においてはみな同じ真理を説いております。

3000年前のモーゼ、2500年前のゴーダマ・シッダルタ釈迦牟尼仏、2000年前のイエスは不変の宇宙の法則に沿った人間の霊性を説いています。

これらの偉大な心の指導者は我々各自に宿る不滅の資質に目を向けさせるべく地上を訪れたのです。

言語こそ違え、すべての人間が永遠の魂、天の意思、宇宙の意識の一部を宿していることを説きました。

そして、内なる正しい心に素直に従い実行しさえすればその潜在した能力をより多く発揮できるところの原理も説いております。

宇宙の法則と霊的理念に従って生きればこの世の悪夢のような悲劇、あまりに永きにわたって無益な苦しみを与えてきた恐怖と悲劇と苦悩を一掃できることを説いてきております。

自分を愛するごとくに隣人を愛し、苦しむ者に手を差しのべ、人生に疲れた人の心に、また潤(うるお)いを求める者に本当の正しい心の基準(偏りのない心)を語って聞かせよ。

病の人に手を差しのべ、悲しみの人を慰め、不幸な人に耳をかたむけよ。こうした教えは遠い昔から説かれてきた真実です。

真実はいまできあがるものではなく、太陽系が存在したときからの法則です。否、宇宙の誕生からでしょう。法則も真実も一点です。

しかし、私のわずかな経験で知り得たことは現代宗教の多くがご利益宗教であったり、他力信仰であったり、教祖崇拝であったり、偶像崇拝や曼荼羅(まんだら)崇拝が蔓延して、人々の救済という大義名分に名を借りた教団や教祖、患部らの営利主義的ビジネスとなっています。

そこには真実の法(教え)はありません。これらはいずれもモーゼ、仏陀、イエスが禁じて戒めたことばかりです。

私は人間のこの世的な都合やエゴ(自我)によって虚飾された宗教やそれらの信仰体系には関心がありません。

大切なのは錯覚によって惑わされることのない真(まこと)の理(ことわり)です。

過去においてこれまでも優秀な霊覚者が輩出されてきましたが、残念ながらそうした方々の素朴な真理と教えは神学という大きな壁にさえぎられています。

教義だとかドグマ(哲学的見解)だとか、儀式だかという障壁を築き上げてしまいました。

本来はシンプルな中に真の教えも学びもあるものです。真実を知るということはチャンスが少ないものです。

私たちは、一見立派そうにみえる人間が霊的事実について誤った概念と偏見と無知のために、死後に直面する生活に何一つ備えができていないという状態であってはならないでしょう。

ですから私は、あらゆる宗教的体系と組織、心の進歩を妨げる信仰、不必要な障害、人間の精神を曇らせ、心を惑わせる迷信に対して敢然と立ち向かっています。

間違った信仰に埋没しきっている人にも誤りを説いてきました。宗教的トラブルに苦悩する人々にも正しき人の道を説いています。

不変の自然法則に基づいた単純素朴な永遠の真理は人類の魂に根本的原理としてなければならない大切なものです。

単純・明快で誰にでも理解できるものが自然の法則です。

私たちはその中で生かされている存在です。

自分の内にあるこの法則に沿って思考し、決断し、実践することですべての自我から解き放たれ自由な身となるのです。

 

死後の世界Ⅱ

今回は今年の2月17日投稿の『死後の世界』に続く第二弾として記述します。

さて、あの世と死後の霊魂の存在を信じる人たちの多くは『家族が亡くなったとき火の丸い玉みたいな形で見た』とか、または『足のない幽霊みたいな形で存在するのではないかと思ってた』というところがある。

また様々な霊的な体験をしているためにあの世と霊魂の存在を信じるという人もいます。そんな中であの世と霊魂の存在に対しての捉え方もいろいろあるようだ。

ここで私の霊的体験を少し話してみます。私が体の酷使による過労のために倒れたときに救急車のなかでみた心拍数は120以上あって呼吸が思うようにできなかった。死を覚悟した瞬間だ。

入院せず自宅療養をし死線をさまよっていたときに見てきた光景は、あの世の誰の霊体にも地上の人間と同じように手足もあるということ。決して足が無いということはない。

死後の世界をかいまみた体験者達は、死を宣告されてまた生き返った人達や、或いは意識不明になってまた意識が回復した人達、病床にあって生き返った人たちで、一定の境界まで行って引き返して来た人達である。

危篤状態にあって『担当の医師が死を宣告したのが聞こえた。』『耳ざわりな音が聞こえ始めたその直後に生還した。』という場合もある。

また肉体から抜け出した霊魂には、すでに死亡している親戚とか友人の霊がすぐ傍にいるのがなんとなくわかる。

私の場合はある時点で、まぎれもなく現世とあの世との境目に近づいているのに気付いた。そしてこの世の光景とは違うということを確信する。

冬山の荒涼とした鉛色の雪景色の中を多くの人々が一列になって、なだらかな斜面を下っていく様子は死の谷に向かう人々の雪中行軍にしかみえなかった。みんなうつむいて表情がないのである。

私はその行進を丘の上から眺めていたがどうしてもついていく気になれず、みんなとは反対方向に向きを変えた。するとその瞬間に目が覚めた。これを境に体は徐々に回復に向かい始めた。

体が癒えていない私は歩くこともままならない状態でしたが庭に椅子を持ち出して座った。見るものすべて、風も太陽の温もりも、空気の匂いも肌で感じるもの全てが愛と暖かさに満ちた生命として心の底にまで響きわたった。胸がつまった。

私の胸の奥底で光がはじける。この光は言葉なくして心を満たし、これまで生きてきた間のことを全て「反省」するように促した。すると目の前に一生のことがパノラマのように映し出された。

ストーリーとしては2時間ぐらいの映画にもなろうが、その反省はけた外れの速度で行われる。全く一瞬である。瞬(まばた)きの瞬間といっていいだろう。肉体は3次元にいるのだが意識が4次元にいっているためにこんなことが起こる。

自分の一生の取るに足りないことから最高に重要な事までが、一つ残らず現われる。

私たちは一生のことをどのように反省し、調和したかによって、それから先の行く世界(あの世)が決まるのである。不調和な者は霊界には入れず幽界でしばらくは反省の年月を過ごさなければならない。

ここで、あの世は次のような世界にわかれていることを紹介しておきましょう。

大きく分けて如来界・菩薩界・神界・霊界・幽界・・・これらの界は、またそれぞれの心の段階にわかれている。一口に霊界といっても実際は段階がある。行先は私たちの心の段階次第で決まる。

人間には変えることができない宇宙の仕組み、摂理、秩序というものがある。

その意味から幽界は亡くなった人が最初に行く段階でこの幽界には21日の間いることが許される。故人はこの間に地上で関わった人たちに挨拶にいけるが、同時に心の整理をして娑婆に別れをしなければならない。

しかし、魂というものは、日ごろ心が不調和で不満や愚痴、怒り、嫉妬、傲慢、などの生活をしてきたものが21日ぐらいで気づけるほど簡単なものではない。

したがって拘り、執着、自我、これら業の程度によっては地獄で猛反省をしなければならない人たちがいる。罪として一番重いのは自殺です。

何故なら天から頂いた命を許されて地上に生かされながら自己都合で命を絶つ。これは最大の天への冒涜(ぼうとく)となるのです。

自殺以上に罪が重いのは人間の心を間違った方向へ先導したもの、つまり宗教指導者やその幹部たちです。現代の宗教はあまりにも御利益宗教(他力信仰)が多く相当の割合で存在している。

中にはまとまった金銭で依頼を受けて人を呪い殺すこと行う自称霊能者といわれるものもいます。間違いなく地獄でのたうちまわることになる。

普段、神仏の名を語り除霊をするという者が金のために他人を呪うことに加担するなどは本人自身が動物霊や地獄の人霊に憑依されている証拠である。生きてこの世で地獄を演じている哀れな人間です。

本来なら神仏の名を口にする者は金銭を授受してはならないが、そのことによって自身の霊格をおとしめることに気づいていない。欲のために目が暗んでいるだけである。

さて死んだ人の前に光の生命として任をもって現われるのは、主として菩薩界の人達である。菩薩界の人たちは囚われ執着が一切なく、人々のために尽くす愛と慈悲の心をもって働いている。決して見返りを求めることはしない。

上段階の霊が下の階層に現われると、下の階層の霊はそれを光としか見ることができない。

上段階の霊は下段階の霊を救う為に下段階に行けるが、下段階の霊は、その霊の意識が、上段階にふさわしくならない限り上段階へのぼることは出来ない。

幽界や地獄にいる魂にも救済の手は差し伸べられるのだが、しかし、拘(こだわ)りや執着、偏狭な心が強いため救済の手に応じようとしない者もいる。これは地上の人間にも言えることである。

どれほど苦しみの渦中にあっても偏った自分の価値観から救いの手を取ろうとしない者には愛も慈悲も徒労に終わるだけで全く気の毒としか言いようがないものです。

人間の死後の世界はその人がこの地上でどのような心で生きたかで決まる。不満や愚痴、怒りを心に持った者、人に対してそのような態度で接したものが、死んで天に昇ることはできない。

霊界以上に行くには人に見返りを求めない心づくり、執着を捨てた生き方をしなければ叶わない。

心に不調和のあるものが死んだ途端に成仏することはあり得ないことであり不可能です。

何故なら人間の魂は宇宙の慣性の法則のなかで生かされているのであり、この世で生きたようにあの世でも延長上に生きるからです。

これを心の傾向性(癖)といいます。カルマ(業)と理解していただいてもいいでしょう。

 

延命治療と胃ろう

入院をして体に様々な機械器具を装着し高カロリーの点滴で命をつないでいるだけで本人は意識もななく、たったひとりの身内である80歳の妻と意志の疎通すらできない植物状態。自宅に連れて帰ろうにも高齢の妻には全ての面で負担が多すぎる。しかし、病院では延命治療をやめない。

「延命治療」のひとつとして、近年、人工呼吸器とともに議論に上がっている「胃ろう」がある。

自力でものを食べる、飲み下すことが困難な患者の腹部に1cm未満の穴(ろう孔)を開け、そこに胃ろうカテーテルという器具を挿入して直接、栄養剤を注入する方法のことです。

認知症患者の訪問診療を行っているある医師は、『胃ろう患者は病院で造られて、在宅にやってくる』と指摘する。

『高度な治療を必要としない高齢の患者を入院させておくことは病院経営を圧迫するので、なるべく早く退院してもらうために胃ろうにして老人施設や在宅に戻している現実があります。なかには飲み下す能力がまだあるのに胃ろうになっていた患者さんもいます』という。

しかし、老人施設などで介護を断られる胃ろう患者のケースも多い。

胃ろう手術を施す患者には誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん・うまく飲み込めず肺に入ってしまい肺炎を起こす)を繰り返すことが多いためにおこなわれる場合がある。

Aさんの父親80歳は、医師のすすめで胃ろうにした。しかし、その当時入所していた老人施設から『胃ろうをしたら、この施設では看護師が少なく、トラブルがあっては困るので、受け入れられなくなります』」といわれた。

毎日仕事の合間に受け入れ施設を探し回ったが、『胃ろう患者はこれ以上受け入れられない』と断られるばかり。Aさんは身寄りがなく、彼女が働くしか父親を支える手立てはない。

『やっと見つけたと思ったら、自宅から2時間半かかる施設でした。しかも見学すると、高齢者をただ寝かしている一軒家。廊下やリビングにも高齢者が寝かされていて、異様な光景でした』と、Aさんは語る。

Aさんが見たのは、通称「胃ろうアパート」などと呼ばれるもので、数年前から問題になっている高齢者施設だ。こうした施設は、日本各地にいくつもある。

欧米では認知症などを発症した高齢者に胃ろうを行うことについて否定的です。

日本では死生観などさまざまな事情はあると思いますが、医療者の都合や、受け入れ施設が足りないという構造的な問題が大きい。

そんななか、介護に疲れた家族などの気持ちにつけこんだ胃ろうアパートのようなグレーゾーン商売(営利主義)が生まれてきてしまったと思うのです。

とある特別養護老人ホームの入所者100人のうち、胃ろうで寝たきりの高齢者が20人もいた。

入所者をケアする介護士は一生懸命、ひと口でも多く食べさせようとする。しかし入所者は食べたくもないのに口に入れられるから、むせて誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)になって病院に送られる。

認知症の患者は何をされるのか理解できないので、パニックになる。そして、飲み下す能力がないと判断されて胃ろうが造られるという流れです。

介護施設や病院経営の都合で、簡単に胃ろうを造っていはしないか。

かつて外科医だったIさんは言う。『老衰と病気は違う。老化によって飲み下す機能が落ちて食べられなくなったら、それは生命が終わりに近づいているということ。食べられなくなることは、自然の摂理だと受け止めるべきではないか。』と。私はこの医師の命の扱い方に、向き合い方にもろ手をあげて賛成する。

人間は限界がきたら、自然と食べたくなくなる。それは飢えて苦しいということではないのです。

これまでは利用者本人と家族に『口から食べられなくなったらどうしますか』と意思の確認をして介護の方針を決めてきたようですが、近年の入所者の傾向は単なる延命措置は望まず、8割が静かに最期を迎えることを希望する傾向に転じてきたようです。

病院に入院していて家族にも医師にも意思表示できず、動きもなく、反応もない状態の患者の胃に穴をあけてカテーテルを通し、高カロリーの流動食を流すだけの管理。

このことによって疑問を持ち命の尊厳について苦悩する連れ合いや身内の葛藤が延命治療にはつきものだ。

結局、悩んだ末に自宅に連れ帰りやがて自然に息を引き取ったケースがある。

連れ合いはいう。『これで主人も苦しまずほっとしていると思います』と。

野生動物の世界なら物を食べられなければ、それはそのまま死を意味します。

医学が進歩することによって本人の意思とは関係のないところで、延命処置が行われる現代医療の現実は、個人の命の尊厳とは何か、どうあるべきかをまだまだ検証する余地があるのではないかと考えます。

生きるとは何か、死ぬとは何か。ということを深く思考して自分自身の思いと答えを持って人生を営んでいかないと、いざ病に倒れたとき、不慮のできごとのときに身内に大変な負担を強いることにもなるだろうが、それ以上に霊的生命の観点からすれば全くもって延命治療は用を成さない医療行為です。

何故なら肉体が機器によって一時つなぎとめられても霊的魂の成長には弊害こそあっても足しにはなっていないからです。

植物状態ではあっても肉体が存在しているうちは霊体は完全には離脱しきれず幽界にさ迷うことになります。これが魂の進行の障害となるからです。

延命治療は何より本人の意思を尊重してあるべきことで、家族や病院の都合で行われるべきではないであろう。

守護霊&指導霊

守護霊や指導霊という言葉は聞いたことのない人はないほど知られた言葉かもしれません。

『あなたに徳の高い守護霊をつけてあげます。そのことによってあなたは運が強くなり何事もうまくいき幸せになれます。』という甘い言葉に誘われて大枚を支払ったという人がいました。

守護霊は人間がこの地上に生まれた瞬間から誰にでも公平についてくれています。ですから営利主義の霊能者と称する人たちが後から取り付けるようなものでは決してありません。

4次元世界と3次元世界の関わりには厳然とした摂理と秩序が存在していて、何人たりともこの秩序を破ることはできない。したがって後付するような霊は動物霊か地獄霊しかないのです。ご注意ください。うまい話はいつも誘惑と危険がはらんでいます。

私たちの背後(4次元)にはいろんな役目の霊が存在しています。

目的がいろいろとあるからですが、しかし、その霊がすべて同じレベルにあるわけではありません。各々の霊に割り当てられる守護霊としての役目は霊的な成長と発達の度合によって異なります。

例えば宇宙の機構について詳しい霊がいても、あくまでその時点までの経験の結果としての知識で協力するということで、まるで知らないことについては協力できません。決してパーフェクトではないのです。

ですから知らないことは何一つないような霊は決していません。物理化学に精通している霊は高等な思想上の問題についてはよく知りませんし、高等な思想・哲学を説くことを使命としている霊は物理化学に関しては苦手なわけです。

霊をぜんぶ同一水準に置いて考えることは禁物ですね。

どんな霊が背後霊(守護霊・指導霊)となるのか。

多くは魂の兄弟が担います。また地上的な縁故関係はまったくなくて、果たさんとする目的において志を同じくする者、言ってみれば霊的親近感や霊的使命感によって結ばれる場合もあります。まれには地上での血縁関係によって担う場合もあります。

そこには民族や国家の違いはありません。地上を去り4次元世界に行き、地上的習性が消えていくと、民族性や国民性も消えていきます。魂には民族も国家もありません。あるのは地上生活のときの肉体上の差異だけです。

背後霊として選ばれる基準は何か。

4次元世界にいる段階で地上世界(3次元)のために為すべき役目があることを自覚して、みずから買って出る霊もいますし、ある霊的な発達段階まで来ている霊が、人類啓発の使命を帯びた霊団から誘いをかけられる場合もあります。

誘われた魂は困難を承知で人類愛のために引き受けるのです。

また自分から進んで背後の指導を買ってでたとしても、その霊の人間性が未熟ならば叶わないことです。あの世においてはオーラ、色彩、光輝がその霊人の本性を全て示しています。

あの世では地上人間のように嘘は隠せませんし、心の状態がすべてオーラとなって表れているからです。あの世における霊体だけの生命はこの地上のような肉体はまとっていませんから心の状態がすべて丸見えなのです。

守護する力量のないものがその任を担うことはできません。その人には協力できないことが明らかなのですから。

ですから、地上のあなたが人類のための仕事に志を抱く霊を呼び寄せようとしても、あなたご自身が霊的成長によって霊格の高い指導霊を引きつける力を具えていなければ、それは叶えられないということです。

指導霊にも段階ありです。殆んどは自分と同等レベルの指導霊が背後にいると解釈してよいでしょう。

つまり、自分の魂のステージに見合った霊が守護霊や指導霊という立場で背後の協力をするのです。お判りになりますか。

この世においても資格のないものにはやりたくても出来ないことがあるのも道理でしょう。しかし、ここでいう資格は学歴や運転免許や国家試験で得るような形の資格ではありません。魂の成長度合の意味です。偉大な聖者たちは大学をでただろうか?

先ずは私たちが心磨きを実践して魂のステージを上げることが先です。そのことによって段階的に指導霊が入れ替わることがあるのです。私たちが意識するしないに関わらずです。

仏像や曼荼羅に向かって真言を唱え、読経をして拝むことは全くの御利益求めで他力本願で依存型信仰の代表といえるでしょう。

このような考えと行動が動物霊や地獄の人霊を引き寄せるケースが多いことを知る人はとても少なく、霊障に苦悩する人が後を絶たない。

人間に必要なものはすべて生れ落ちるときに備わっていることを悟らねばならない。

 

啐啄同時(そったくどうじ)

禅の言葉に『啐啄同時・そったくどうじ』というのがあります。

今の時期5月は野鳥にとっては子育ての時期です。卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛(ひな)がコツコツとつつくことを「啐・そつといい、ちょうどその時、親鳥が外から殻をコツコツとつつくのを「啄・たくといいます。

雛鳥が内側からつつく「啐」と親鳥が外側からつつく「啄」とによって殻が破れて中から雛鳥が出てくるわけです。
両方が一致して雛が生まれる『機』(タイミング)を得て両者相応じる得難い好機のことを「啐啄同時」というのです。

親鳥の啄が一瞬でもそのタイミングをあやまると、中のヒナ鳥の命があぶない、早くてもいけない、遅くてもいけない、まことに大事なそれだけに危険な一瞬であり啐啄は同時グッドタイミングでなくてはなりません。

もう少し簡単に説明すると、卵の中の雛が外に出ようとして内側から殻をたたくと、同時に母鳥も外側からコンコンと叩いて割り、雛が外に出るのを助ける。

これは雛の誕生と親鳥の手助けだけにとどまることではなく、迷っている人が答えを出すときグットタイミングで、賢者がヒントを与えることをいっているのです。

学びというのは教える側がただ単に知識を流せばよいというものではなく、学ぶものの状況、心の段階に合わせた内容の提供と時期(機)が大切なものです。

心の準備が整っていない時期に迷いを吹っ切るためのヒントを与えてもなかなかスンナリとは心に入っていかないのがわかります。また逆にが熟していると与えたヒントが砂に吸い込まれる水の如く吸収されるのがわかります。

同じように与えたヒントでもそれを受ける側の気根(心根)によって全く生かされなかったり、核心の部分に触れることで逆に反発したり、またそのヒントで大切なことに気づき迷いを脱する人もいます。

気根とは心の大きさとも言えますが、ものの道理に対する理解度の差ともいえます。ただ、この道理に対する理解度という広さは心に拘りや執着があるほど小さく、心に落ち難く前進しがたいものです。

ですから日頃から努めて心の在り方を学び、それを生活に実践していないと、いざというとき大切なヒントにも気づけずに戸惑うだけで苦悩の日々となりがちでしょう。

さて中国に鏡清禅師(きょうせい)という方がおられた。
一人の僧が禅師に「学人啐す、請う、師、啄せよ」といった。
意味⇒学人(修行僧)=「私は十分に悟りの機が熟しております、私は今まさに自分の殻を破って悟ろうとしています、どうぞ先生、外からつついてください」

鏡清禅師=「つついてやってもいいが、本当のおまえが生まれてくるのか」と。

学僧=「私は、もし悟れなかったら世間に笑われます」といったので、

鏡清禅師=「この煩悩まみれのたわけものめが」と、一喝した。

※自分の殻(から)という執着を破って悟ろうとしていると話した修行僧が悟れなかったら世間の笑い者になるという言葉を聞いた師はつまらないことにこだわっている弟子の心に悟りなど程遠いものを観たから、「この煩悩(ぼんのう)まみれのたわけものめが」と、一喝したのです。

師匠と弟子、親と赤子、先生と生徒
このように「啐啄同時」は、弟子をヒナ鳥に、師匠を母鳥にたとえ、師匠と弟子が意気相合して、間髪をいれる瞬間もないことを示すグッドタイミングな間合いの言葉です。

禅門では修行者と師僧とが、互いに意気が合って一体不離になっていることをいいます。

すなわち弟子の修行が円熟しておることに気づいて、師僧が悟りの機会をあたえてあげる、但し、これは師僧の励ましに応じる境地に弟子が至っていなければ敵わないことです。

鏡清禅師は「啐啄の機」ということを常に説いておられたそうです、師匠の悟らせようとする働きと、弟子の悟ろうとする働きが一致した時が悟りの好機、気づきのチャンスなのです。

親子の場合も、卵の殻を内側から子が無心につつき、母も外側から無心でつつく、互いに意識せずとも、「啐啄同時」というのは自然にそうなっているものでなければならない。相談しながら同時につっついたりするものではありません。

毎年これからの時期に野鳥を観察していますと感慨深く巣立ちの時にも「啐啄同時」しています。自分で餌をとり自活していく能力が雛に具わったとみるや、親鳥は雛(ひな)に巣立ちを促(うなが)し外から呼びかけています。

雛もこれに応じて巣から飛び出します、巣立の瞬間です。しばらくは親が運んできた餌をいただいていますが、親を見習い徐々に自分で餌を取り始める。

しかし人間は時期がきているのに子離れしない親、親離れしない子がいかに多いことでしょうか、「啐啄同時」の機会を逸してるようにもみえるし、タイミングを大切にしていない気がします。

親の指導と子供の自発とが一致した時、はじめて効果をあげるのではないではないだろうか。

ほんのちょっと待っていれば子供がひとりでに覚えたり行動したりするのに、待てずに一方的な親の押し付けで逆効果になっていたり、今教えこもうとしてムダ骨を折ったり、教えなくてはならない大事な時期をはずして手遅れになったりしていることが多いでしょう。

子供は知らないと思っても、親の身勝手はちゃんと見抜いていることもあります。また淋しい子供の心は、親の愛情をもとめています。

教えをうける側と教えを与える側とが一致した時、真のしつけや教育がおこなわれる。子供の教育は、その心身の成長の段階に応じて適宜適切(てきぎてきせつ)におこなわれなくてはなりませんが、とかくズレてしまいがちです。

人間関係においても、相互の啐啄が時間的に間髪入れずに意気投合しておるようであればうまくいくでしょう。

機縁とは、あることが起こるようになるきっかけをいうのですが、おのずとおとずれてくるものであって、つくろうとしてもつくれるものでもありません。

機縁とは熟するもので、この機縁が熟した時こそ、啐(そつ)の時であり、啄(たく)の時です。

親と子も、そして世の中の人間関係においても、人と人との関係が疎外(そがい)されている現代社会において、この「啐啄同時」は、とても意味深い言葉となります。

親と子、師と弟子、人間と神仏の関係、また自力と他協力の双方が大切であることを大変うまく説明している言葉だと思います。

たとえば、同じ一冊の書物でも、10代の頃に読んだ感想と50代になってから読んだ感想とでは、まったく異なってくる場合がある。10代の頃にはどうしても理解できなかった本が、50歳になって読み返したときには、素晴らしい人生の書としてその後の人生の羅針盤となることもあるだろう。

書物に書かれていること自体は何も変わっていない。変わったのは読んだ人の心境だ。書物は常に、その人を導こうとして、目の前にあった。

しかしその書物がどんなに素晴らしいものであったとしても、それに気づくだけの心の力が養われていないとき、気根が整っていないとき、つまり機が熟していない人々には、どうしてもその書物の持つ光に気づくことができないものです。これは言葉でも同じことがいえます。

弟子が、今まさに悟ろうとしている。しかし今一歩のところで悟ることができない。あと少しの何かが足りない。それが何かどうしてもわからない。

師は、その瞬間を見極めて、その時に雷鳴(らいちょう)の如(ごと)く、弟子の悟りに必要な最も適切なアドバイスをする。

この自力と他力が絶妙のタイミングで組み合わさったときに、弟子は悟りへの障害を打ち破っていくことができる。

私たちが心の在り方や宇宙秩序を学び実践していくことを目指すなら、常にこの自力と他力の原理を意識しておくべきであると思う。

何も自助努力をせず、「神は愛だから、仏は慈悲だからこんな私でも救ってくださる」などと100万回真言や読経を唱えたところで気休めに過ぎないし、片頭痛のときの鎮痛剤にすぎないだろう。

また、かたくなに他力を排除して、自分自身だけの力で生き抜こうとしても、それもまた偏った生き方であり、社会から孤立して協調性にかけることになりかねない。

要は何事も偏らず思考し、実践し生活することが大切だろうと思うのです。

 

死は悲劇ではありません

これは昨年3月11日の震災で犠牲になられた多くの方々の死を軽んじて話すのではないことを先に申し添えておきます。

亡くなられた方にとっても、残された遺族の方々にとっても別れが悲しみを誘うのは人間としてごく自然な感情です。

ここではどのような状況で亡くなろうとも霊的な4次元の世界からみれば必ずしも悲しむにあたらない場合が多いのだということを記述させていただきます。

『死ぬことは悲劇ではありません。死を恐れてはならない。』
と、4次元の信頼に足るガイドは語ります。

ガイド『人間は、この世にあっていつかはの現実に直面せざるを得ない。それは、愛する人であるかも知れないし、親友であるかも知れない。近所の人であるかも知れないし、同僚や知人であるかも知れない。中には、気の毒にもそれが身も心も打ち砕くほどの悲劇的体験となる人もいる。

そしてその悲しみの淵から抜け出るのに何か月も、時には何年も、掛かることがある。その観点からすると、人間が例外なくを超えて生き続けるということについて確固たる証拠に基づく信念と内的確信をもつ魂の人は、何と恵まれていることであろう』と。

つまり『死を超えて生き続ける』とは生まれ変わり、輪廻転生することを言っているのです。ですから死ぬことは悲劇ではありません。この世的な感情や価値観だけが全てではないのです。

今日のような地上世界に生き続けねばならないことこそ悲劇です。

何故なら利己主義と貪欲と強欲の汚染で足の踏み場もなくなっている地球に生き続けることこそ悲劇というべきです。

死ぬということは物的身体のオリの中に閉じ込められていた魂(真我)が自由を得ることです。

苦しみから解放され真の我に目覚めることが悲劇でしょうか。豪華けんらんの色彩の世界を目のあたりにし、地上のいかなる楽器によっても出すことのできない妙(たえ)なる音の調べを聴くことが悲劇なのでしょうか。

地上で存分な創造活動ができなかった才能あるあなたが、その潜在する才能を発揮する機会を4次元に移住することで得るのが悲劇なのでしょうか。

利己主義もなく貪欲(どんよく)もない世界、魂の成長を妨げる金銭欲もない世界に生きることが悲劇でしょうか。あなたはそれを悲劇と呼ぶのでしょうか。

一切の苦痛から解放された身体(霊体)に宿り、一瞬の間に地上世界をひとめぐりでき、しかも霊的生活の極限の豊かさを味わえるようになることを、あなたは悲劇とお思いになりますか。

実は死後の世界に馴染むために人間は地上にいる時からしばしば霊界を訪れています。

そうでないと本当の意味での4次元で生きる活動を開始するときの霊にとって、霊界の環境がショックを与えることになりかねないからです。

問い『私たちが死んであの世へ行くと、地上で睡眠中に訪れた時の体験をみな思い出すのでしょうか?』

答えて『もちろんです。なぜかと言えば、その時点であなたは肉体の制約から解放されて、睡眠中に体験した霊的意識を発揮できるようになっているからです。睡眠中の全記憶、睡眠中の全体験の記憶が甦ってくるでしょう』

問い『では、死後下層界へ赴(おもむ)かざるを得なくなった霊の場合はどうなるのですか』

これは、そういう人もやはり地上時代の睡眠中の体験、たぶん下層界での体験を思い出し、それがあの世の下層界へ行ってからの反省にプラスになるのかという問いである。

答えて『死後下層界へ引かれていく人はこの地上での睡眠中の訪問先もやはり下層界ですが、この階層での睡眠中の体験は死後の身の上の反省材料とはならないでしょう。なぜなら、このようなケースは死後に置かれる環境はあい変わらず物質界(地上)とよく似ているからです。死後の世界は下層界ほど地上とよく似ているのです。その理由は波長が同じように物的だからです。』

高い界層になるほど波長が精妙になってきます。これは心のステージが高い人ほどオーラ(波動)が柔らかく安らぎを感じることで理解できるでしょう。

それでは地上にいて生活している間でも睡眠中の体験を思い出すものかどうかについて説明しましょう。

夢の状態は肉体から離脱している状態ですが、朝になってその身体にもどり、その霊的体験(夢)を思い出そうとしても思い出せません。

なぜかと言えば、霊による意識の方が脳による意識より大きいからです。小(脳)は大(霊)を収容することができず、そこに無理が生じるのです。

それは例えば小さな袋にたくさんの物をぎゅうぎゅう詰めにするようなものです。ある程度までは入っても、それ以上のものを無理して入れようとすると形が歪んでしまいます。

それと同じことが肉体にもどった時に生じているのです。しかし、魂が進化してある一定以上のレベルの霊的意識が芽生えた人は、霊界での体験を意識できます。

そうなると脳にもそれを意識するように訓練することができます。

先ず私たちは肉体の臨終を境に霊体がその身体から離れると、脳という地上生活のための意識の中枢(ちゅうすう)から解放されます。

すると意識は4次元の世界の波長(進化の程度による個人差がありますが)での体験をするようになり、体験している間はそれを意識しております。

その体験の記憶が死後に役立つかというと、その通りです。何一つ無駄にはなりません。摂理(せつり)はうまくできているものです。

次にこのような睡眠中の体験はただ単に死後への準備なのかということと、それとも為すべき仕事があってそれに従事しに行く人もいるのか、というについて説明しましょう。

仕事をしに来る人もいます。しかし、ふつうは死後への準備です。物質界(地上)での生活のあとから始まる生活にとって役に立つような勉強をするために、あちらこちらへ案内されるのです。

そうしておかないと、いきなり次元の異なる生活形態の場へ行った時のショックが大きくて、その回復に相当な時間を要することになります。

そういうわけで、あらかじめ霊的知識をたずさえておけば、死後への適応がラクにできるのです。

何も知らない人は適応力がつくまでに長期間の睡眠と休息が必要となります。知識があり執着がなければすんなりと霊界入りして、しかも意識がしっかりとしています。

要するに死後の目覚めは暗い部屋から太陽のさんさんと照る戸外へ出た時と似ていると思えばわかりやすい。光のまぶしさに慣れる必要があるわけです。

霊的なことを何も知らない人は死という過渡的現象の期間が長びいて、なかなか意識がもどりません。さしずめ赤ん坊のような状態です。ハイハイしながらの行動しかできません。

睡眠中にあの世に訪れた時の記憶は一応思い出すのですが、それがちょうど夢を思い出すのと同じように、おぼろげなのです。

良い心がけが無駄に終わることは、地上においても4次元世界においても、絶対にありません。 そのことを常に念頭に置いて生活することです。

真心から出た思念、行為、人のためという願いは、いつか、どこかで、だれかの役に立ちます。

そうした願いのあるところには必ず霊界から援助の手が差し向けられるからです。

地上は今やまったくの暗闇におおわれています。

迷信とご利益を誇示する間違った宗教指導と狂信、盲信、無知のモヤが立ちこめております。

天の意志を受けて正しく意識できる人はごくわずかしかいません。

聖職者といわれている指導者たちの悪知恵と既得の権力が生ける天の意志と取って代わってしまいました。

物質万能主義がその高慢な頭をもたげ、霊的真理をことごとく否定しました。

その説くところは実に血気盛んでしたが、それがもたらした結果は無益な流血・悲劇・怨恨(えんこん)・倦怠(けんたい)・心の病・絶望・惨(みじ)めさ・混沌(こんとん)・混乱を伴った世界規模の大惨事でしかありません。

しかし、天の意志をいつまでも押し黙らせておくことはできません。

魂の覚醒(かくせい)が今ふたたび人びとの心に芽生えて世界に正気を取りもどさせることが必要です。

 

 

遠隔思念

遠隔思念が動く理由
S・Kさん52歳(男性)から夜の9時に電話をいただいた。

『いまお付き合いで飲み会に出席しているけど、この店に入った時からいきなり具合が悪い、胸が苦しくて呼吸がおもうようにできないし、めまいがして恐怖だ。』と携帯からの連絡だった。

これだけの症状なら通常は救急車を呼ぶところでしょけど、何故か私に連絡してきた。話の内容から本人の動揺が感じ取れたし、急を要することがわかった。かなり動揺している。

携帯電話を手に持ったまま私の言葉を聞くように指示した。

私は早速、遠隔によってS・Kさんの背後にいる姿なき者に語りかけること約5分程度、これで様子をみてくださいと電話を切った。

ほどなく再び電話が入った。

『落ちついて気分がよく、何もなかったように嘘みたいだ』と。

珍しいことではないが、なぜこういうことが起こるのか、また解決できたのだろうか。

簡単に表現すれば霊的な悪影響を遠隔思念によって浄化することができたということですがそう簡単なことではない。

これが肉体的な疾患によって起こった症状ならば間違いなく救急車を呼ばなくてはならないでしょう。しかし、S・Kさんの体には何の疾患もない。

この場合の遠隔思念は遠くにいる人のために祈って、その祈りが相手と関わる霊的なものに届いたという現象ですが、しかし祈った私の念が直接先方の人にとどいたのではありません。

この点は誤解のないように。これまで一部の霊能者と称するひとたちがいうように自分の霊能力によってできるという捉え方はまちがっています。また同じように捉えている宗教指導者もまちがっています。

霊的な現象の結果は背後のガイド(協力者)がいてこそできうることで、一個人で成せる業ではありません。

これは祈る人の守護霊、指導霊が、受ける人の守護、指導霊にその念を伝達するのです。

祈る人も心をきれいに安らかにして祈らなければいけませんが、受ける人も心を丸くきれいにしておくことがだいじです。祈りの念を受けた守護、指導霊が、その人の心の内側からアプローチして浄化が可能となるのです。

従って遠隔思念(浄化)でも直接の浄化でも、それを受ける人の心に疑念や拘(こだわ)りがあればあるほどその結果は希薄なものになります。

ということは受ける側の人が心に信頼を持つことと、執着のないことが、より一層の効果を増すことになるのです。否定からは何もうまれてきません。

しかし一番良いのは、そうなる前に未然に防ぐことで、霊的な悪影響を受けて心を乱したり、体調不良にならないことであろうと思います。

したがって悪霊と波長を合わせないことが重要で、日頃から心のバランスを保つこと、その為に不足の心で不満をもたないこと、愚痴を言わないこと、怒りの心を持たないことが心を調える最良の妙薬であり、霊障に至らない最善策でもあります。

否、これしかありません。100%ではありませんが霊障はご本人の心の不調和に起因するところが大です。

そして、このようなケースは意外と多いのです。

私はいつも言います。『心を調和してください。』と。