立場と分を知る
立場と分
運動を始めるときにはウオーミングアップというものがあるし、文章にも序文というものがあります。会話も同じで何の前触れもなくいきなり本題を話しかけてこられると本当に戸惑うものです。
心の準備ができていない私に、あるお母さんから『息子がおかしいのは○○が悪いからだ』と切り出された。この言葉の前に最初に話すことがあるはずです。
実は相談がありますが都合はどうでしょうか?ということもなく一気に並べ立てられて面食らった。
このような話し方は自分の立場も相手の立場も関係なく自己都合だけの一方的な主張である。せっかちというより強引で、自分が正しいと思っている人間が何故礼儀を知らないのだろうか。
嫌がおうにも私は瞬間に彼女の心を見てしまう。自分が正しいという思いが強すぎて辛辣(しんらつ)に他を裁いている。自分の考えを他の人に押し付けてしまう癖が心の傾向としてあり過ぎて、これでは人に避けられてしまうだろう。
自分が正しいと思っている人がそれを他人に押し通したらその時点で正しいとは言えません。
何故なら本当の正しさは調和されたものでなくてならないからです。押し通したら調和ではないのです。ですから押し通したときには必ず抵抗という反作用が生じます。これは物理的にも心の世界でも同じことがおこります。
正しいと思っている意識が実はエゴ(自我)であることに気づかない場合が多いし、このようにして心(魂)をどんどん曇らせていくものなのです。カルマを重ねるとか、業のうわ塗りはこんなことからつくられていきます。
それでも、人は生まれてくる時に、こんどはどういう環境の中で、どういう仕事をして、どういう体験をして魂を向上させるかを、守護霊と打合せてから生まれてきます。
その計画は生まれてきた瞬間に潜在意識の中にかくされていて、顕在意識の表面の心ではわからないことになっています。
最初からそういうことがわかっていたら苦労せずにすむと思われるでしょうが、最初からわかっていたら、入学試験の問題を最初から教えられたことと同じで、本当の勉強になりません。
こうするのが本当ではないか、ああするのが本当ではないか、といろいろな試行錯誤をくり返すなかから、本当の自分の生き方、あり方を知って行くようになっているのです。
「あの人は分を知らない」とか、「あの人は分別がある」とかという云い方がされるのは、人にはそれぞれに為さなければならない本分というものがあるということです。
その為さなければならないこととは、生れてくる時に計画し、守護霊となる方に協力を願って了承を得て約束のうえ生まれてくるのです。
ですから、心に思うことが何でもかんでも実現するのでなくて、その人が生まれてくる時に自ら計画した、その分の範囲内のことは実現しても、その分でないものは実現しにくいということになるのです。だから自分の分を知るということが大事なんです。
これは一升枡(いっしょうます)に五升の米を入れようとしても入らないのと同じです。五升(ごしょう)の米を計ろうとするなら五回に分けて計らなければできないことです。
人間は持って生まれた分があるのですからそれを知ることは自らの分を知ることになります。
それが自分をしるということです。
人のことはよく見るし批判もするが、自らの言動がとなると他人ごとではないものです。
生きるということは呼吸することではなく、行動することです。
そして人生は学校でもある。そこでは幸福より不幸の方が良い教師となる。
人のことを裁いている間に己を磨くことです。
逆に人から学ぶことを宝として腹に落とさねばならない。
人生において、万巻の書をよむより、 優れた人物に会うほうがどれだけ勉強になるか。
このように生きたら人生の黄金時代は老いて行く将来にあり、 過ぎ去った若年無知の時代にあらず、過去はただ懐かしむのみ。
思った通りの人生ではなかった?しかし、『よかった』となら言える人生になるかもしれない。
更に人間が人間として生きていくのに一番大切なのは、頭の良し悪しではなく、心の良し悪しだ。
昭和の男と女よ年を重ねても頑(かたくな)になってはいけない、赤子のように丸くなって還るがよい。
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