諦念(ていねん)

デイサービスに出かけたり訪問介護のお世話になるようになってからは顔を合わせなくなったが、それまでは何かにつけて相談してきては愚痴をこぼす80歳のお婆さんがいた。

人当たりはとてもよく見えるが、私はいつもこのお婆さんの心に傲慢と怒りを観ていた。

20年ほど前に御主人に先立たれが、5年ほど前から住家は娘夫婦に明け渡し自分は別棟で一人暮らしをしている。顔を合わせると娘婿の悪口と愚痴をいうことはこれまで何度となくあったが、ここまでくると呪いと同じで心地よいものではない。

娘夫婦とは日ごろから折り合いが悪かったようだ。このお婆さんは若い時分から体が不調気味でいつも高血圧に腎臓疾患そして循環器系に疾患を抱えていた。

一昨年は太腿の動脈瘤が原因で血行障害となり膝から下の左足を切断したが、これも人のせいにしている。

デイサービスに行けばそこの批判を、病院に行けばそこの批判を、訪問介護やサービスを受けても来る人の不満や批判を、果ては政治や行政に対する不満や教育論を並べる。

自分が教員時代の自賛を語り、自費出版した食と健康の本のアピールをと相変わらず過去の事を能弁にきかせ、他人のことに対してはいつも裏では不平不満を言い続けていた。

まさに心も体も生きてこの世の地獄を演じているのである。これだけの呪いの言葉を口にしたら他人だけではなく自分自身も体を蝕(むしば)まれてしまうのは当然のことであろう。

心の使い方が様々な症状となって体に現れてくることをわかっていない人は多いが、死ぬまで業の上塗りをしていくだろうと思えてならない。

歪んだ心は、傲慢と自己主張、そして虚栄と嫉(ねた)みが心の中で真っ黒な雲となり人間としての穏やかな生き方を見失わせている。

この方はどうしていつも体調不良を訴え、更に血流障害によって片足を切断することになっただろうか。

考察してみますと、過去世における業を清算するべく生まれてきているのに今世もその業に負けて不調和な生き方をしている。

この地上生活においては、すべての事に、また現象にも意味があります。病気や大きな怪我もその意味を含んだ指導でもあったり、試練でもあったりします。

自分が原因となって他者に味あわせた苦しみは、必ず、ブーメランのように、自分のところへ戻ってくるようになっているのです。

何かを浪費すれば、必ず不足に悩まされます。批判は中傷をかいます。嫉妬は怒りをかい、怒りは争いと破壊をもたらします。

しかし、この様な罪を悔いて反省する時に自分が流す涙は、どの涙も、ある過ちを、あるいは、ある罪を洗い流すものであります。

したがって、どのような、肉体的、精神的苦痛であろうと、諦念(テイネン、あきらめの気持ち、道理を悟る気持ち)をもって耐え忍ぶことが必要なときもあるのです。

身を粉(こ)にして、休むことなく働きつづける農夫には、その根気に対するほうびとして、黄金色に輝く、山のような麦や稲の穂が与えられます。

これが、地上において悩み苦しむ人間の運命でしょう。忍耐の結果、得られる素晴らしい収穫を心に描けば、人間生活に付きものの、たまゆら(少しのあいだ)の苦労など乗り越えることができるものです。

このお婆さんに起こっていることも同じです。苦しみの一つひとつが、彼女がこれまで犯した罪に対する贖(あがな)いとなっているのです。

そうした罪を早く消し去れば消し去るほど、安らぎが早く訪れます。

諦念(テイネン、あきらめの気持ち、道理を悟る)とともに耐え忍ばなければ、苦痛は不毛なものとなるでしょう。つまり、もう一度、経験しなければならなくなるのです。

避けて通れないことは受け入れて乗り越えなければ、それが障害にわたって付きまとうでしょう。

したがって、彼女にとって、いまいちばん必要なのは、勇気と素直さです。

それこそ、自分が生れる以前のふるさとである天に対する、そして人間の魂の原点である絶対唯一なる存在に対し、反省と調和の意思を示し心に安らぎを与えてくださいと願うべきでしょう。

お婆さんが、教員時代の話しをする背景には『子供たちへの思い』という大義と語るが実際のところ愛ではなく自分の名誉を誇示している心があるのを私はみていました。
栄光と名声に対しての渇望が野心となり自己主張の念を抱いていたのです。
このような生き方をした人があの世にいくと当分は霊界には入れない。心を閉ざしたものや執着したもの、自我のままに生きたものの行先は光のない世界です。
霊がようやく悔悟(かいご)の心を持てるようになるまでには、死後に数十年から百数十年は試練にさらされる必要でしょう。
長い場合は数百年も極寒や闇のなかで自分の罪に気づけず延々と過ごす者もいる。
あの世では反省が成されなければ再生の道は開かれません。したがって、このお婆さんの場合は余命幾年かは、勇気をもって、今の試練に耐えなければなりません。
苦しみはひどく、また長いかもしれませんが、忍耐強く、諦念(テイネン)をもって、謙虚に耐え忍ぶことが大事です。そうすれば、それに対する報いは大きなものとなるのです。
今の世で逆境にある人、試練と受け止めている人、苦しんでいる人々は、どうか勇気を持っていただきたい。物質世界での生活など、ほんの一瞬なのです。
その後に待っている永遠の喜びを、どうか思い描いていただきたいのです。
いまこの世で80年生きてもあの世では約八百年前後は、この地上に再生するまでの期間を生活するのです。
今が苦しくとも希望という友に呼びかけてください。そうすれば、希望は、必ず、苦しみを和らげに、あなたのそばに来てくれます。
希望の星である正しい心の学びにも努めなさい。
正しい学びは心に安らぎをもたらすでしょう。
希望を捨てなければあなたの心には闇を照らす灯が燈(とも)ります。
さらに、心を調和して守護霊や指導霊に心で呼びかけなさい。
守護指導霊は誰にでも寄り添ってくれています。生涯にわたってサポートしてくれています。
天使たちは、あなたを囲み、あなたを支え、あなたを愛してくれるでしょう。
あなたは天使たちの、変わることのない思いやりに励まされて、あなたが、犯した過ちを許し、天に再び還ることに協力してくれるでしょう。
自分の内なる神性を信じて不満を捨て、愚痴をいわず、怒りを捨てて生きれば自分が変わります。自分が変われば周りが変わります。調和の原点はここにのみあります。