魂の航海

広大な海原を走りゆく船、漁船もあれば、タンカーもあり、豪華な旅客船もあり、みなそれぞれに人生の一コマのなかで働き、楽しみ、生きている。まさに人生航路といえるだろう。

私達は、地球という環境に何の目的で何をしに生まれてきたのか。

そして、我々が現在持っている肉体や、その肉体を支配している船頭さんである魂について、これらを、永い歴史の中に我々の生活に密着している宗教問題との関連において述べてみます。

私達は、神様、仏様といいますと、ほとんどが神社や仏閣、お宮、祠(ほこら)、神棚、仏壇などに祀られているのが神様、仏様だと誰しもが思ってきました。

私達は、一番大事な自分自身の心の中に存在している不変的な魂である本性を理解することなく、神様は何か遠くの方にいるんじゃないかと、多くの人々は錯覚を起こしているのです。

そうして、本当の神様というのは何であろうか、人の口を通して神のお告げだといい、また現象的に姿を見せる者が神だろうかと思ったりします。

ところが本当の神というのは、そんなちっぽけな人間によって作られるようなものでもなく、祀られるものでもないのです。

その実証として、神社や仏閣へ行きますと、私の心の眼でみるもの感じるものは、我々が今まで神と思って祈っていた、祀られている神そのものは、非常に危険なものであるということがわかったのです。

神とは、この大自然、大宇宙そのもの、その意識こそが神なのです。

そして、この大自然というものは万生万物の生命の根元です。

この大自然そのものの法則の中に、私たちが人生において成すべき道が存在しているのです。

人々は、神様や仏様の前へ行くと祝詞を上げたり、お経を上げます。

このお経が信仰の対象のような錯覚を起こしております。とんでもない間違いです。

お経というものは皆さんもご存じのように仏教においては、今から二千五百有余年前にゴータマ・仏陀釈迦牟尼仏といわれる方が、人間はこのように生きなさい。

そして、心でこのように思い、語り、さらに、その道はこういうものだと、片寄らない中道というものを説いたのを後世の人々が書いたものがお経なのです。

しかし、むずかしい漢文のお経は中国から日本へ渡ってきて、そのお経の意味さえ理解することができなくなりました。

我々は、いつの間にかお経を、先祖の仏壇の前や、お寺の仏像の前で上げるようになってしまいました。供養という便利な言葉を駆使して水子供養までさせるに至ってしまいました。

そして、それに矛盾を感じてこなかったわけです。あまりにも永い歴史の中で、先祖はそういう習慣の中にいたからなのです。

しかし、お経の中身をよく見ると、人間はこのように生きなければいけない。

こういう苦しみを持っている時は、ここにその原因かおるのだ。

こういう原因を除かない限り苦しみはまたくるのだ。

というように、人間としての心と行ないの道を説いてあるのです。間違った教えやその宗教、いわゆる邪宗教から離脱しなければなりません。

私のところに相談に来た方には、朝晩のお経の不必要をいいますから物足りないようなことを言います。

意味のわからないお経をいくら上げてもこれは無駄なことなのです。

まあ、発声練習にはなるでしょうけど、それ位なら、もっとよい歌でも歌った方がよいと思います。

私たちの肉体という物は、全く大自然のままに、自然の恩恵を受けて作られています。

この地球という3次元の環境が魂の修行場として与えられ、我々は先祖代々を経て今、肉体があるのです。

ところが多くの人たちは、その肉体は自分のものだと錯覚を起こしています。

あなたの今持っている肉体も実は、あなたのものではないのです。

「そんなバカなことあるもんか、現につねれば痛いじゃないか」とあなたは思うでしょうが、それは違うのです。

つねれば痛いのは神経が通っているからであって、自分のものだとは言っても、病気ひとつとっても自分の思い通りにはなりません。

寿命がくれば、みな肉体から離れなくてはなりません。

今のあなたの肉体はあくまでも人生航路を渡って行く為のただの乗り舟です。

永遠のものは皆さんの魂、その中心に在るところの心そのものだけです。

心というものもちゃんと形があるのです。

私は今まで、心なんて形はないと思っていました。

ところが心の目で見ると一人ひとりに形があるということがわかります。

確かに昔から、心は三角だ四角だなんていってません。

心は丸くといっています。その通りです。それも生まれてきた時の子供の心というのは非常に丸く豊かです。

その心が年を取ると共に歪みを作り、その上に公害と同じようにいっぱいスモッグを作り出しています。

私たちの思ったことや行なっていたことが間違っていた場合に、スモッグになるのです。

そのスモッグになった量だけ心に歪みやストレスを生じ、その量だけ実は苦しみを持つのです。

お荷物を持ってしまうのです。たいてい、私達は苦しむと人のせいにします。

しかし、苦しんでいるのは自分自身(心)だということを忘れているのです。

今、病気をしたり精神的に悩んでいる。この悩みは理由のいかんに関わらず自分が病み悩んでいるのです。

他人ではないのです。悩みの原因を正しく省みて追求することなく人のせいにしてみたり、自分の体がこうだからとか、この人がこうしたから、あの人がああしたからといいます。

心が病んでいる人の多くは原因を自分の外に探しています。

しかし、原因を外に探しているうちは問題解決にはならない。

現に苦しんで精神的にイライラしているのは自分であるにもかかわらず、僕が小さい時に、お母さんが僕にこうしたから、お父さんがこう教えたから、こういうことをしたから、ああいうことをしたからと、友達のせいにしたり、両親のせいにしたりします。

確かに物事は相対的な関わりのなかで結果が出るものではありますが、物事を解決しようとするときに相手に責任転嫁をする気持ちがあると好転することはないのです。

今、苦しんでいるのは自分自身だということを忘れてはいけません。

こういうときに自分の力ではどうにもできない、何とかしてその苦しみをなくそうとして見えない世界の力を借りようとします。

そこで神様が登場してくるわけです。その神様を自分の目や耳や体で確かめることもできないし、医者には匙を投げられ、薬も駄目で、ついにはそういう神秘的な世界に入ってしまうのです。

そして、私たちは。神”と名乗るものの実体さえわからぬままに信じてしまうのです。

それが、たまに病気が治ったりするものだから、却って人間の心の本質を見失わせてしまうのである。

人間の心の世界は、この大宇宙と同じように無限に広いのです。

それゆえに、私たちの思ったことは、次元の違った世界に比例して自由自在に通じていきます。しかし、その思いは自由なるがゆえに法律もありません。

こういうことを思えばこう苦しむよ、こういうことを思えばいい結果が出るよ、といような心の仕組み、法則はきちんとあるのですが、この思うということに制約がない。

ここに問題が起こるわけです。

精神的疾患の九九・九九九パーセントは、自分の思っていることの歪み、正しい基準を失った生活行為、この中から出てくるのです。

その実態は、全てが偽りの我です。

我々の心の中には偽我善我というものがあります。

どんな状態でも、人間の心には自分に絶対に嘘のつけない善我、良心があります。

この善我が本当の無垢の魂であり神の子といわれていることの証なのです。

これは地獄に落ちても同じです。地獄の霊達も必ず心の奥底には善我を持っているのです。成仏できていない地獄霊たちは執着があるだけなのだ。

つまり自分の心のステージに比例した世界で苦しみ生きなければならないのです。

彼らは自分さえよければいいという自己保存の固りなるがゆえに、地上界の生活よりももっと厳しい地獄の世界で自分白身で自然界が教えてくれる修行しているのです。

人間には誰にも善我なる心があるのです。

心とは、あたかも自分が犠牲になって損することであるかのように錯覚を起こしやすいものでもあります。

ですから、つい安直に偽りの我の方へ走ってしまうのです。

偽りの我の心にもその心なりの法則が働き、その人の心に比例した地獄の世界が心に存在しています。

心はどのような世界にも、どのような次元にも通じるだけの優れた送信機であり受信機である。

それだけに善我なる自分の心を見失わず、それを維持し向上させるための片寄りのない想念と行動をする生活習慣が大事だということです。

きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。またの訪問をお待ちしております。ランキング参加しております。、下のバナーをポチッとクリックして頂ければありがたいです。^_^