後光・心は器

あるサークルでは『霊的な体験者が語り合う、興味のある人たちが集う会です。この会では物品販売はしていません。安心して参加してください。会の最後には霊能者が浄霊してさしあげます。会の規約はありません。自由参加です。会費は5000円。』とあった。

この会を主催している人の話しでは、『いつも自宅で寝てる時にラップ現象がある』ということを何かしら誇らしげに述べている。

霊的な存在や現象を認識できるという意味だと思うのだが、しかし、住家でラップ現象があること自体が非常に問題視されなければならないことである。

未浄化な霊たちが住まいで騒ぐということはあってはならないことだし、厳しいかもしれないが、その家に住む人間が不調和であることの証明だということに他ならないからだ。

いたずらに霊現象に関わって、それで金銭を得るということ自体が欲望と不調和を増幅させることになるだけであり、霊が騒いでラップ現象があるのは褒められたものではない。

心の調和された家族と、その家にはラップ現象などないのです。仮に霊的なことに関わっていてもである。

霊現象は類は類を呼ぶ、同調共鳴の原理によって起こる現象だということだ。

心は器

さて私たちの肉体は原子細胞の集団によって構成され、この地上の環境に適応できるように出来ています。

正しい心を生活の指針として生活している大人の原子肉体は薄い黄金色の光によって包まれています。

どういうことかと言いますと、正しい心の生活は、愛と慈しみの光に満たされているということです。

また、絶対唯一の存在からの光は、原子肉体と次元の異なる光子体ともいうべき霊体にも与えられています。

正しい心の生活とは、心に曇りのない生活であり、曇りがないから光が与えられ、安らぎの生活が自然に行なえるようになってゆきます。

曇りとは執着、拘り、不満、愚痴、怒り、そしり、妬み、恨みなどのことである。

後光、あるいはオーラというものは、肉体と光子体(霊体)から発散されている光りのことです。

そして心は器であり、その大きさは、その人の心の広さに比例しています。

心の大きさは、転生輪廻の過程において体験され培(つちか)われた心の広さと、現在、原子肉体に乗って生活している人(自分)の、心と行いによって定まってくるものです。

しかし、過去世において、偉大なる光の大指導霊であっても、現世において正しい道を物差しとした生活を怠ったならば、後光の量と大きさは小さくなってしまいます。

光(オーラ)の状況は、紫、桃色、赤色というように、その時の心の状態によって、後光の色が違ってきます。

怒りの心は炎に包まれ、赤い光が体から発散しています。

愚痴の心は、灰色がかった暗い色が出ています。

不安と恐怖心がある場合はねずみ色、くすんだ色合いとなっています。

人を呪い、野心や欲望に燃えているときは、黒色かグレーに変わっています。

不調和な想念は心をスモッグでおおい、高次な絶対唯一からの光エネルギーをさえぎるため、心に毒をつくり、肉体的にも不調和になる原因を宿すことになります。

一秒一秒の心の動きに、後光の色彩とその量が変化する。それは全く、大自然の天候と同じように変化してゆくものです。

心の美しい大人が心を調和しているときや、正しい心の教えを説いているときは、過去
世のその人の顔と、現世の顔が写真の二重写しのようになり、光子体(霊体)から体全体にわたって、明るい光に満たされ、後光が放射状に発散されています。

後光は次元の異なった世界の段階を反映して発散されていますが、それらの後光は、そのまま、本人の死後に行く世界をも表しているといえます。

光の量が小さいと上段階に行くことは出来ないということです。

これらの後光は、これまでの人生において、自分自身がつくり出した心の調和度によるものであり、決して他人のせいではないということです。

 人間は、宇宙絶対唯一の存在意識からの分霊という意味で、すべて平等であります。

心の広さの段階は、自分自身の責任であるし、この世に生まれてからの生き方、心の在り方によって器の大きさに差異が生じてくるのです。

怒り、そしり、嫉み、愚痴など不平不満を抱いていると、必ず肉体的にも不調和な現象を現すが、間違った信仰をしているものたちにもその心と同じ性格の地獄霊が、その人の光子体(霊体)に憑依しています。

程度の差はあるが、地獄霊が憑依すると、地獄霊の死因となったその病状が被憑依者にも現れます。

医学的病気として完全に表れてしまう人もいれば、病気とまではいかなくても、痛み、疼痛、だるさ、重さ、倦怠感、頭重感、めまい、ふらつき、動悸、目のかすみ、等々の愁訴感を訴える人たちは多く、その人の弱いところに現れやすいのが特徴である。

たとえば、結核で苦しんで死んだ地獄霊が憑依すると、被憑依者は結核のような症状を呈してきます。

精神バランスがよくないままに生涯を終えた人が成仏できずに縁者に憑依した場合などはやはり、同じような状態になる場合がある。

これは十人が十人、そうなるとは限りませんが、おおむね、そういう傾向を帯びてきます。

悪い状況のときは、憑依霊が結核で死んだとしても、憑依された人が肉体的にいちばん弱いところが病気という形で現われる場合もあります。

この点を逆にいうと、彼らは、その人の肉体的に最も不調和なところに憑依するといえましょう。しかし、あくまでも憑依は地上に生きる人間の心に不調和という隙があるから同調して憑依されるのである。
憑依する地獄霊のほとんどは、厳しい地獄界の生活に耐えられず、地上界に執着を持っている者たちです。
彼らの大半は、死んだときの年月ぐらいしか記憶がない者や、自分の生前の名前も忘れ、いわゆる、心喪失の旅路を続けている者たちなのです。
一方、憑依するものは地獄霊(人間)とはかぎらず、地獄の蛇や狐たちもおります。
ことに動物の地獄霊が如来や菩薩、龍などの姿に変化してその姿を見せ人々を驚かせ信じさせている場合が殆どで、他力信仰をしている人びとは、その姿をよく見ることがあります。
上段階の大指導霊や、光の天使たちの出て来る場合は、肉体を持つ地上界の人びとの心が調和されていない限り、その姿を見せることはないし、だいいち盲目な、人間をおどろかすようなことは決してしないのです。
神がかりになって、体を上下に動かしたり、合掌している手先が蛇行するような場合は、すべて、動物霊がその人を支配しているとみて間違いない。
このような人びとは、まことに危険極まりなく、健康にも、日常生活の上においても、いろいろな支障が起きてきます。
またこうした動物霊たちは、肉体先祖が浮かばれていないからお祭りをして供養しろとか、多額の金品を要求したりします。
動物霊が憑依している者は、本能的欲求が強く、したがって、憑依されている霊能者や行者、拝み屋、占い師、個人は、金とか物、カリスマ性に翻弄された生き方をしています。
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