泥まみれのなかで育つ

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汚れにまみれても清く生きられる
酒をたしなめる人はそれが楽しみでもあり、一日の疲れを癒し、心を解放するひと時でありましょう。
古来、お酒の事を般若湯とよぶこともありました。
なぜ般若湯というのだろうか。
ご存じのように、お酒は少量にすると体のために滋養やお薬のような働きをするところもあるし、精神的にもリラックスして知恵も生まれるということから「般若湯」と表現されたようです。
般若とは智慧の意味で、波羅は行くとか到達するという意味、蜜多は内在するという意味で、内在する智慧に到達する心経(心の教え)ということになります。
これが般若心経にでてくる『般若波羅蜜多』の意味でご存じの方も多いでしょう。
この『般若』というのは、実際は単なる人間の知識や知恵ではなく、真実を見抜く悟りへの智慧と理解すべきかと思います。
仏教徒、特に出家僧が守るべき日常生活における規則に「五戒」というものがありますが、そのなかの一つに「不飲酒戒・ふおんじゅかい」という、お酒を飲んではならないという教えがあります。
この教えは、酒を飲むこと自体を戒めたというよりも、酒を飲むことによって堕落し、悪を行うことを戒めているようです。
そして不飲酒戒という戒律が日本に伝わってくると、日本人は「酒を飲むこと自体がいけないのではないから、酒を飲んでも他の悪いことをしなければよいはずだ」と解釈するようになったようです。
特に禅宗系の寺院の門前には、酒を飲むことが激しく戒められていましたが、薬として身体のために少しぐらい飲むのならよかろう、ということで、酒として飲むのではない、という意識から、「智恵のわきいずるお湯」、「体の滋養やお薬」という意味を持った「般若湯」という名をづけたのでしょう。
このような日本酒(般若湯)ではありますが、なかにはお酒に呑まれてしまって大トラになって家庭の破綻になる人もいます。
どんなに良い般若湯でも心を見失うほど呑まれてはいけませんね。
さて、人間はだれでも清廉(せいれん)に生きたい、という思いをもっているものではないだろうか。
この世の汚れにまみれずに人生をまっとうできたら、それはまたそれでどんなにかすばらしいことでしょう。
しかし、人によっては嫉妬の海に投げ込まれて苦しんでいる場合もあるでしょう。
思い通りにいかないことに苛立ち相手にぶつけることで疎遠になることもあるでしょう。
私自身も未熟者なのですが、日々を生きているうちには小さな欲にとらわれたり、怒りの業火に焼かれたりします。
そんな自分を感じると、「まだまだなっちゃいないな。こんなことじゃいい人生なんか送れそうもない」といった思いがしてきます。
しかし、生命という生命はもともと全てが入り混じった混沌のなかから生まれています。
いってみれば、どろどろした塵芥(じんかい)が生命を生みだしている。
塵芥とは、ゴミ、あくた、汚れもの、のことです。
しかし、塵芥は生命を育てていく不可欠の養分でもあります。
寺院などの池で見かける蓮の花は泥のなかに根を降ろして、そこから栄養を吸収して美しい花を咲かせています。
どのような花もきれいな水の中だけでは丈夫になれず、立派な花を咲かせることはできません。
人間だって、たとえ様々な欲があったとしても、その欲によって生かされているところもあります。
そういう意味からすれば、欲とまったく離れて生きることができない人間だともいえるでしょう。
しかし、その欲に染まってしまってはならない。
さまざまな欲のなか、そういう世の中で暮らしていても、こころのなかに欲を持っていても、塵芥(じんかい)のなかに浮かんでいながら、なお、美しい花を咲かせる蓮華のように、清らかな生き方はできるのではないだろうか。
蓮華の花は、わたしたちに人生を教えてくれているようです。
欲にとらわれることがあっても、嫉妬に身を焦がすことがあっても、怒りを抑え切れないことがあっても、いいではありませんか。
そういう自分に気づいたら少しずつ手放す努力をすればいいでしょう。
蓮の花は泥に浸かっている自分を静かに受け入れています。
「まだまだ人間ができていない、自分は罪深い人間だ、」などと思い詰めたり、過去に囚われて苦悩したり、自己否定したりすることはありません。
そのときどきの白分を素直に認め、ただ、そのままに受け入れればいいと思います。
これは罪を犯して良いという意味ではありません。
これまでの欲や嫉妬や怒りに気づいたらそれを成長の糧にすればよいと思うのです。
怒りを感じた相手を責めるのではなく、まず、自分の怒りを鎮めることを考えたい。
落ち着いた気持ちになると、怒りの真の原因が見えてきます。
たとえば、自分に「あのひとならきっとこうしてくれるだろう」とか「彼ならこんなふうに考えてくれるはず」という、勝手な思い込みや期待感があると、それがかなわなかったとき、失望や怒りが込み上げてきます。
しかし、相手は自分の信念や思いにしたがって発言し、ふるまったに過ぎません。
相手に対して怒りを向けるべきことではありません。
それならば、「あのひとはそんなふうに行動するひとなのか」「彼はそういう考え方をするひとなのだ」と受け止めればいいと思うのです。
それは相手をより深く知ることに繋がっていきます。
そんなことを通して、人を見る目が磨かれ、人のこころを理解する力が豊かになります。
欲や嫉妬や怒りを、まず、白分で引き受けるのは忍耐や理性という冷静さがが要ります。
人間には耐えるという心がなくてはなりません。
そういうときに耐えることによってのみ心に光が差してきます。
仏教では悟りに至るためにおこなう修行として六波羅蜜を定めています。
そのひとつが忍辱の修行、つまり、なにごとにも耐え忍ぶ修行です。
耐える力を養っていないと、欲や嫉妬や怒りが高まって、心の動き、流れがとどこおってしまいます。
こういった欲や嫉妬、愚痴、不満だけではなく、周囲への過ぎた気遣いもまたその背景には自分の奥底に、いい人でいたい、悪い人と思われたくない、という評価を気にする心理が働いている場合があります。
その結果、いつまでもそれらに振り回されることになります。
思いを手放し、しなやかに耐えてこそ、塵芥(じんかい)のなかにいて、なお、清廉(せいれん)に生きる可能性が広がるのではないだろうか。
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