拘りを捨てて学ぶ心
子どもたちをみているとその純粋で、且つ、すなおな好奇心の強さに感心してしまう。
さまざまなことに興味をもち、何でも遊びにしてしまい吸収していく姿は、白紙のキャンバスに絵が完成されていくようなものかもしれない。
時とともに全体像がみえてくるからだ。
素直な心というものは、すべてに対して学ぶ心で接し、そこから何らかの教えを得ようとする謙虚さをもった心ではないだろうか。
何事も経験であり、勉強である、ということをいいますが、そのような心構えをもって人生を過ごしてゆくならば、月日とともに色々なことをおぼえ、学びとってゆくこともできるでしょう。
そうしますと、そこからは限りない進歩向上の姿も生まれてくるのではないでしょうか。
例えば、他の人々と日常ふつうの会話を交わしている際でも、何の気もなしにただ話をしているだけであれば、その場限りのものとなってしまうでしょう。
けれども、そういう際にも、勉強する態度というか、学ぶ心というものを保っていたとするならば、相手のふとしたことばの中から気づかされ、学ばせられるようなものを見つけ出すこともあると思います。
自分では気づかなかったような事柄を知ったり、知らなかった知識を得たり、さらには何らかの教訓を得たり、というように、学ぶ心さえあれば、日々の会話であろうと何であろうと、お互いの生活、活動の中からいろいろなことを学びとることができるのではないかと思うのです。
これは私自身の実感でもあります。
お互いが学んだり勉強したりするのは、学校においてだけとは限らないことはもちろんですが、人生の各面で勉強できるかできないかということは、こういう学ぶ心の有無によって左右されてくると思います。
もしこういう学ぶ心がなければ、何を見ても、何をしても、ただそれだけのことに終わってしまいます。
人と会って話をしても、人々の姿、世の動きなどを見ても、ただ話をするだけ、見るだけに終わってしまう場合が多いのではないでしょうか。
たとえば、思わず、何か人の気にさわるようなことを口に出していってしまったとします。
この場合、相手と気まずくなったり、あるいはケンカになったりもしかねません。
けれども、その後の考え方なり身の処し方が大事だと思います。
つまり、学ぶ心をもっている人ならば、自分の非をさとって直ちにわびるでしょうし、あのようなことを囗に出していってはいけないのだな、ということを自分なりに悟り、二度と再びそういうことをいわないよう常々心がけるようになるでしょう。
だから、そういう失敗を再びくり返すことは防げるだろうと思いますし、心の広いというか、懐が深い、というような人間になっていくことができるでしょう。
しかしながら、学ぶ心がない場合には、別にそういう姿から何かを気づいて改めるということもないでしょうし、再び同じようなあやまちをくり返すことでしょう。
そこには進歩なり成長がなく、他の人たちとの協調性にも欠け、あるいは人間関係につまづきやすく、どうしても孤立しやすい状況になりがちということがあります。
これはもちろん、自分自身の体験だけに限ることではなく、他の人の失敗や社会のいろいろなできごとを見ても同様でしょう。
つまり学ぶ心がなければそれらを他山の石とするといったことができにくいと思われます。(他山の石とは、他人のどんな言動でも、たとえそれが誤っていたり劣っていたりした場合でも、自分の知徳を磨いたり反省の材料とすることができるというたとえ)
また反対に、他の人々が何かしら優れた方法を実行していたり、いいアイデアをもっていた場合などでも、それに気づきにくく、したがって、それを自分にとり入れて活用するというようなことも、十分できないのではないかと思うのです。
だから、学ぶ心というものがなければ、結局は、自分自身が成長、向上しないばかりでなく、自分の属する共同生活の向上発展を妨げてしまうことにもなり、且つ、孤立する傾向にもあるのです。
頑なに自分の思考や価値観に拘らず、もっと自由な心、あるいは白紙の状態で物事に臨むというぐらいの気概があってもよいのではないでしょうか。
したがって、こういう学ぶ心というものを養っていくことが、お互い人間にとって非常に大切なことの一つといえると思います。
学ぶ心があれば、この世の中の一切の人、物、あらゆる物事のすべてが、自分にとって貴重な教えともなり、勉強ともなってくるでしょう。
だから学ぶ心からは、お互いのたゆみなき向上、進歩の姿というものも生まれてくるのではないかと思うのです。
学ぶ心というものは、こうした好ましい姿をもたらすものであると思うのですが、この学ぶ心というものも、実は、素直な心になるところからあらわれてくるものだと思います。
というのは素直な心というものは、まだ何もかかれていない白紙のようなもので、吸収すべきは何でも吸収する心だからです。
したがって、字であろうと絵であろうと、何でもその上にかくことができます。
すでに字が書かれているから、もう絵を書いてはいけない、というようなこともありません。
また、すでに全面にわたって字がかかれているから、書き足す必要はもうない、というようなこともないわけです。
字でも絵でも、すべてを新しいものとしてみとめ、そして是なるものはこれを大いに受け入れるわけです。
この受け入れる、という心になるには白紙にすること、すなわちこれまで述べたように必要以上の拘りを、先ずは捨てることから始めなければならないでしょう。
こうして素直な心になれば、おのずと、人といわず物といわず、また物事いっさいに対して、つねに学ぶ心で相対するようになれると思うのです。
人と話をすればその話の中から何らかのヒントを得るとか、また何らかの物、たとえば路傍の草木をみてもその動きや姿の中から何かを感じるとか、日々これ勉強、学びである、といったことにもなってゆくのではないでしょうか。
要するに、素直な心になれば、すべてに学ぶ心があらわれてくると思います。
いっさいに対して学ぶ心で接し、そしてつねに何らかの教えを得ようとする態度も生まれてくるでしょう。
素直な心になったならば、そのような謙虚さ、新鮮さ、積極さというようなものもあらわれてくるのではないかと思います。
社会生活、会社において、いつもうまくいかず職を変える人もいますが、そのような人の場合、必ずしも職種だけの問題ではなく、案外、根底には人間関係においてスムーズにいかず、ぎくしゃくすることで精神的に参ってしまい退職するということが多々あります。
一般的に、差ほど心に重く受け止めるほどのことでもないような内容でも、人によってはどうしても3のものを6や8にも受け止めて長期にわたって引きずって苦しんでいるという場合があります。
そして、重く受け止めていた6や8のことについて本人と話し合ってみますと、やはり不要なことを抱えている場合が殆どです。
これは価値観の相違という問題だけではなく、思考の癖でもあり、傾向性ともいえるもので、根底には必要以上の拘り、執着が根差しているものです。
何事に関しても、相手の言葉や行動に過敏に反応して、それを長期に心に抱えているという実情がみえてきます。
せっかく就職できた会社を、職種は良かったのに、といいながら辞めてしまうという背景にある人間関係への苦手意識、不得手なコミュニケーション、こういった社会生活、人間関係をスムーズにできない理由の根本にみえてくるもの、それが拘りであり、執着というケースが少なくない。
人生、すなわち心を白紙にして人の道を生きること、これはそのまま、すなおな心の学びだと思うのです。
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