悟りの境地に到る道

禅定
見る・思う・語るにある人の道
前回の文中では、人生模様と心の機微、喜怒哀楽という一喜一憂についても触れました。
よく聞く言葉ですが、「憂さ晴らしに飲みに行ってきた」、「友達とお茶しながら愚痴を吐き出してスッキリした」、俗にいうストレス解消ですが、その方法は人によってさまざまなようです。
私が会社員として働いている頃、30年ほど前には、付き合いで夜の街に繰り出したこともありましたが、残念ながら酒を飲んで憂さ晴らしになった記憶はない。
女性ならお茶して愚痴を吐き出し、スッキリということもあるかもしれないが、それもなく、仕事上で上司や本社に直訴をした記憶はあるが、お茶して愚痴を言った記憶もほとんどない。
私の場合は、性分がそのようで、これまで問題があれば、その事の原因を「何故か?」と考えて答えを見出す習慣が若い頃からあった。
ここでお伝えしたいことは、真に心の向上を願い、それを学びたいと願う人間であるならば、「お茶して愚痴を吐き出してスッキリした」であってはならないと思うし、「酒を飲んで憂さを晴らす」ということよりも、もう少し何かの手立てがあるはずです。
悟りの境地に至る道
きょうは何事にも囚われず、自由自在に生きられるような心になる為に行わなければならない基本を述べてみたいと思います。
右にも左にも偏りがなくということは即ち、物事に心が囚われず、執着せず、中ほどの道を行生き方のことをいうのですが、この中道の道を歩むには、具体的にどうすれば良いかということを考えてみましょう。
先ず、その為の八つの規範である正しい生き方、即ち、八正道が私たちの生活に密着することで心を調えることが適うということ。
正しく見る
正しく思う
正しく語る
この三つの精神の働きは、人間がこの世で生活する上に、もっとも大切な、そして基礎的な部分を占めています。
この三つを心得て行うことで、心に安らぎも得られ、深奥な気づき、悟りの境涯に近づけるものだと確信します。
中国の論語には、『礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ』という孔子の言葉があり、日本に入ってきて
『見ざる、言わざる、聞かざる』が猿と結びつき三猿となったとされています。
つまり、これは、心が調わずして見てはならない、心調わずして聴いてはならない、言ってはならない、行ってはならないという、煩悩から離れるための基本的な条件を示している言葉だと解しています。
煩悩という迷いが生じるのは、見たり、聞いたり、話したりすることから起こることが多いからです。
ですから、煩悩を滅していくためには、五官(眼、耳、鼻、舌、身)であるところの眼、耳、口に囚われてはならないといっているのですが、しかし、私たちにとってこの必要な五官で見るなということではなく、聴くなでもなく、語るなというこでもない。
そうした五官から受ける精神の作用を通して、現実社会のなかで、それを正しく行なえということだと思います。
先の三猿の例を、そのまま鵜呑みに解釈してはいけないでしょう。
ただ見るな、ただ聴くな、ただ語るな、ただ行うなでは逃避になりかねません。
偏りのない中道を心の物差しとして、事の善悪を判断した生活、それが正しい人生となろうかと思います。
しかし三猿の例は、煩悩という知足を忘れた欲望が生じるもっとも危険な精神作用への戒めのメッセージであり、私たちの心の盲点でもあり、弱点を指摘している諺である。
八正道の冒頭にある
「正しく見る」とは、善なる偏りのない中道の心の眼で見ること。
「正しく思う」とは、頭で考えないで、善なる偏りのない中道の心で考えること。
「正しく語る」とは、自分にウソのつけない善なる偏りのない中道の心で考えたことを語るようにせよ、ということ。
よく、「心から」とか、「心より」、「心ならずも」、「心無い人」というように、心というのは意識の中心のことであり、その意識の中心はとなると、自分と他との差別観のない慈愛をもった善なる心です。
そして、見る、思う、語るの在り方は八正道の最も重要な柱であり、あとの五つのあり方の基礎となるものです。
次に、
「正しく仕事をなす」ということは、与えられたその職務に対して、忠実に、義務と責任を果たすということでしょう。
ここでいう仕事の意味ですが、ただ単に表面的に、あるいは量的に人より多く仕事をなしたということよりも、人々の幸福を願い、且つ、働く環境そして仕事を与えてくれた人々に感謝し、その感謝の心を、行為によって報いるということ。
働く環境を提供している人々もまた、働く人々に感謝の心を忘れず、相互に、より良い生活の安定と、心の調和をはかり、報い合うことが大切だと思います。
経営者や役員、先に立つ立場の人たちは決して驕りや傲慢な言動で働く人たちに接し、押し付ける行動であってはならないでしょう。
そしてまた、働く人たちも、自らの義務と責任を果たすことはいうまでもありません。
たとえ、仕事の量は少なくとも、心から出た奉仕の行ないのほうが人間としての心が成長するものです。
何故そのような思いが大切であるかとなると、この世は、どのような環境も魂の修行のためにあるのであり、仕事そのものは、魂の修行の材料にすぎないということ。
勿論、質と量が、相ともなえば、これに越したことはありません。
しかし、天の意識は、あくまでそのに重点をおいていることを、私達は忘れてはならないと思います。
心の調和を心掛けていると、徐々に向上し、境涯も変わってくるのだが、そうなると仕事が祈りであるかのように自然に行えるために、敢えて祈るために仕事や生活を犠牲にする必要がないことを悟ってくる。
形や量にとらわれてはならず、いかに心を込めたかということを大切にしなくてはなりません。
昔から、長者の万灯より、貧者の一灯という言葉があります。
心からの行為、それをいったものだ。
日本から多額の寄付金を持ってマザーテレサを訪ねた人が丁重にその寄付金を断られた。
しかし、日本円で10円にも満たないお金をもっていったインドの貧しい子供が「マザー、少しのお金だけどこれを使ってください。」と差し出した硬貨を「ほんとうにありがとう」といって受け取った。
売名行為をもくろんでマザーと一緒に写真を撮りたがったり、寄付をしようとする個人や団体もあるようだが、マザーはその意図を読んでいたのであろう。
資本主義もマルクス主義も、物質と経済が基準になっているため、本当の心はない。
よく言われることですが、私達の本当の幸せは、果たして経済だけであろうか。
経済だけに幸せがあると考えている人々は、本当の意味で心豊かとはいえないと。
人間が造り出した貨幣経済というものが、いろいろ不安定な問題を投げかけているという事実からも、私達は眼を避けてはならないでしょう。
そして、その事実から、真実の幸福とはどこにあるかを考えなければいけないと思うのです。
富ばかりが人生ではない。
絶対唯一なる存在の意識が造り出した宇宙の法則は、絶対に変わることのない永遠不滅のものであって、心を失った人間の智恵だけで、この法則をくつがえすことはできないのである。
人類が何の為に地上における人生を過ごすのかと考えてみると、この不変の真理を自ら探し求めて、その真理にかなった生活をし、より豊かな心を造り出すとともに、調和された社会を築き上げることではないだろうか。
「正しく生活をする」とは、日常生活の心と行ないについて、家庭生活の在り方、近隣の人とのつき合い、勤め人としての在り方、使用者としての在り方などを、正しくするということ。
そして無益な殺生などに基づく、道徳に反する職業や仕事はせず、正当ななりわいを持って生活を営むことでもあります。
私達は、この日常生活においては、とかく些細なことに心を煩(わずら)わし、五官六根に左右されがちであり、心の歪みを造ってしまいます。
ことに、眼で見る諸現象、耳で聞く諸問題、そして、語られる言葉、そんなものによって私達は心を惑わし、惑わされる場合が多いものです。
自分を惑わし、他人をも惑わして、大きな罪を造ってしまうのも人間。
このように、眼、耳、口は、もっとも代表的感覚であり、これらに振り回されてしまうと、煩悩のとりこになり、自分自身を失っていきます。
そして、転生輪廻の過程で造ってしまったカルマ(業)が心のなかにしみ出してきて、悪循環という悪い運命に身を堕すことになってしまう。
今世で心をきれいにしようと思って生まれてきていることに気づけず、自分の為した、想いや、言葉や、行動が、周りに影響を与えていることにも気づけず、自分は正しいことをしていると思いこんでいる人ほど実は業が深い場合が多々あります。
人間は望まないのに、病気をしたり、交通事故に逢ったり、人に騙されたりして、人を信じることもできなくなり、小さな心にもなる。
小さな枠に入った自分を造り出して、苦しみの人生を送ることになってしまいます。
物事がうまくいかず、トラブルや事故や問題が発生すると、原因を他人のせいにしたがるものだが、しかし、自分が当事者であることは間違いないことであれば、やはり、自分にも原因があることに気づかなくてはならない。
原因のない結果というものは存在しません。
そこで、こうしたカルマに振り回されないようにするため、まず現在の環境、立場、生きていられるそのこと自体に感謝することが何を置いても最優先でしょう。
しかし、この感謝ができないほど心が狭くなっている人は多い。
これもまた自身の業と言える。
物一つ求めるにも、多くの人々の苦労によって造られ、助けられ、また太陽や水など、自然の恩恵があって、私達の存在はあります。
私たちの生活は直接的にはお世話になっていないという場合でも、間接的には全ての人たちのお世話になることで生活を維持できています。
私達は、これに報いる心を忘れてはならないでしょう。
それには、自らの欠点を知り、素直にそれを認めて受け入れ、修正し、社会人類のために余った時間を奉仕することも必要です。
「正しく道に精進する」とは、主に人と人との関係においての言葉です。
実は、夫婦、親子、兄弟、友人などは、それぞれの因縁、あるいは約束のもとに、結ばれています。
だから我欲にもとづいた自己主張をしないで、調和ということを目標に、感謝と報恩の毎日の生活を送らなくてはなりません。
なかには、自分は調和をはかりたいのだが、妻が、夫が、友人がなかなかいうことを聞かないという人もあり、別れたほうが良いと思う人もあるだろう。
しかし、本来は、片方がゆずる心を持って態度を変えれば、相手も変わってくることもあります。
意志疎通がないというのも、何か原因があるからで、自分が至らない点、不調和な根を探し出して、良く反省することが大切です。
しかし、それでも調和できない人々もいます。
相手の暴力や毒舌が休まず攻撃してくることもあります。
だが、それでも私達は、調和の道から逸脱した相手の姿を感じたなら、決して争ってはならない。
争わずに、「安らぎがありますように」と心から願うだけの余裕がほしいものである。
執着せず、偏った心にならずに生きるには、先ず、五官六根に左右されない自分を発見すること、それが先決です。
それにはあくまでも自分を調えることが先決です。
自分の短所、長所をしっかりとみつめ、短所を修正し、長所を伸ばすことが大事であり、そのための勇気と決断が必要です。
病気にしても事故にしても、また人に騙されたりすることは、五官に振り回された自分の想念と行為に問題があるという場合もあります。
私達の欠点短所は、どうしても五官にもとづいた想念に一番結びつきやすい。
だから、欠点の修正には、思い切った勇気が必要だということになります。
正しく生活をするということは、人生の目的と自分の役目を悟った毎日の生活行為にあるわけで、常に、安らぎの境地にあって、一切のこだわりや執着から離れ、足ることを知った生活を送るということでしょう。
執着から離れ、足ることを知ってしまうと、仕事などできないのではないかと思う人もいるかもしれませんが、しかしそれは違います。
正しい人の道を悟って、悔いのない仕事を一日一日積み重ねたならば、誰でも立派な成果が得られ、周囲からも支持をされ、己自身もある程度の悟りの境涯に到達できるものです。
一日一生、思い残すことのない生活を送ってみること。
しかし、人間、過去を引きずっては間違いなく苦しみとなり、かといって先の事にばかり想いを馳せると不安と恐怖心が増幅するからこの点は要注意です。
となると、今日一日を生き切ることに徹することしかない。
もっと厳密に言うならば、今というこの瞬間を執着なく生き切ることです。
そして、反省しても、良い面だけしか出てこないような、そんな一日を体験してみること。
忍辱(にんにく)という言葉があります。
これは「あとで見ていろ」、「あとで仕返しをしてやる」、というようなことを、心のなかで思うようでは、忍辱とはいいがたいし、その想念は暗い曇りでおおわれ、自らの霊囲気を不調和に乱してしまうことになります。
外部からの辱(はずか)しめによく耐えて心に歪みを造らないことが大切です。
つまり、辛抱しても心を歪ませないということです。
結論は、心の調和できない人々は、肉体的にもバランスを崩したり、病気をしたり、他人の信頼も失って、ますます苦しみの渦のなかに埋没してしまうことになります。
原因と結果は巡ってくる、ということを私たちは悟らなくてはならない。
物理学で説かれているところの作用と反作用の法則と、全く同じ結果になっている。
人間の心も、相手に作用するから相手も作用してくるのであって、このことを反作用というし、作用する力が大きければ反作用も大きくなるのは当然の理です。
身に覚えがあるかたも多いかと思いますが、ケンカがその例を如実に現わしていて、感情的になればなるほど、相手も激高して争いとなります。
反対に、穏やかな愛は相手に安らぎを与え、再び自分にその愛が帰ってくることをみれば、愛も作用し、愛となって戻ってくることになります。
愛は循環します。
愛は輪廻します。
これが心の法則であり、宇宙の法則です。
宇宙の法則は絶対唯一なる存在意識の法則です。
自分自身の心を、丸く広い豊かなものに造り、不調和な環境にもいろいろなケースがあるとしても、大調和を目的とした人間関係を造り上げてゆくことが、精進の第一の目的といえるのではないだろうか。
つぎに、
「正しく念ずる」である。
″念″には目的があります。
偉くなりたいとか、良い家に住みたいとか、あの人と結婚したいとか、あの人は憎らしいといったことなど、人によってさまざまであろう。
しかし、念の正しい在り方は、中道(偏りがない)にかなった目的が、最上といえよう。
念のなかには、自分の欲望をもととしたものが多いが、この欲望はとどまることなく、発展して行くものである。
これが、やがて、人と人との調和を欠くことになるのだ。
人間には、転生輪廻の過程において造り出してきた自らの器量があり、この地上に生まれ出てからの器量とがある。気根ともいう。
それが総合された人間の器は、人それぞれ異なっている。
会社の社長になろうとしても、社長は一人しかいない。ところが、自分の器量に関係なく、無謀にポストだけを求めるから、争いとなる。
昔は、武力でこれを奪いとったが、現代はどうだろうか。政治には選挙というものもあるが、これにも闘争はつきもののようである。
そして役員や、会社員の世界にも、役職に対する執着、ポスト争いには熾烈(しれつ)なものがあるようだ。
こうした、自己の欲望にもとづいた念の作用が働くため、社会は争いと矛盾に満ちたものに変わってしまうのである。
このような欲望も、それぞれが、自分の器がわからないため、自我我欲のとりこになってしまうところに発生するものといえよう。
またこれは、自分の適業が、何であるかという判断が、むずかしいからともいえよう。
しかし、欲望には、これでよいという限界がない。そのため、人間は、自らの心に足ることを知った生活、それが必要であるということだ。
念の在り方は、こうした意味で、足ることを知った、調和にもとづいたものであることだ。
最後に、
「正定」であるが、これは反省である。
前述の七つの規範に照らして、今日一日の自分の想いと行為に、行きすぎた点がなかったかどうかを振り返って、間違いがあったらこれを改めて二度と、同じ過ちをしないことである。
これは行動にうつさず、知識と観念だけの遊戯であれば、決して心が調和されることもなく、向上することも適わないであろう。
八正道は実践によってのみ心に落ちるものであって、知識の集積であってはならない。
反省は単に、ああ悪かった、良かった、で終わってしまっては、正しい反省とはいいがたいのである。これは重要な点である。
反省したとき、間違いを犯したことを発見したならば、その間違いはどうして起こったのかといった、自分の心のなかの原因を追及してとり除くことが大事なのだ。
それをとり除くことが心を浄化することになるのである。その結果、精神と肉体がまず健全になり、家庭の調和、職場の調和、社会の調和につながって行くということだ。
日常生活のなかで、物ごとに失敗したなら、その失敗の原因を究明して、二度と同じ失敗を犯さないようにつとめる。そうすれば、やがてその失敗は、成功に結びついて行くということである。
反省もしないで、同じことをくり返すようでは、成功することは困難だ。人の心と行為も同じことなのである。
「正定」の基本は、反省にあることを深く肝に銘じなくてはならないだろう。
そして瞑想的反省は心の曇りを除き自らの霊囲気を高めて行くことができるということを知らなくてはならないだろう。
もっとも、反省、反省と、反省ばかりに終わると、自らの心を狭く小さくしてしまうから注意すべきである。
人間には、内向的、外向的、楽天的、悲観的といういろいろな傾向がある。
従って私達は、自分の性格に適合した反省の仕方、これを身につけて「正定」をすることが必要になってくるのである。
正しい道、即ち正道は、各人の生活の智恵や実行力を傾け、勇気をもって努力することがそれにいたる早道であり、自らの心の想念と生活が豊かになる近道でもある、ということを悟るべきであろう。

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