人生を拓く人生

STOLEN-CHILDHOODS3
諦めたら成長も未来もないのだが、苦痛や挫折も経験したからこそ、もたらされたものは何であろうか。
道は必ずひらける。
この。「ひらける」という言葉にあなたはどんな漢字を当てるでしょう。
開ける!か、拓ける!か、披ける!か、啓ける!か、なのだが、一般的にはやはり、拓ける、か開ける、の二文字が浮かんでくるはずである。
どちらも正しいのですが、開く方は、未だ知らぬ先、つまり未知の世界への扉を開くという意味が強く、未来形です。
これに対して拓くというのは一歩ずつ耕していくという現在進行形を示している。
開拓という熟語はこの二つの文字で成り立っているが、荒地を開拓するというふうに、自分の進んでいくと定めた道を、自分の思考と行動で切り拓いていくことでしょう
私は35歳で会社員を辞めてすぐに自営業を始め、仕事をしながらも、こつこつと医学と健康に関する専門知識を独学して準備をし、かねてからの願いであった整体を42歳で起業した。
現在65歳になったが、この仕事をスタートさせて24年目の現在も生涯を通じて現場にいたという強い気持ちが今も消えない。
幼少の頃の私は決して丈夫という体ではなかったために親の勧めもあり、その当時通学した小学校と中学校で剣道をやった。
田舎ではあったが、県内では常にトップクラスの入る剣道の名門校であったこともあり4年生から始めた豆剣士でした。
先輩や先生、OBの人たちには随分と稽古をつけてもらったが、それが丈夫ではない私の基礎体力を養ってくれたし、礼にはじまり礼に終わるという武道精神が礼節というものを学ばせてくれ、忍耐をも培ってくれたと思っている。
これまでさまざまな逆境や試練に遭遇してきましたが、なぜか厳しい状況に追い込まれたときほど私のモチベーションがアップすることが多かったし、諦めるということをしなかった。
いいにつけ悪いにつけ自分が納得するまで、成果が出なくても努力は惜しまなかった。
20代という若さと未熟と無知によって暴走して挫折も味わい、借金で首が回らなくなり、生活も非常に厳しい状況まで追い込まれたこともあった。
30代前半、まだ会社員として働いているときにに、本社の上司(常務)による不条理な言葉に完全に心が切れて失望感に打ちのめされたとき、知人に紹介をいただいて、何故か禅宗のお寺の住職に面会することになった。
住職は何も言わず私の話しをただ黙って聞き入れてくれた。
何とも言えない開放感があり、有り難くて涙が溢れるのだが抑えることができないのだが、「何なのだこの気持ちは」と自問していた。
住職は私の話しが終わるのを待って一言「捨てなさい」と言った。
しかし、私には住職の言葉の真意が解らない。
住職は言った。
自分が努力をし、社内においても業務上正しいことをしてきたのならそれだけでいいではないか、報われようが報われまいが、その事実こそが自分の財産なのだよ。
ここにきた理由が苦しみから解放されたいと願ってきたのであれば、一切を捨てなさい。
不要なものを抱えているから苦しいのだよ。
その抱えているものを捨てることができないというならば、それはあなたの欲がそうさせているだけではないのか。
解るかな・・・・・・・・?
その欲の事を自我というのだよ。
その自我はほんとうのあなたの姿ではなく、偽りのあなたの心がそうさせているのです。
そこを捨てなさいというのです。
しかし、自我の心が強ければ強いほど捨てることが難しいものです。
住職の言葉は無駄がなく、押し付けではなく、魂の奥底に響いて私の心をわしづかみにして離さない。
結果を出してきた自分が、心ない上司の放った不条理への悔しさと、自分の愚かさと、住職の深い懐の慈愛に触れて涙がとまらなかった。
省みると、私の生き方そのものが、耐えて頑張って生きてきただけに、拘りに偏っていたところが多分にあったのでした。
以来、私の心に大きなショックと疑問が投じられることになり、人生観に大きな転換がはかられはじめ、3年間、春夏秋冬、365日、休みなく早朝五時に禅堂に通って瞑想した。
価値観に変化がおきていった。
拘らない。
執着しない。
そんな生き方をしたいと願った。
苦痛、挫折、そして自信へ
私自身、たいした才能を持ち合わせたわけではなく、学問が非常に苦手であったし、とうぜん学生時代の成績は最下位ばかりであった。
ただ一つ、身体を動かして働くことは幼少の頃から苦だとは思わず、親と一緒になって田畑で働いた。
農家の仕事は尽きることがなく、限りなくあるもので、慣れてくると次にやるべき仕事がみえてくるから言われずとも自分からその作業をするようになった。
かねてより母を助けたいという思いで動いてはいたが、中学生の頃にもなると母に頼られて農作業をするようになっていた。
身についたことは大人になっても変わるものではない。
おかげでどんな逆境においても忍耐する精神力を幼少の頃に培っていたように思います。
何の取り柄もない私のような人間は、とにかく体を動かすこと、行動すること、忍耐して働くことでしか生きる術がないと思って生きてきたように思います。
私自身は微力ではあっても、決して無力ではないと信じていました。
昨日から学び、今日を精いっぱい生きていれば、必ず明日が拓けると信じてきました。
幼少の頃の悲しい思い、何もない二十代に味わった苦痛や挫折がなつかしく思い出され、あの状況をとにかく乗り越えたという自信が、私のバックボーンとなってきた。
現在、体力の衰えは実感しているが嘆くこともない。
生あるモノは枯れるか腐るしかないのだし、年を重ねてこそ初めて解ることも多々ある。
そういうときの喜びは若いときの喜びとは質の深さが異なる。
未来には、自分自身によって生み出される何かが待っている。
人生は、自分自身の心がそれを生み出すことを期待しているのだ。
もしも、自分が逃避したり、いなくなれば、その何かも、開拓されることもなく、生まれることなく消えてしまうのである。
今日できることを、明日に延ばしてはならない。
今日それを片付ければ、明日はそれが楽しみになります。
物事を成し遂げるには、成し遂げるまで失敗することでした。
よく、人の役に立ちたい、ということを聞きますが、物事がうまくいかないと思ったら、まず最初に自分がこれまで何人の人を幸せにしてきたかを考えてみたいものです。
自分の置かれた試練を乗り越えてこそ人のお役にたてることがわかります。
科学的には非常にパワーを発揮する蒸気や、電力、原子力、石油などがありますが、何より強い動力となるのは人間の意志ではないだろうか。
この意志こそが道を開拓してくれます。
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