素直な心と平常心

赤胴鈴の助

竹を編みこんで作られた赤い色の防具を身にまとい、エイッ、ヤッ、面、胴、小手、と小さな豆剣士が声を張り上げて竹刀を振り回している。

秋の八幡神社境内での大祭は毎年恒例の行事であり、その境内で他校の小学生との交流試合がなされていた。小学校4年生のときですから54年前の私の姿である。

いつも豆剣士たちの試合を見て熱く声援を送る人だかりの見物客と、たくさんの出店で賑わっていたお祭りで、それはそれは楽しかった。

以来、中学卒業までは剣道で汗を流した。

平常心是道

『苦しい心から逃れて平常心になるにはどうしたらいいですか?』ときかれれます。
実は、苦しい心から逃れて平常心になれるのではありません。
この相談者のように、一般的に平常心と言えば何事にも心が動じない、揺れ動かないことのように思われている傾向があります。
しかし、人生には喜怒哀楽があって、一喜一憂し、悩んだり苦しんだり、泣いたり笑ったりしながら心は揺れ動くのが常である。
精神統一という言葉もあるが、ひとつのことに意識を集中すること、そこに意識をまとめて他に心を向けない状態をいっているようですが、それでも実際は心が動いている。
心は止まることはありません。厳密にいえば眠っているときも心は動いているのです。自分のその自覚がないだけ、記憶がないだけです。
勿論、夢を見ているときも心が動いている。
私たちは、嬉しいときは喜び、悲しいときは涙するのは人として当然のことでしょう。
この揺れ動く自分のその心そのものが人間の心であり、さまざまな状況、状態に応じて変化し現れるのも人の心であり、人間としての自然の姿でもあろう。
ある程度緊張すべきときに無理に平常心を作ろうとか、落ち着こうと焦る心を起すことでかえって不自然な心が働き、余計に変調をきたす。
このままじゃいけない、何とか落ちつこう、泰然としていようとすればするほど緊張は高まり、不安になることも少なくない。こうなると緊張のスパイラルだ。
むしろ、上がり緊張している我が心も、今の自分の姿であり、ありのままの心なんだ、ということを素直に認め受け入れることである。
そして、日頃から必要以上に緊張をしないための心の訓練をしていなければ、いざというときではもう遅いのである。

さて、剣聖といわれた宮本武蔵の記した″五輪書”の中には、いわゆる兵法の極意がいろいろ述べられていますが、その一つに。

『兵法の道において、心の持ちようは、常の心にかわることなかれ』というのがあります。

これは、戦いの場においても常の心、すなわち平常心平静心を保つことが大切だということでしょうが、なかなかこれは難しいことであります。

というのは、戦いの場といえば、いってみれば命のやりとりが行なわれるわけです。

今から350年ほど前の宮本武蔵が存命の江戸時代初期、当時であれば刀や槍などの武器がふるわれ、殺気にあふれて必死に争いあっていたでありましょう。

時代が時代だけに、身の危険も付きまとうから極度に緊張し、また興奮することもあったはずである。

だが、そのように心が張りつめ高ぶってしまったならば、かえって冷静な判断を下すこともできず、とかく身体も柔軟性を失いがちとなり、思わぬ失敗をしてしまうことにもなりかねない。

その当時の闘いの場における失敗は死につながりかねず、それだけに、できるだけ冷静な心を保っていることがのぞましいわけです。

そこで宮本武蔵も、兵法の極意の一つとして、この平常心平静心というものをとりあげたのではないかと思うのである。

今日においては、もう実際に命をやりとりするような戦いの場は、ふつうの状態においてはほとんどみられません。

戦争などの特別な場合を除いては、なくなりつつあると思います。

しかし、そういう平常心、平静心というもの自体は、戦いの場に限らず、またいつの世も、どのような状況のなかでも大事ではなかろうか。

というのは、今日の私たちの生活、活動の上においても、冷静さを欠き、平静心を失ったがために、思わぬ失敗を招いたというような姿が、日常茶飯事のように頻繁におこっているように思われるからです。

たとえば身近な問題では、時間に追われて慌ててしまい信号も見ずに車道へとび出し、ちょうどそこへ来た車にはねられてケガをしたり、時には命までも失うというような例も実際には少なくありません。

また、車の運転でも、急ぐあまりにムリな追い越しをして事故をひきおこし、多数の死傷者を出してしまったということが頻繁におきています。

たとえ命のやり取りをする戦いの場はなくなったとしても、このような命のやり取りともいえる好ましからざる事が続出していることを思うにつけ、平常心、平静心というものが、今日においても必要不可欠であると痛感されます。

さらにまた、人との関わりなどにおいても相手の言動によって自分を動揺させてはならないし、また試験を受けたり、仕事の場で人に会ったり、スポーツ競技に参加した場合などにおいても、同じように平常心、平静心というものが大事になってくるのではないだろうか。

特に、人との関わりにおいては、お互いが素直な心になれば、おのずとそういう平常心、平静心が得られると思います。

自分が素直になっても相手が邪心を持っているときは、その場から離れることです。

すなわち、お互いが素直な心で物事を見、考えていったならば、物事を冷静に、平常心を保って見ることができ、考えることもできるようになれるということです。

ここでいう素直な心とは、よく見せようと思わない、良い評価を望まない、物事に執着しない、自分の正しさを押し通さない、相手を正そうとしない、などの心を育てることである。

例えば、慌てて時間までに行かなければとか、必要以上に良い結果にと拘る、起きもしない先のことを心配しすぎる癖、等々、ちょっと時間に余裕をもてばよいことなのに、自らして追いつめるような生き方を改めて、拘らず、執着せず、慌てなければおのずと冷静さをとりもどし、また平常心、平静心を保つこともできるのではないでしょうか。

素直な心になるということは特別なことではないということです。

そして、素直な心になれないときは、とりもなおさず、心が何かに囚われていることを示しているのです。

自分の心が苦しいときは、その問題から一時、離れなさい。

素直な心とは、何かに囚われない、執着しない心をいうのです。

したがって、素直な心というものは、どのような物事に対しても、平静に、冷静に、且つ、謙虚に対処してゆくことのできる心といえましょう。

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