仏教がなぜ葬式仏教になったか
勘違いした供養の実態
「旅行先のホテルの部屋に入った時から頭が重く背中が苦しくて、ついに宿泊した夜は寝つけず、それからいままで体調が悪くて死ぬのかなと思っていました。」という相談者。
軽度のうつ症状と自律神経失調症による体調不良一年間辛かったと話していた。
「大丈夫ですよ。楽になりますから安心していいですよ。」
相談者は私の言葉に気が緩んだようで泣き出した。余程つらかったのだろう。
何はさておき、相談者に関わる霊体を浄化し離すことを優先して対処することおよそ五分で終えた。(通常はいきなりこのようなことはしない)
相談者の心が落ち着いたところで話しを切り出した。
『あなたのご両親は健在ですか?』
「いいえ、10年前に亡くなりました。」
『ご両親の供養はどのようになさっていますか?』
「えっ?はい。毎朝、仏壇に、ご飯と飲み物を供えて、きょうも宜しくお願いします。健康でいられますように見守ってください。と言って拝んでいます。」
『それがあなたの供養の仕方ですね。でもそれは供養ではなく、願い事ですよ。』
「えっ?どういうことでしょうか。」
『仮に、あなたが人生80年の寿命を終えてあの世に帰ったとしましょう。あの世に居るあなたが気になることがあるとすればそれは何ですか?』
「はい。子どもたちの暮らしです。」
『子どもたちや、もし、孫たちがいるとすれば、何が気になりますか?』
「健康で幸せにくらしていればと思います。」
『それなら、あなたのご両親がいちばん気になることは、あなたが健康で心穏やかに暮らすことだとは考えられませんか』
「そうですね。そうだと思います。」
『亡くなって10年にもなるのに仏壇に供え物をし、食事を与え、飲み物をあげることが本当の供養ではないのですよ。』
『亡くなった人たちは、どれだけこの世に未練があっても死後21日を限りに然るべき心の修養所にいかなくてはならないのです。』
『この世的な食事の供えは49日までが限度なのです。それ以上給仕をすることは、死者の霊をこの地上に引きとめる原因となるのです。そのような事は、死者のためにも区切りをつけなくてはなりません。』
相談者はご両親への親孝行ができていなかったのではないか、もっと何かしてあげられたのではないかと自分を責め、悔いていた。
その様子がわかっていたからこのような内容で話を展開したのである。
しかし、死者への心の向け方、供養の仕方、自分を責めることは決してご両親が喜ばないこと、これらが間違っていることを説明して理解をしていただくことで顔の表情がとても明るくなって笑顔がみえた。
二回目においでになったときは不眠がなく、毎日が熟睡で体が快適ですと喜んでおられた。
仏教の堕落--なぜ葬式仏教になったか
最初に檀家の意味を説明しておきたい。※お寺に永続的に葬祭(葬儀や供養)を依頼し、布施(お金)を行ってその寺院を護持する家の事を檀家という。
徳川幕府の政策によって本山と末寺の関係が決められ、寺請制度、檀家制度や寺領により、寺の経営が安定してくると、寺は完全に葬式寺となっていった。
そしてこの世の人々の悩みをどう解決するかという、僧侶本来の身近な民衆に対する救済や教化の情熱がうすれ、解決策さえ持てなくなったのである。
幕府が貨幣をつくり商業が興隆してくると、僧の中には金貸しをしたり、女をこしらえたり、貸家をつくってその差配を女に委せたりするようなものも出てきて、素行が目に余るようになってきた。
寺の経済が豊かであるからそのようなことになるとして幕府は寺の領地を没収した。
しかし、人間というもの、いったん上げた生活程度を、収入が少なくなったからといって急に切り下げることは難しい。
その結果、収入をふやす手段として考え出されたのが「死後の年忌供養」ですが、これが現在の葬式仏教へと変わってきたのである。
人が死ぬと、四十九日は家の棟を離れないという言い伝えは、釈尊以前のインドの宗教であるバラモン教にもあった。
しかし釈尊が説かれたのはこうである。
死んで家の棟を離れない期間は二十一日間というのがあの世の仕組である。
死んだ人がどんなにこの地上に執着を持っていても、二十一日を過ぎるとあの世の修養所へ行かなければならない。
残りの二十八日間に死者はそれぞれの魂の状態、それは生きていた間の心と行いによってつくられるものであるが、それによって天上界(段階あり)へ行くか、地獄界へ行くかが決まるのである。
だから四十九日間は、この地上に残っている人達は、自分たちの都合で心を向けたり、あの世へ行った人の魂をゆさぶるような間違えた行動をとってはならない。
もしそのような行動をとると、その地上の人々の想念によって死んだ人間の霊がゆさぶられ、一度はあの世の定住地へ行ってもすぐ地上の執着を持っていた場に引き戻され、いわゆる自(地)縛霊となって、生きている人々の間に、いろいろな現象をひき起すのである。
たとえば、死者が出てまだ幾日もならないのに、死者が生前大事にしていた金銭や財宝を処分したり、形見分けしたり、財産争いをしたりすると、死者が金銭や物質に執着が深かったその度合いによって、地上と関わり、結果的に事故や災難を引き起したりする。
葬式に行った帰りに交通事故を起すのはその一例である。
だから四十九日間は静かにしている方がよいということだ。
そういうわけで、四十九日まで供養するのは正しいのであるが、それ以上の供養は必要はないのです。
百か日、一周忌、三周忌は中国の教えにある儒教の伝統によって中国でつくられたものであり、寺の領地を幕府に召し上げられて収入が少なくなった分を取り戻す手段として、百力日、一周忌、三周忌、七年忌、十三年忌、三十三年忌、五十年忌等の年忌供養を決めたのである。
これらの伝統文化をやめなさいというつもりはないが、霊的に見た場合は、殆ど用を成していないのが実態であることを伝えておきたい。
形ばかりの葬式仏教は故人を供養する意味も内容も伴わないばかりか、民衆の心のあり方や、悩み、苦しみ、そういった人生の指南役、相談役としての僧籍にあった者たちが、自分たちの営利のための手段となってしまったのである。
その実態を葬儀会社に勤める責任ある立場の人間が全てを私に話してくれ、僧侶がらみで暴利を貪る会社経営にも失望していた。
彼は貧しい人々のためのシンプルな葬儀をしてやりたいと熱い思いを語ってくれたのである。
本来は、死者の葬儀は僧侶に関係なく、一切を民間の葬儀会社にお任せして、僧侶たちは道を説くだけに生きることで人々も信頼をおき、心の在り方を学ぼうという気持ちにもなれるであろうと思えてならない。
江戸幕府の当時は、お寺詣りしなければならない、父母の供養をしろというのが幕府の命令であり、数珠を持っていないと「キリシタン」として処刑されるとあれば、誰だって生命が惜しいから、お寺詣りや年忌供養が盛んになり、必ず数珠を持つということになる。
それが代々そうするものだということになり、現在でも先祖代々からこうしてきたのだから、今さら自分の代になってそれをしないわけにはいかない、という消極的な考え方によって、習慣的に先祖供養等がなされているにすぎないというのが現状であろう。
檀家を持っている寺を檀那寺というが、檀那寺の僧達は、ただ坐っていれば寺の経済は檀家が見てくれるし、幕府の命令で葬式は檀那寺以外に頼んではならぬというのであるから、いやでも葬式を頼みに来るし、別に心病む人々を教化する必要もなかった。
仏教の堕落はすでに江戸時代に始まっているのである。
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