魔がさす
心の不思議
人の心というものは不思議なもので、心が執着にゆれ動き、拘りをもち、不調和になってくると、ただちに地獄に通じ、反対に、人々のために奉仕の心が芽生えて慈悲、愛の心に満たされてくると、光明の天国に通じるという、いわば自由な心を持っているものです。
本当の自由な心というものは、とらわれのない明るい心のことであり、そうなると、地獄の世界も、天国の心も、不幸も実態も、幸せの真の姿もはっきりと正しく理解することができる。
そうなるためには我執のない、常に第三者の立場に立ち、ウソの言えない真実の心で毎日の生活を送ることである。
魔がさす
昔はよく呪われた家庭といったものが人の口にのぼった。
人々の関心が人の心や信仰に向けられていたので、そうした家庭が今よりも目についたからであろう。
では現代はどうかというと、現代は信仰の形態が中身よりも形に変わってきており、信仰は単なる儀式的になってきているので、昔より比較的そうした話題や問題のとらえかたが少なくなっていようし、また、病気や災難がふりかかると、信仰とか心の問題よりも、医者に駈け込めば事が済むと思われているので、精神的話題が、自然遠のくようになっている。
しかし、実態はどうかというと、昔も今も呪われた家庭は存在しており、そうした家庭は社会の片隅で、ふりかかる災難や苦しみに、じっと耐えているといえるだろう。
人間の迷いである生老病死のなかの″病″の問題について、それが何に起因し、どうすればその病を治すことができるかということを、私なりに経験を通じて述べてきましたし、現在も来院してくる方々にアドバイスしております。
さて、霊の世界については大部分の人が疑心暗鬼であり、若い人や、特にインテリ層といわれる知識階級とも表現されるこの社会的な階層である、主に学問を修めた方はまず否定する方が多いと思います。
なぜなら、体験者の数が少ない(実際には自分が気づかないだけで多いのだが……)、頭で理解できるものではないだけに当然のことでしょう。
私たちの生活は、五官という感覚の世界で生活するように仕組まれており、そこにまた人生の修行の姿があるわけなので、否定しがちになるか、否定するのが常識となっているからです。
けれども霊の世界は、私たち人間の心と表裏をなして存在し、否定しようにも否定できないというのが現実です。
たとえば災難や不幸に見舞われると、人はよく「魔がさす」とか、「不運」とかいって簡単に片付けます。
しかし、魔とか、不運はそう簡単に現われるものではありませんが、それは、そのまま霊の世界をいい当てているものでもあります。
自分の心の魔の部分に邪悪な霊が共鳴して加担する。
つまり、魔がさすとは、その言葉通り不運や災難の場合、実際に魔が働き、その人を不幸に陥れるのです。
魔は実際に存在するのだし、それは各人の心といつでも通じ合う仕組みになっているのです。
想念はモノをつくり出す。
想念という創造行為は、人間から切り離すことはできません。
したがって悪の思いを持てば悪が生み出され、
愛を人に施せば、愛が返ってきます。
さらに、悪をいだいてあの世に帰った者は、悪の世界で苦しみ、悪の想念でこの世で生活する者に集まってくるというのが心の世界の法則であり、その作用なのです。
魔はこうしたときに働き、人を不幸にしてゆきます。
不幸や不運が、心の重荷をはずすことによって幸運と変わり、真に生き返った人々が私の周囲にはいます。
こうした事実をみてくると、心の歪がさまざまな波紋を描き、いかに多くの苦悩のドラマをつくってゆくか、恐るべきことなのです。
心の歪が、いかにその人の人生を狂わせてゆくか、また個人の不幸が、社会の混乱に、意外な波紋を与えているということを理解していただき、、正しい生活こそ真の人生であることを悟られ、それに向かって努力されることを切に望む次第です。
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