固体・液体・気体・水の三態にみる法則

水

正しい法則とは、どういうことをいうのだろか。

一口に正しい法則といっても、これをどう理解してよいかわからないという人もいるようですから、今朝は簡単に、わかりやすく要約して説明してみましょう。

とは正しい秩序をいいます。法という文字は(さんずい)に去る、と書きます。

(さんずい)は水ですから、法という字は水が去るとなります。

水は低きに流れ、高きに流れることはありません。

低きに流れることによって、自然の理にかない、自然の秩序にしたがっています。

水が去るとは、水自体が自然の条理にかなって生きていますので、水の姿は自然の秩序をあらわしている、ということになります。

漢字は自然のさまざまな形を型どってつくられただけに、事物の事象を実によくあらわしているといえるでしょう。

水は低きに流れることによって、常に清らかさを保っています。

山水の流れは冷く、清らかです。

自然の条理にしたがい、低きに流れるから清く、澄んでいます。

もし、この水が流れを止め、一ヵ所にとどまるとすれば、水質はにごり、飲み水の用にさえたたなくなってきます。

人の心もこれと同じ条理にしたがい働いています。

物に執着し、心にとらわれが多くなりますと、その心はけがれ、ものの用に役立たなくなってきます。

水が一か所に滞って濁るようにです。

その濁りとは、ねたみ、愚痴、怒り、足ることを知らぬ欲望に心がとらわれることで、自分自身の心が不安定になり、人との調和もうまくいかなくなってきます。

とは、この意味で、心にさまざまな執着を持たぬこと、とらわれをつくらぬことです。

ここで注意したいことは、とらわれということを曲解し、人によっては、文字の観念に酔い、好き勝手なことをしても、とらわれなければよい、というふうに考える人もいるが、これは大変な誤解です。

とらわれとは物に執着しないことですが、同時にそれは自然の法にしたがうということを意味しています。

法とは、文字通り秩序をいいます。

水の流れをいいます。

水が正しく流れるから、水としての価値を生み、万物が生かされているのです。

また法というものは、循環しています。

水は固体、液体、気体となって天地の間を循環し、地上を潤しています。

こうした正しい循環が万物を生かし、そしてまた水の生命を永遠に保ちつづけているのです。

心にも法、つまり秩序が、条理が必要だということ。

正しい法則とは、水の流れのようにとらわれがなく、万物を生かしながら、正しい循環をくりかえし、水自体の生命をも永遠に生かしているものをいうわけです。

また水自体の生命が永遠であるということは、水の質量に変化のないことを意味します。

つまり、不増不減という言葉が表すように、増えもしなければ減りもしないということです。

それは、まさに物に片寄らない中道に水が生きているからといえるでしょう。

こういう自然の条理、秩序というものを私たちの現実の生活に当てはめますと、物に執着し、心が片寄ると苦しみとなって現われることが解ると思います。

心が片寄ると、自分も苦しく、周囲もまた暗い雰囲気に包まれてきます。

これでは自分も生きないし、周囲も明るく生きられません。

自分を生かし、他を生かすには、正しい法則にそった中道の生き方、つまり物にとらわれない水の流れのように生きてこそ、自分を生かし、他をも生かすことになります。

他を生かすとはほかならぬ愛のあらわれです。

ですから、正しい法則に生きるとは、愛に生きることと同義語になるわけです。

物にとらわれず、清冽な水のように他を生かす愛の行為こそ、正しい法則の要(かなめ)であり、正しい法則の神髄といえるでしょう。

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