信仰の落とし穴

真如苑
「信ずる者は救われる」
この言葉は真理といえる。
だが、この言葉を鵜呑みにすると危険であることも忘れてはならない。
それなのにまず大抵は、これを鵜呑みにし、ただ信ずればよいと考えてしまう。
町の宣教師は、観念的な意味にしかこれを解釈していないだろうし、聖書の字句を忠実に守ることが信仰だと考えているようなところがある。
真に信ずるとは、単に心の糧といったような甘いものではない。
自分の生命を投げ出さないと本当の信にはつながらないのだが、この事を話したとき、真の意味を深く理解できる人は少ない。
自分の都合や、その時の雰囲気で、その時だけの信で救われると思ったら大間違いである。
また、信ずる中身が、狂信や盲信になるとこれまた危険このうえもない。
信仰はえてして、狂信、盲信に到りがちであり、自分を失ってしまう。
自分を見失わず、しかも正しく信ずる者は救われるだろう。
しかし、それにはまず私たちは、正しい法則を柱として、その心と行ないを正していかなければならない。
そうして、こうした中から、やがて信ずる者は至福をつかむことができよう。
他力信仰は、病気治しや、生活苦を救済しようという御利益信仰がほとんどであり、このため教祖やその取りまきの、よい食い物にされる場合が多く発生するようだ。
信仰は、心に足枷をはめられ、やがて、自分や家庭をメチャメチャにしてしまう。
恐ろしいことである。
女性の相談者、Sさん48歳、家庭がうまくいかず、離婚をして十年ほどして再婚したが再び離婚をしてしまった。
最初の離婚後に○○苑に入信して、事あるごとに教団の霊能者?と称する者に伺いをたてて、何をするにも自分の考えというものがなくなっていた。
一般常識として考えれば簡単に答えが出せるようなことでも霊能者に伺いを立ててしまうといった具合で、万事が霊能者?のアドバイス優先となっていたのである。
その教団では幹部になると姓名判断のたぐいの指導を受け、人を占うことをするようになれるということだが、それを以って霊能者と呼ばせているところに、この仏教系教団、〇〇苑の問題がある。
伺いをたてると何故かその場で答えず翌日以降に回答をだすという不思議、時間があればまことしやかなストーリーを考えるのにも好都合であろう。
案の定、「あなたの今の不幸は、何代前の先祖が不徳なことをしたための因果で子孫に及んだものだから、先祖供養をしなさい」という決まり文句だった。
この手の話しは決まって、誰も知らない数代前の先祖を引き合いに出すのが特徴であるが、相談者が知っているお爺さん、お婆さんが登場することはないものだ。
このようなことを言われて盲信、狂信してしまう側にも問題があることは否めない。
私は請われてこの女性のご実家を尋ねたが、家のなかには未成仏の霊体が数体もいる。
相談者の盲信、狂信する不調和な心と行いと読経が呼び込んだのである。
毎日の忙しい時間のなかで、教祖の写真とお釈迦の涅槃像を教団から買って祭り、読経している姿は気の毒にさえ思えるのだった。
「このように毎日、教祖の写真とお釈迦様の涅槃像に向かって読経するということはどういうことなのか、理解しているのですか?」
「お経の内容はとても徳の高い内容ですから、これを毎日読経することが徳を積むことで、それが先祖の供養になるということでしたから・・・・・」
「あなたは徳の高いという経文を読経してお釈迦さまに聞かせるのですね。つまり、釈迦に説法ということになりませんか?」
「そうでしょうか・・・・・」
「悟られて仏となられた覚者に向かって読経するのですからそうなりますよね。そもそも涅槃像を飾る理由は何なのですか?お釈迦さまが聴いたら苦笑いしますよ。
私が説いた法を私にきかせるのかって」
「それでは、私が毎日ここで読経することは無意味だということでしょうか?」
「無意味です。読経に時間を費やすくらいなら、お経の中身を理解して、それを心の底まで落として、その意図するところを普段の生活に活かすことが大事なことです。
それができればあなたの家庭は問題が解決して明るい家庭になるのです。ご主人を批判することより、あなた自身がこのような盲信、狂信をやめること。そこから本当の家庭生活が始まるのです。」
この後、2時間近くにわたり信仰のあり方を話し、間違ったこれまでの信仰を改める気持ちを確認して引き揚げてきた。この話は、まさに盲信、狂信の見本ともいえる事例です。
金を残す人は並み。仕事を残す人は。人を残す人は特上。寿司ではないがこのような諺がある。

人間を育てて残すことは簡単なことではないだけに、育てるものも大いに心の修養になるし、世に貢献することになります。陰徳を積むということはこのようなこともいうのです。

陰徳を積むには、読経にあるのではなく、先ずは自分の心を育てることから始めなければならず、その為には自分を知ることが先決なのに、安易に依存心をもってはならないということです。

結局この女性は、入信して10年になるのだが何一つ家庭の環境が改善されることもなく、むしろ問題が増えてきて混迷の渦の中に引き込まれてしまっていたのである。
何かに依存しなければ生きていけないほど傾倒してしまっている心には、自立して生きる人間本来の持つべき人生観が完全に欠落していたのだった。
事の善悪、偏りのない考え方、思いを言葉にする時の配慮の足りなさ、一貫性のない行動、姉妹それぞれが大きな問題を抱えていながら、自分たちの言動を省みることができず、教団の霊能者(姓名判断)にすがるこの姉妹が気の毒でならなかった。
他力は「信」に力点が置かれているが「信ずる者は救われる」の信は、決してあなたまかせのそれではなく、自分の中にある正しい心、ウソの言えないその心、無限の可能性を秘めた自分の心を信じ、生きることであり、何々の神を信じ、それにぶらさがり、欲望のままに生活して救われるなど、どうみても虫がよすぎる、と思わなければならない。
うまい話というものには、必ず大きな落とし穴があり、これは何も世俗の問題ばかりでなく、神信心、仏信心についても同様である。
おのれを調え為すところ
つねに慎みあり
かく
己を知るは
すべて諸々の
嘘戯れに
勝てるにまさる
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