一滴の愛・地球こそが神殿
一滴の愛から
一滴の愛、それは小さなものであっても波紋となって人々の心に広がっていく。
だが、どんな小さな言葉や暴力も心の傷となって深く潜在してしまう場合があります。
人間不信に陥ることによって職場での同僚や上司との人間関係に円滑さを欠くことになり、自らコミュニケーションをとることに前向きになれない。
結果、周囲から孤立して、やがて精神的疾患にまで発展して精神科に通院している若い女性の悩み相談。
この女性YMさんは、子供の頃に自分に対してほんの些細なことで怒り狂う父親が、暴力をふるうことによって子どもの心に傷を残し、成人したあとも人間不信に陥っていたことが明らかになった。
いわゆる社会でいうところのDVの傷跡である。
この女性の生まれ育った環境は、正しい愛ある子育てという言葉とは程遠い家庭環境だ。
「幹がしっかりしていれば枝葉はどんなに揺れてもいい」
最近わたしは、とある方からこの言葉を聞いたのだが、とても耳に心地よく馴染む言葉だと感じながら聞いていた。
以前、毎月一度行っている私が主催する『心と体の健康教室』において、この言葉の意味することと似たようなことを、大地に根差す木のイラストを白板に書いて講話をしたことがあります。
私の住むところが岩手山麓で、まわりがたくさんの樹木が林立する環境であることから、春夏秋冬を通じて木の姿をウオーキングしながら観察することが楽しみとなっている。
一昨日(8日)の天候のように東京にも45年ぶりに大雪が降るような暴風は山麓生活では珍しいことではない。
木々を見ていると、風雪に耐え春を待つ姿は、「人生も各あるべし」と感動すら覚える。
先の言葉のように大地にしっかりとおろされた根は、大地から水分と養分を吸い上げ幹から大きな枝にまわり、小さな枝葉にいきわたる。
目先を飾ることに奔走した生き方は、花や実の付いた姿だけを見る人間の身勝手な視点かもしれない。
風雪に耐え、どれほど試練があっても幹がしっかりしていれば枝葉が折れても木は勇敢に生き抜く。
しかし、その幹を支えているのが大地にたくましく張り付いた根っこである。
くるみの木は毎年たくさんの実をつけることはない。
一昨年は豊作だったが去年はまったくといっていいほど実が少なかった。
どんぐりも、クリも自然の木の実は隔年で実を付けるようで、クマやリスなど食糧不足で里まで下がってくる。
誰が見ずとも木々は置かれた場所で根をしっかり大地におろして大木となり強風や雨や雪に揺れても叩かれてもジッと耐えて生きている姿には教わることがあります。
愛の徳性
家庭においては家長であるお父さんが家族を抱擁し、お母さんが太陽となって笑顔と穏やかな愛を注ぐ、これが子育ての原点ではなかろうか。
愛は、親子の愛にはじまり、兄弟愛、友情、恋愛、夫婦愛、隣人愛、人類愛へと昇華されていくものであろう。
しかし、この愛というものは心の働きのことであり、形としてみることはできないが、それでも行動することで形にすることも可能だ。
愛は、その大きさを測ることができません。
愛は、重さを測ることもできません。
どれほど科学が進歩したと言ってもその実態を分析することはできないだろう。
だが、愛は厳然として存在します。
見えないから存在しないという次元の話ではない。
愛は人類を生かしめる最大のエネルギーであり、宇宙を統(す)べる最大の力です。
そして山川草木一切のものに宿る生命と大自然の法則を機能させる源であります。
こうしてみると愛があるからこそ全大宇宙が存在するといえるでしょう。
宇宙がその摂理を貫き、全ての存在がそれぞれの命を成していくことの背後にはこの愛のエネルギーが存在します。
全ての生命活動の原点であり、霊の世界である四次元と物質の世界である3次元との間に横たわる障害を克服していくのも愛の力です。
見えないものを感じる私たちの感性、それは魂の根底にある心から観る反応であろう。
花を愛(め)でる心、芸術作品にみる作者の思い、これらはみな見えない心で観ているのである。
霊の世界も頂点が愛であり、それはそのまま大宇宙を統べる意識によるものであることは言うまでもないことである。
私たち人類と宇宙を統べる意識とを隔てる障壁は何も存在しないのですが、しかし、現実にはその障壁があるのは何故だろうか。
その障壁はただひとつ、私たち自身の足ることを忘れた限りない欲望という障壁でしかない。
即ち、不満、愚痴、怒り、嫉み、憎しみ、そしりなどの不調和な思いゆえである。
愛は不変の原点であり、不変の法則であります。
この愛は私たちの死さえも乗り越える力であると宣言することができます。
地上では私たちが自分一人の努力で生きているかの錯覚をもっていますが、決してそうではなく、誰の背後にもサポートしてくれる魂の友人、兄弟がいて日夜に渡って協力をしてくれているのである。
そのことを知っておかなければならず、感謝の念も忘れてはならない。
燦々と輝く太陽が沈めば夜が訪れるように、これから雪解けの季節になり、春のあとには夏が訪れるように、そして草花の種子を蒔(ま)けばやがて綺麗な花が咲くように、私たちの魂は少しずつ進化向上し、大いなる悟りに向けてステージアップしていきます。
しかし、そのことのためには日常の煩雑な渦中にあっても、時には少しの時間を割いて己の精神を静寂の中におき、己れの存在の源である神性仏性発現の機会(チャンス)を与えて下さい。
日頃の些細なことに意識を向けすぎるがゆえに心に不安や恐れを宿してはいけません。
やがてはそのような心の働き癖を完全に払拭しなければなりません。
己の肉体感覚に囚われるほど自分を見失うことになります。
あなたがこの地上に生まれて以来、今日まで長きにわたってあなたを導いてきた背後の霊である魂の友人、兄弟たちが、今になって見捨てるはずがないではありませんか。
あなたが意識を向けていなかっただけです。
守護霊や指導霊は24時間あなたに意識を向けているのです。
これからもずっと支えとなるべく協力を惜しまないでしょう。
なぜなら、あなたに絶対に到達してもらわねばならない役目、仕事があるからです。
守護霊や指導霊はあなたが誕生して以来、これまでも、これからも役目を放棄することは絶対になく、決してあなたを裏切ることはありません。
守護霊や指導霊の背後には大宇宙を統べる意識、すなわち神の愛という無限のエネルギーが控えているのである。
しかし、地上の人間の圧倒的大多数は神社に神が居ると思い、仏閣に仏が居ると思い込んでいて、大宇宙を統べる意識である真の神と同調しようとしないのです。
個人の家にあっては神棚に収めたお札に礼拝したり、あるいは神社仏閣に詣でることで神仏に意識を向けたつもりでいるのです。
人間が作った物を神殿とするのではなく、大宇宙の細胞である地球こそが神殿であると心得るべきでしょう。
その地球号という神殿において私たちは魂の進歩向上を願い、且つ、行いを旨として生きなければならい。
知識で神に近づくことはできない。
地上人類76億数千万人の人々はこの地球号に集い、過去世、現世、来世と三世の流転を繰り返します。
それは他でもない、己の魂を磨き、神が人類に託したこの地球号という神殿を、神意に沿ったユートピアにせんがためであります。
世界に国々はもちろんであるが、家庭においても兄弟姉妹においても争いをしているときではないのだ。
万物は過去世、現世、来世の三世を流転するものであり、それは全生命流転の過程であり永遠に不変な法則であることを知らなければならない。
これを科学では循環の法則と表現されます。
過去世とは、私たちがかつてこの地上で人生修行した前世のことであり、過ぎ去ったあの世とこの世のできごとである。
現世とは、すべての生命と物質が同時存在する現象の世界、すなわち私たちが生きているこの世界のことです。
熱エネルギー、光エネルギー、そしてこの環境の一切はすべてエネルギーそのものであり、私たち人類生命の意識の修業の場といえるだろう。
来世とは、この世とは次元の異なった世界の事であり、この地上生命を終って肉体から離れた人々の住み暮らす世界である。
しかし、この世でもあの世でも私たちの意識、すなわち魂のステージにはそれぞれに段階があり、この段階は大宇宙を統べる唯一の存在である神の意識と私たちの心の調和度、波長の同調によってことなるものであり、霊域の違いとなって表れるのである。
このような事を知ってくると、生命の始まりであるその神の恩寵(おんちょう・神から受ける恵み、慈しみ、愛)を存分に受け入れるべく、心と魂全体を広く大きく開く方法を学ばねなりません。
見えなくても心は器です。
心を大きくすることは器を大きくすることになります。
それには偏りのない信念と信頼心と偏りのない正しいことを、偏りなく正しく学ぶ心と穏やかさと落着き、即ち静寂な心を知り、身につけなければなりません。
そうしたものによってあなたの心からにじみ出る豊かな霊囲気の中にある時、大宇宙の無限のエネルギーから無限の豊かさを受けることができます。
それが心の法則であり神の摂理なのです。
これをもって仕組みというのである。
心から受け入れ、呼吸を通じて循環する能力に応じて、光りエネルギーが入ってくるということです。
精神的、肉体的受容力が増せば、それだけ光りエネルギーも増大してきます。
人間不信に陥っている者、心に悲哀(ひあい)の念をもっている者、自らを足ることを忘れた欲望の淵に追い込んでいる者、日常の些細なことに拘り過ぎて光りを見失っている者、こういった人たちも、偏りのない正しい心の法を学ぶことによってやがては魂を取りまいていた暗雲が晴れ、春の如くの陽光が穏やかに差し込むことでしょう。
この地上に私たち人類が存在し続けるのも唯一なる神の愛があればこそです。
全ての宇宙と全ての存在を支配しているのも唯一なる神の愛です。
私たちはその愛の波長に触れたとき、自分の愛する者だけでなく、全くの肉体的他人にさへも手を差しのべんとする同胞愛に燃えます。
愛はどのような境遇の人たちに対しても自然に手を差しのべさせるものです。
全ての生命の極致であり、全ての生命の基本であり、全ての生命の根源であるところの愛は、よりいっそうの顕現を求めて人間の一人ひとりを通して地上に流れ込んでいるのであるが、私たちが気づいていないだけである。
世界に人種差別はあっても、国境はあっても魂にはそれがありません。
あるのは人間がつくりだした差別という障壁だけである。
そのような人間の不調和なエゴ、カルマ、業が、唯一の光りエネルギーである神との間に障壁をつくりだしているだけである。
好感を覚える人を愛するのはやさしいことです。
しかし、そこには心の深奥に潜んでいるはずの徳性も神聖さの顔がみえません。
好感のもてない人を愛する・・・これが魂の霊格の高さを示す真実である。
愛は行いであり、その行為はそのまま光であり、慈しみである。
愛則行
行即愛
光り則愛といえよう。
あなたに対し憎しみを抱いている人を赦すこと、
あなたの気に食わぬ人のために手を差しのべること、これは容易なことではなく非常に難しいことです。
しかし、私たちは常に愛の原点を心に抱いていなくてはならい。
人のできにくことをする、これが奉仕の奉仕たる所以(ゆえん)ではないだろうか。
気の毒にと思える人に優しくする、これは特別に難しいことではありません。
気心の合った人に同調し、同情する、これも難しいことではありません。
だが敵視する相手を赦し、心を尽くす、これは難しいものだ。
人間の最高の徳は愛他的思いや行為のなかにあります。
愛すべきだから愛する、愛こそ神の摂理を成就すると知るが故に愛する、これです。
私の施術院においてもそうですが、愛らしい顔をした子供たちに施術してあげる、これはやさしいことです。
しかし、奇形の顔をした気の毒な人、脊椎側弯症によって背中が隆起して盛り上がってしまい、ぞっとするような容貌の人を治療するのは並大抵の心がけではできないだろう。
年老いた人がベッドに横たわったときに臭う下半身からの排泄後の臭気、しかし、そういった老人であるからこそ心をつくす、それが奉仕です。
真の愛は大小優劣の想いをもつのではなく、綺麗とか不浄とかの別なく、愛するということ以外に表現の方法がないから愛するまでなのである。
自己の為に何も求めず、要求せず、ただ施すこと。
このような愛念を理解できない人は勝手なことを言って中傷、誹謗してくれますが、私自身はどう評価されたいとも思っていない。
例えば、このブログに掲載するにはあまりにもリアル過ぎる攻撃で、送信されてきた文章(あなたには何の霊的な能力もなく、末路は哀れなものとなるであろう・・・・・・・)から受ける波動が酷い邪気に満ちているために掲載をためらっている事案もあります。
私自身はこのように脅迫してくる人に対し敵対する気持は全くなく、また霊的な能力には殆んど関心が無く、脅迫してきた人のように自らを高い霊能力者などと言ったこともなければ言うつもりもない。
ただ、私は手の届くかぎり、ご縁があり求められれば人々に手を差しのべたいと思うだけである。
このブログを訪問してくださっているあなたも、日々の生活において愛の原点を心に抱きながらも、霊の世界においては最高レベルの階層と感応するよう偏りのない生き方、努力を切望するところです。
霊的な能力を欲しがる心には必ずといってよいほど魔が入りやすい。
私たちは決して孤軍奮闘しているのではないこと、まわりには私たちを愛する人々、手を引き、励ましている霊が大勢取り囲んでいることを知っていただきたい。
そして更に、私たち自身の霊的成長が進めば進むほど、宇宙の意識である神へ向けて一歩一歩近づきつつあり、より一層、その摂理と調和していきつつあることを理解していただければと思うのです。
神というものに対して単なる信仰、間違った解釈、間違った信仰で、ただそう信じているというだけでは、厳しい試練や環境におかれたときにあっけなく崩れて去ってしまいます。
だがしかし、神に対する正しい知識に根ざした信じる心はいかなる環境にあってもゆるぎない基盤を提供してくれるでしょう。
霊の力の証を授からなくても信じられる人は幸いです。
また霊的能力に傾倒することそのものが危険極まりないものであることは確かです。
安易に神頼みするこれまでの伝統的信仰の在り方は正しくありません。
私たちの努力によってのみ、その証を授かり、依存することより自助努力することの重要性を悟らなければなりません。
それ一つを手がかりとして他の多くの真理を信じることのできる人は、それ以上に幸いであります。
なぜならばその人は宇宙の摂理と秩序が、愛と叡智(えいち)そのものであるところの霊的エネルギーによって支配されていることを悟っているからです。
人生は生命そのものの活動であり、霊的であるが故に死後も永遠に続くことは立証可能な事実であることは上述のとおりであります。
したがって人間は地上において暮らしても霊的存在であり、肉体をまとってはいても物質的存在ではないこと、すなわち物質的身体を具えた霊体であって、霊を具えた身体ではないということを自覚することができます。
これは霊と肉体のどちらが先か、また主従関係を説いているのである。
物質界への誕生、それは測り知れない価値ある神の財産の一部を享(う)けることです。
私たちの霊体は大宇宙を統べる意識の一部であり、本質的には神性仏性を具え、根本的性質的には同種のものであり、ただ其々のステージという程度において異なるのみである。
我欲を棄て他人のために尽力するほど内部の神性仏性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成とげはじめることになります。
家族的情愛や恋愛が間違っていると言っているのでなく、家族愛を起点として外へ向けてのより広い愛のほうが崇高だということです。
排他的な内向的愛よりも、発展的の外向的愛、すなわち施す愛、奉仕する愛の方が上といえるでしょう。
どのような物にも上等のものとそうでないもの、明るい面と暗い面があるものです。
家族的な愛は出発点ではありますが、偏ってしまうと往々にして排他性を帯びます。
それは宗教の世界でも同じことがいえるでしょう。
自分の信仰する宗教を盲信、狂信するが故に排他的な信者と洗脳され、教団となって宗派間の争いをしているのである。
これは非常に不調和な結びつきです。
愛の最高の表現は己を思わず、報酬を求めず、一切のことを伴わずに、全てのものを愛することができることです。
このような思念と行為は、神の意識と同調する崇高な愛の実践者といえるのです。
なぜなら人間の心に蓄積しがちなエゴ、自我を滅却(めっきゃく)しているからです。
愛は人のために尽くし、人を支え、人を慰めんと欲します。
愛は慈悲(じひ)、同情、親切、優しさとなって表現されます。
愛はまた、滅私と犠牲の行為となって現われます。
私たちはこの世の人生を終ってあの世の霊世界いくのですが、時期がくるとなぜ再び地上へと輪廻転生するのであろうか。
多くの人たちは死を忌み嫌い不安に思い、恐怖心に陥っている者さえいるのである。
しかし、死の真の意味を知るならば、人間にとって死は有難いことであり、肉体的拘束からの自由であり、行動の自由を得ることになれるのになぜ再び地上に戻って来るのだろうか。
4次元の行動範囲の自由な世界の恩寵に存分に浸っておればよいはずです。
地上人間の苦悩の原因となる老いと病と数々の煩悩(ぼんのう)に別れを告げてあの世に還るのにです。
しかしそれでも地上とのあの世との間に横たわる計り知れない困難を克服してまで自ら志願して地上に転生してくるのは、地上人類への愛があるからであろう。
生命は愛のあるところに存在します。
人間は、愛あればこそ役に立ちたいと思うのです。
愛は死よりも強いこと、立ちはだかる障害も愛によってきっと克服されるという認識を得たならばそれを有難く思わなければなりません。
これらの愛はすべて絶対唯一なる意識からの分霊として誰の魂にも備わっているということだ。
その愛の深さ、豊かさはとても表現し尽くせるものではない。
このように言葉を並べてもその愛の本質を悟るには至らないであろう。
何故なら、愛は行いであるからだ。
実践によってのみ愛の本質を会得するしか術はない。
地上生命を全うするまで脈打って働くあなたの心臓の鼓動よりもなお身近にあるその愛の深さと寛大さはとうてい人間の言葉では表現出来るものではない。
大宇宙の意志である広大無辺な愛を知るにはそれを受け入れる器がなければならない。
それが摂理なのです。
理屈は分かってみれば簡単です。
調和と資格ある者が授かるというだけのことです。
霊力は無尽蔵(むじんぞう)です。
その受容能力を限定してしまうのは人間の限定的思考と唯物的価値観によるものです。
私たちが少しでもその受容能力を増すことができるならば、その分だけその能力を授かるでしょう。
地上を照らす太陽は生命の源であり永遠の輝きの象徴です。
同じようにあの世の霊的太陽は啓蒙(けいもう)と活力の源泉です。
4次元において私たちの魂に慈愛に満ちた光りエネルギーを与えます。
神性仏性の進歩向上は書物からは得られません。
先生が授けるものではありません。
厳密には自分自身の生活の中で実際の行為によって体得すより確かな手段はないのである。
種から目が出るように、私たちに必要な条件を生活のなかで実践していくならばやがて発芽して蕾(つぼみ)をもち、花も咲き、大木となるであろう。
私たちの魂の奥に内在する神性仏性こそ、その無限の愛の抱擁力によって私たちを支えている力であり、その尊い生命を燃やし、己の宿命を成就するよう導いてくれる力です。
自分とはいったい何なのか、いかなる存在なのか、いかなる可能性をもつかを徐々に悟らせる方向へと導いてくれます。
常に私たちの背後でも生涯にわたってインスピレーションというかたちで協力を惜しまない霊達がいることを忘れてはならない。
そのインスピレーションをあなた自身が精査して偏りのないものであれば信じて行動すべきである。
不安感や恐怖心は愛を信じる行動によって払拭されでしょう。
偏りのない正しい知識も不安感や恐怖心をなくすことに貢献します。
言い換えれば、恐怖心は無知から生まれるものだからです。
愛と信頼と偏りのない正しい知識のあるところに恐怖心は入り込めません。
自分自身にも他に対しても愛が未熟であれば不安感や恐怖心が己を支配してくるのである。
私たちの魂がステージアップすれば人生のいかなる試練、困難、逆境という局面に遭っても克服できぬものはないとの信念がもてるようになるものです。
これまで努力してきたあなたを愛が今になって見捨てることはありません。
あなたを取り巻く家族や友人知人、それにあなたの背後で無償の協力を惜しまない霊たち。
それは大宇宙の唯一なる存在から放たれ、貫かれる無限なる愛であり、無数のラインとターミナルを通して光輝を放ち地上に至り、人のために役立たんと志す人々の力となるだろう。
心が萎(な)えたときには勇気と力を与え、悲しみの淵にある時は慰めを与えてくれます。
この光りエネルギーはあなたを照らす決して消滅することのない無限供給される神の力であります。
愛が不滅であること、
死は愛し合う者の仲を裂くことはできないこと、
多くはこの地上生命では限界があるのですが、愛の真の意義を悟るのは4次元の世界へ還ってからでしょう。
なぜなら愛の本質は霊的なものであるが故に、肉体生命の渦中にあっては困難があるということだ。
愛は魂と魂、心と心とを結びつけ、人と人を結びつける絆である。
愛は神の摂理の顕現であり、それ故にありとあらゆる人間の煩悩――愚かさ、無知、依怙地(えこじ)、偏見等々を越えて働く光りエネルギーです。
二人の人間の愛の真の姿は魂と魂の結びつきでしょう。
男性と女性とが互いに足らざるもの補い合うように宿命として定めました。
男性と女性が完全に融合し合うことにこそ真の愛の働きがあり、互いに理解し合い、補足し合って一体となります。
愛は限りなく心の表現ですから、低い次元の愛から高い次元の愛まで、さまざまな形をとって表現されるでしょう。
男と女の身体的な結びから、精神的な結びつき、さらには根源的な霊的な関わり、絆へと昇華されていくのである。
霊的な結びつき、即ちその魂と魂との結びつきが地上で実現することは極めてまれなことであり、むしろ例外的なことに属するでしょう。
もし実現すれば両者はその宿命を自覚し、一体となって社会活動に奉仕するであろう。
これが魂と魂との真の絆の姿です。
しかし、これはわずか70~80年の人生において巡り会い自覚して行動することは、限りなく長い過去世の転生輪廻を考えるならば奇跡に近い出来事と言えるだろう。
数千万年と数十年の違いは太陽と一握りの手に取った土の違いほどと表現すればわかるだろうか。
しかし、霊的な世界では、地上のような物理的時間、空間は何ら意味を成さないのである。
愛は親子、兄弟姉妹、親せき縁者という血縁を超えるものです。
愛は死を乗り越えます。
愛は永遠不滅の光エネルギーです。
正しい愛を実践し、結び合った者は肉体が死別しても生涯離れることなく、それぞれにエゴ執着がない場合において死後も離れることはありません。
愛は全てのものに勝ります。
なぜなら、それは大宇宙の意識すなわち唯一なる神の意志だからである。
肉眼で見る愛ではなく、魂の中心にある心で観る愛は宇宙大に広大な光エネルギーである。
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。
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