親の価値観・子どもの価値観

蓮の花

親の価値観が子どもの価値観を作る。

私が会社員として働いていた時のことです。

車で数人のスタッフと移動しているときに、夏の猛暑のなかで道路工事をしている労働者をみた女性の部下が、『こんな仕事してどれほどの給料になるのよ。』と言い放った。

私は、すぐに車を止めて、この部下の女性に注意した。『佐藤さん。あなたのご主人が労働者としてこのように汗を流して働いているとしたら、ご主人に同じことをいいますか?あなたの驕りからでる傲慢な態度はあなた自身を傷つけることになるのですよ。』と。

能率給で働いていた彼女は確かに毎月30万円近い高給を手にしていた。30年前の話です。

五歳ぐらいの子どもを連れた母親が、水道工事をしている人たちのそばを通りながら語って聞かせています。『おじさんたちが、こうして働いてくださるおかげで、坊やはおいしいお水が飲めるのよ。ありがとうといって通りましょうね。』

同じところを、これまた幼い子を連れた別の母親が通りかかります。子どもに語って聞かせています。

子どもに向かっていいました。『坊やも勉強しないと、こういうお仕事をしないといけなくなるのよ。』

価値観はこのようにして、親から子どもに伝えられることがあるのです。

最初の母親は、人間は、お互い同士、支え合って生きていること、労働への感謝の念を子どもの心に植えつけたのに対し、二番目の母親は、職業に対する偏見と、人間を学歴などで差別する価値観を植えつけたのではないだろうか。

私の母が生まれた大正6年当時というと貧しさもあり、まともに学校に行く人は少なかった時代でしょう。

13年前に85歳で他界した私の母も、まともに小学校をでてはいない人でしたが、人間として大切にしなければならないことを、しっかり伝えてくれました。

特別に仏教を学んだわけでもなく、まして、聖書などは一度も手にすることなく人生を終えた母でしたが、思いおこすと、母の価値観の中には、お釈迦さまやキリストが大切になさったことが、たくさん含まれていたことに気付きます。

そして、90歳で亡くなった私の祖母は無学な人でしたが、神棚に向かうことと、仏壇に向かうことは毎日明かさないことを幼い頃からみて記憶しています。

気づいたら寡黙な母も、神棚に向かい、仏壇に向かっているのです。ただ感謝の念だけで。

今また、私自身も祖母や母と同じように、神棚や仏壇にこそ向かうことはないが、唯一なる存在への感謝と、存在する全ての生命に対する感謝の念だけで日々を暮らせることが、ありがたいと思えるようになった。

価値観は言葉以上に、それを実行している人の姿によって伝えられるものなのです。

間違った(偏った)価値観をもってすれば、それもまた、そのまま伝わっていくことになる。

私たちは、人からしてほしいと思うことを、花を差し上げるように他人にも行わなければなりません。

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