心の宝珠・苦しみと成長

命
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ただ、このブログを読んでくださる方が、心が楽になれるとしたらそれはとても嬉しい事ではありますが、しかし、私は人生の悩み苦しみを避けて通る方法を述べたいのではないことを一言申し上げておきたいのであります。
願わくば、試練や逆境に敢然(かんぜん)と立ち向かい、それを克服し、そしていっそう力強い生き方をしていただければと思って投稿しているというのが真の目的であります。
私たちの心の内に存在する潜在的な部分、即ちは、地上に存在するいかなる物にも優る宝珠であるということを申し上げておきます。
この宝珠の存在に一度気づき、深く、深く心に落したならば、お金を落とすような具合になくしてしまうことは絶対にありません。
それがどれほど素晴らしいことか、おそらくあなたの想像をはるかに超えたものです。
もし、この宝珠の真の姿、働きを知りたいのであれば、自分の目の前に起きた苦難をチャンスと受け止め、何かを学び取るように勤めることです。
この宝珠の働きはすべてを慈しむ想いが消えることなく己の内に在り、他を愛し、赦し、心無い人の非難に対しても慈愛の想念が消えうせることがありません。
私たちは苦しみから逃れようとし勝ちですが、私たちに耐え切れないほどの苦難というものはなく、必ず超えていけるのである。
体が全てと思えば超えられなくても、心は超えていけるということに気づかなくてはならない。
人生を生涯の旅とするならば、なんらかの荷を背負い、困難と取り組むということが魂の本来の姿といえるでしょう。
苦楽は人生のなかにおいて、ついて回るものであります。
生きることは楽なことではないでしょう。
しかし、誰もが少なからず苦悩や試練に向き合っています。
心の宝珠はそうやすやすと手に入るものではありません。
もしも楽に手に入るものであれば、なにも苦労する必要などないでしょう。
また楽に手に入れば人間の心には驕(おご)りが生れがちなものです。
痛みと苦しみの最中(さなか)にある時は逆境を恨んだり、不平を言ったりと、なかなか得心がいかないものですが、必死に努力し、苦しんでいる時こそ、心(魂)にとってはいちばんの成長できる妙薬なのである。
私たちの守護霊という存在は、いくら私たちのことを思ってはいても、重荷を背負い悩み苦しむ姿をあえて手を拱(こまね)いて傍観(ぼうかん)するほかない場合があるようです。
可愛い子には旅をさせろではないが、そこから教訓を学び取り、霊的(心)に成長してもらいたいと願い祈るという、とても深い愛からなのです。
決して神も仏もないなどと天を呪ってはいけないのである。
人生において私たちが得た事、知り得たことには必ず責任が伴います。
この世的な物や資格だけではなく、特に霊的な事を知り得た者は責任を持たなくてはなりません。
例えば霊的な能力には霊視を得意とする人、癒しを得意とする人、人間の心の在り方、生き方、執着せずに生きる方法を説くことを得意とする人と様々なものがあり、その力、技量にも高低があります。
本来は厳密にいうと、どのような能力であろうが、それを使用することで金銭的な利益を得ることは霊的(心)に高いステージにある人間とはいえなでしょう。
仮に、それを以って生活の糧とするにしても、良心的な料金は由としても、法外な代金であってはならないことはいうまでもないことである。
そういった能力は決して一個人の能力ではなく、天のエネルギーであり、霊的な背景の協力において発揮されるものだからです。
私たちの心(魂)というものはいったん視野が開かれたならば、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、喜びにも我を失うことがなく、決して己の心の調和を乱すようなことが無くてはなりません。
毎日が燦々と太陽の輝く穏やかな日和だけでは、自然界の厳しさや、人生の深さや教訓はなかなか身に沁みないでしょう。
自分の霊性が目を覚まし、それまで気づけなかった自分の無限の可能性を知るのは時として大雨のさなかであったり、太陽が何日も見えない暗黒のような日であったり、問題を抱えた窮地の日でなければならないであろう。
地上における80年前後の人生は一つの長い闘いであり試練です。
自分の魂に秘められた無限の可能性を試される場に身を置いていると言ってもよいでしょう。
私たちの霊性(心)にはありとあらゆる種類の長所と欠点というカルマが秘められております。
本能感情理性知性の4つのバランスが基本となって個性が表面化します。
本能が過ぎた個性は、物に、金に、食に貪欲になります。
感情に過ぎた個性は、怒りやすく、沈みやすく、起伏の激しい性格となります。
理性が過ぎた個性は、冷たく他を批判し、裁き、排他的な言動があらわれます。
知性が過ぎた個性は、一見、知的であっても何かと自己主張による虚栄心とその言動から反感を買いやすくなります。
すなわち人間は最初から人間として地上に誕生してはいるのですが、拘り、執着、見栄、傲慢、虚栄心、自己保存などの欲望によって、動物的な本能的欲望や感情に支配される場合もあれば、あなたの個性的魂の源泉である神性仏性も深奥に秘められております。
そのどちらが勝るのか、その闘いが人生といえるでしょう。
その意味において地上に生まれてくるということは、私たち自身がその試練に身をさらすことを承知で下生(誕生)してきているのです。
人間は絶対的唯一の存在の分霊を頂き生まれてはいますが、それは魂(心)の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには、厳しい試練が欠かせないということだ。
そうして私たちが生きていくにあたって、運命の岐路にさしかかることが何度もあり、右か左かの選択を迫られることがあるものです。
その時に楽な道を選択するか、苦難に厳然と立ち向かうか、それとも回避するかの選択を迫られるわけですが、その判断は私たちの自由意志に任されています。
しかし、回避すればそのことがクリアできていない宿題として生涯にわたって私たちの心(魂)についてまわり、人生においてあらゆる場面でそのハードルを越えなくてはならないだろう。
また、自由といっても完全なる自由ではありません。
その時点において私たちの置かれる環境条件があり、これに反応する個性と気根の違いによっても選択の仕方が違ってくる。
物事に対して客観的に判断すれば正しい選択ができるのに、欲心をもって目先の利益やプライドや自己都合で判断すれば誤った選択をして迷路の人生に苦悩することになります。
事なことは自己都合の判断ではなく、己自身を客観的にみることができるかどうかということであろう。
未知数の地上生活において、自分に内在する神性を大きく調和するためのチャンスは実は誰にでもあらかじめ用意されているのです。
そのチャンスを前にして積極姿勢を取るか消極姿勢を取るか、私心を捨てて対処するか、自己中心の態度に出るかは、私たち自身の判断によって決まるということです。
一日は24時間、一年は365日、季節は春夏秋冬、そのなかで地上生活は一瞬一瞬がその選択の連続と言ってもよい。
選択とその結果、つまり作用と反作用が人生を織りなしていくのであり、同時にまた、寿命つきて霊界へ入った時に待ち受けている生活、新しい仕事に対する準備が十分に出来ているか否か、能力的に十分か不十分か、霊的に成熟しているか否か、といったことも地上の成果それによって決まるのである。
単純なようで実に複雑なのです。しかし、真実は単純なのです。
知識の集積では深さを悟ることはできない。
作用と反作用は物理的な道理ですが、しかし、心にも作用と反作用は厳然として働いていますし、人間関係においても作用すれば必ず反作用があります。
自己中心で他に接すれば相手からそれと同じような扱いを受けるでしょうし、心穏やかな慈愛をもって接すれば、やはりそのような慈愛に触れるでしょう。
地上生活に関連して忘れてならないのは、持てる能力や才能が多ければ多いほど、それだけ責任も大きくなるということを忘れてはならないだろう。
次回に続く

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