なぜ素直な心が出にくいか

老い

なぜ素直な心が出にくいか

60代後半の老夫婦、まったく取るに足らない些細なことで口を開けば相手をののしり、罵倒し、挙句の果てには、「離婚だ!出ていけ!」と怒りのままに相手を罵倒して諍いの絶えない家庭がある。

まったく呆れて手の打ちようがない気の毒な老夫婦である。

さて、お互い人間は本来素直な心をもっているわけですが、しかしそれが常に表面に出て実際に働くかというと、必ずしもそうはいきません。

素直な心はもっているけれども、なかなかそれが出てこない、だから素直な心になることができにくいというわけです。

なぜ、そういうことになるのかといいますと、それはお互い人間が生きてゆく上においては、いろいろな囚われが生じやすい、ということも一つの理由でしょう。

例えば、生まれたばかりの赤ん坊には素直な心以外のものはなにもない、ということがいえるかもしれません。

本来もっている素直な心を覆い隠すようなものはまだ何も生じていないからです。

したがって、赤ん坊は何か欲しければそのまま態度にあらわしますが、これは一面において素直な心がそのまま慟いている姿であるともいえましょう。

ところが、そのように、赤ん坊のうちには本来の素直な心がそのまま表面にあらわれていたとしても、やがて成長していく過程においては、いろいろな体験にぶつかってゆきます。

欲求が満たされないこともあるでしょう。

なにか不快な目にあうこともあるでしょう。

近年では親に虐待される子どももいます。

そしてそれらに対処することもおぼえていくわけです。

そのうちに知識もまし、知恵を持って賢くなったり、卑屈になったり、人の顔色をうかがうような子どもになったりしていきます。

こうした姿は、もちろん一面においては、人間としての当然の成長の姿であるともいえるのですが、環境次第ではどのようにも歪んだ心として出来上がっていくことになります。

人間が人間として生きてゆくために自分を守る本能的な働きが相手を敵対視したり、相手を攻撃したり、罵倒したりする場合もあります。

また、ただ単に、自分のわがままを押し通す為に怒りを相手に向ける場合もあります。

しかしながら、その成長の過程において、同時にまた素直な心というものは、しだいに表面に出にくくなるというか、環境による知識や知恵に覆われてずっと下の方に隠れがちになってしまうのであります。

人により素直さがすっかり影をひそめて悪知恵が働く場合すらある。

例えば、小さな子どもの頃には、親が「ウソをついてはいけません」と教えれば、素直にそれを守って、ウソをつかないようにと心がけるでしょう。

しかし、その子がやがて長じてくると、なかなかそうはいきません。

何か失敗をしたような場合、叱られるのがこわくて正直にありのままをいえず、ついついウソをついてしまう、というようなことも多くなってくる場合もあるのです。

つまり、叱られるとか罰を与えられることからわが身を守ろうとする一つの知恵が働くのですが、それで素直な心がスムーズに表れてこないというか、素直な心の上に一つの曇りが生じてくるようなことにもなるのであります。

この場合、その子に、自分の立場なり利益を守るという知恵がつくことは、それはそれで一つの心の表れ方であるわけですが、しかしそのことのみに囚われた場合には、それだけ素直な心は覆い隠されてしまうことにもなってきます。

少し意味が違うかもしれませんが、旧約聖書の中に、心を教える為のストーリーとして禁断の木の実の話があります。

この聖書によれば、人類の祖であるアダムとイブはエデンの楽園で安楽に暮らしていたのですが、知恵のつく木の実(執着、エゴ)を食べることだけは神から禁じられていました。

ところが悪いるいヘビにそそのかされて、その木の実を食べてしまったのです。

するとアダムとイブは自分たちが裸でいたことに気づくので、神は二人が木の実を食べたことを知って怒り、二人をエデンの楽園から追い出してしまうわけです。

つまり、これまでの安らかな心から、物に囚われたことによって苦悩の生活に変わってしまったことを示唆しているストーリーだと解釈できます。

この話は、お互い人間が本来備えもっている素直な心を、もろもろの偏重した知識や知恵で覆い隠してしまったため、自ら不幸な姿に陥っていくというような姿と、何か通じるものがあるとも考えられないでしょうか。

すなわち、アダムとイブにしても、赤ん坊や幼い子どもたちにしても、もともとは素直な心をもって生まれているのです。

ところが、年を経て体験をつむにつれて、いろいろな考えや心が積み重ねられてきたのですが、往々にしてその素直な心が表面に出にくいようになってくるのです。

それがエゴ、執着といわれるものであって、人生のなかで溜めこんできた心の垢であるわけです。

人間関係万般に素直な心をもって臨むことができればよいのですが、お互い人間が本来もっている素直な心というものが十分に働かないようになってきた場合には、いろいろと好ましからざる姿、弊害というものが生じてくるのであります。

すなわちお互いが素直な心にならないところからは、始めにもふれましたように、お互いの間にとかく対立や争い、いがみあい、誤解、憎しみ、不信、非難攻撃など、好ましからざる姿が生じ、不幸な姿が多く生まれてくることにもなりかねないのです。

現に今日でも世界のあちらこちらでもくり返し紛争がおこり、血が流され、多くの尊い人命が失われています。

お互い人間はこれまで長い歴史を歩んできた結果、さまざまな分野で偉大な成果をあげ、好ましい進歩発展の姿を生み出してきたわけですが、こうした人間同士の関係ということについては、今日でもまだまだ問題が大きく残されているのではないでしょうか。

それだけに、お互いが素直な心になるということは、今日においても、また将来においてもきわめて大切なことであるといえると思います。

そしてそういうことは、世界各地の紛争などに限らず、一つの国の内部においても、また我々の身の回りにおいてもいえることではないか。

つまり、人間関係万般にわたって、素直な心になるということがきわめて重要であると思うのであります。

というのは、お互い人間がつねに素直な心になって生活し、活動を営んでゆくようになったならば、そこからは計り知れないほどの好ましい姿が社会の各面に生じてくると思われるからです。

いいかえれば、あらゆる面において人間道が実践されるようになってくるからです。

したがってお互い人間の偉大な王者であるという本質というものも、十二分にあらわれてくるのではないでしょうか。

したがって、そこにはお互い人間の共同生活がつねに物心両面において共に豊かさを伴いつつ向上してゆくというまことに好ましい姿も保たれ、一人ひとりが身も心も豊かに、喜びをもって楽しく暮らしてゆくこともできるようになるのではないかと思うのです。

このようなことを考えてみても、お互いが素直な心になるということは、なににもまして非常に重要であり、また大切なことではないか。

以上、素直な心というものの意義について述べたわけですが、お互いがこういう素直な心についての理解、認識をさらに深め、少しでも素直な心になってゆくための何らかの参考になればと思うところであります。

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