予言や予知の背景にあるもの

阿含宗1
『私には人を呪う力があるし、先を見通す力がある。だから私の言うことをきかないと必ず問題が起きて、最悪の場合は死に至る場合がある。だから私の言う通りにしなさい』
とんでもない非常識なことをいうこの人間は外交員で某保険会社に勤務する女性であるが、この言葉に怯えた女性から相談が入ってきた。
『人を呪わば穴二つという言葉があるように、この諺はほんとうにその通りになります。営利目的のために人を脅かすなんて人の道に反します。こようなことを言ったその女性こそ自分に禍が発生するでしょう。あなたの心が鏡のごとくキレイでいたならそのような邪悪な念は返り念となって本人に災いをもたらします。全く心にとめる必要はありません。』とお答えした。
『生老病死』という言葉が示すように人生には生きることの中で様々な困難や苦悩、そして老いることによって発生する諸問題、病気によっておこる悩み苦しみ、死を迎えるにあたっての不安と恐怖心などといった心の動揺にもであうことになる。
亡くなる方があればそこには必ず悲しみがありますが、家族があるかぎり死者のない家はなく、必ずどこの家でも何らかのかたちで葬儀を執り行うことになります。
家庭のトラブルがあれば誰かに理解をしてもらいたい思うだろうし、相談もしたいというのが人情というものであろう。
そういう困り果てたときに訪れてみる占い師、霊能者、霊媒師のことに関しては『当たる、当たらない』という話が必ずと言ってよいほどついてまわる。
生活があることは理解するのだがしかし、その為に言わなくても良いことを相談者に言う霊能者、また言うべきでないことまでも言ってしまう場合もあったことを後に相談者ご本人からも聞かされます。
『この件はこうなるからやめなさい。これはこうしたほいうがいい。』というように、アドバイスをされることで、相談者の意思によって為すべき自立のための大切な選択を人任せにしてしまう傾向もみられます。
例えば、『あの時に霊能者の人がこういったけどそうはならなかった』『こうしたほうがいいと言ったからその通りにしたけど事態が悪化した』等々、岐路に立った時に、自分ではなく他人の意見に従うことは必ずしも問題解決になるとは限らない。
その結果、相談者自身もあのことは当たっていたけど、このことは当たらなかったということに一喜一憂して本来の問題が解決できるでもなく、相変わらず悩みを抱えている場合が多々ある。
冷静な心でよくよく考えてみれば『こうすることが一番いいだろう』という方向性が自分でもわかっているのにその内なる自分の声にしたがって行動できずに他人に答えを求めてしまう依存心や責任の欠如。
本当の進むべき道は、問題が発生して岐路に立った時に自分の内にある思いが偏った思考によるものでなければそれは今の自分が進むべき道と判断するのが正しいということだ。
例えそれが棘(いばら)の道でもである。
きょうは予知したり予言したりすることができるということはどいうことなのかを霊的な背景から述べてみたいと思います。
予知や予言は、現象としてこの世にあらわれることを事前に知るということであります。
それがなぜできるのかとなると、それはそういう事実がどこかの世界にすでにつくられているからということでもあります。
その意味で言えば、あるから知ることができるのであって、全くないものを知ることはできないわけです。
それではどこに既につくられているのかと申しますと、「念の世界」、「意識の世界」、「霊の世界」、つまり「あの世」にすでにつくられているということです。
つまり、結論を先に言いますと「この世」3次元に起こることは先に「あの世」4次元でにおいては、この世のように形こそないが、現象化されているということです。
例えば、私たち人間が何かを作るとすれば、先ずはその前に計画を立てますが、その計画はまだ形にはなっておりません。
そしてその計画のまえには意識が必ず働いていますから、意識のないところには計画も創造も有り得ないわけです。
人間の意識のなかにおいて物事の想像、創造がなされるということはそのまま、4次元という意識の中に現象が創られたことになります。
このような意識の働きがこの世の3次元世界に現象(形)となって顕われるまでは一定の時間がかかることになります。
具体的な事例をひとつ紹介しましょう。
山が割れてその割れから水が吹き出し洪水になり人々が非難する夢、その2か月後には海水が増水して人里が水没していくイメージが鮮明に心に残っていてとても嫌な胸騒ぎがした。
この夢の一か月後に三陸津波の震災が発生したのである。
もうひとつ愚かな話しです。私が20代の頃、パトカーに追いかけられれて捕まった夢をみて目覚めが悪い思いをしたのだが、その日の午後にスピード違反で捕まってしまった。仕事で空港まで人を迎えに向かう途中のできごとである。
夢が現実になることを何度も経験するとある種の嫌気がさしてきた時期もあったのだが今は素直に受け止めることにしている。
このような体験はこのブログを読んでくださっている人たちのなかにもあるのではないかと思います。その意味では何も特別なことではないのではないか。
単なる妄想、夢だといえばそれまでのことですが、イメージとして心に浮かんだことや、目が覚めてもしっかりと記憶に残っている夢が現実のこととなったのはこのことが初めてではないから、単なる妄想や想像夢としてかたずけるわけにはいかない。
しかし、このような事は軽々しく公言できることではなく、またそうするべきでもないと思います。
さて、本題にはいりましょう。
予言や予知は、私たちが日頃活動しているときのわずかな10%の表面意識(現在意識)ではそれを知ることはできませんが、地上で何かしらの使命を担っている人間の場合、あるいは地上生活をしながらも上段界光りの天使で潜在意識の開発された人は、それを事前に知ることができます。
そのようにして事前にあの世での現象をキャッチすることができるからこそ予言ができるということ。
ところが、これらの特別の使命を持った光りの天使すなわち如来や菩薩界以外の人でも千言ができるのはなぜだろうか。
予知や予言にもその内容や信憑性はピンきりである。
実は動物霊(特に狐霊、蛇霊)や未成仏の霊や地獄霊に支配されている人はできるのです。
地獄霊や動物霊に支配されている人は、地獄霊や動物霊が、あの世につくられたその事実を知り、その人に伝えるからです。
霊視、霊聴、予感などの霊示としてその人に伝えるために、予知、予言ができるということになります。
それ故に、あそこはよく当たるという評判によって人が集まる仕組みとなりますが、実はここにこそ危険が潜んでいるということを知っておいていただきたい。
重要なことは予言をする人の日頃の生活観や人格を正しく見ることです。
かつて、大本教の出口王仁三郎氏は、「現界(この世)に起こることはそれ以前に霊
界(あの世)に現われ、霊界と現界は照合している」と説いていますが、注目すべきことです。
出口王仁三郎氏は、宗教の誤りを覚醒させる使命を持って生まれた菩薩界の人であった、とおっしゃった方(故人)がおられますが、この言葉は信頼に足る言葉と私自身は受け止めております。
こうしてみると、この世はあの世から映し出された世界であり、本来別々のものではないということがいえるでしょう。
この世に起こることは、先にあの世に起こるということを理解していただいたと思います。
あの世の動物霊による予言と光の天使による予言の違い
動物霊(特に蛇やキツネ霊、霊格の低い龍)や地獄霊があの世に先に起きたことを見て知らせるという事実も、使命を担ったあの世の光の天使がその事実を知って教えることも、同じではないかと言う人もおられるかもしれません。
しかし、それは違います。
地獄霊や動物霊は万能ではなく、知ることのできる分野、範囲は限定されますし、 一局部のことしか知ることはできません。
ですから、動物霊、地獄霊は低い所、暗い所にいるので、人の死や不幸な出来事などの暗いことは見事に当てても、明るい未来の部分に関した知り得ることができないのです。
世界がどうなるとかの広い範囲にわたる明るいことについては、全く感知できないのです。
低い山の上から見る範囲と高い山から見える範囲は違う道理は簡単にわかることです。
人類の滅亡を予言したような情報が流れたこともありましたが、そのようなことはないと信じておりますから全く意に介することもありません。
キリスト教で言う「光の大天使」、仏教で言う「菩薩」「如来」などの上段階の方達は、知ることのできる範囲が、上段階に行けば行くほど広くなるので、その予知が比類なきほどに正確になります。
ですから地上に肉体を持ってはいても、霊格の高い方の場合は当たりはずれがなく、予言、予知は百発百中となるのです。
さらに、大きな違いは、光の天使は勇気と希望を持たせるような予言、予告をします。
たとえそれが悪い結果となる予言であっても、その原因を教え、明るく生きる勇気を奮い立たせるように教え導くのです。
ところが、動物霊や地獄霊などの予言は、不幸なことや心が暗くなるようなことばかりがよく当たり、心理的な強迫さえすることがあります。
そして、「私がその悪い因縁を取ってあげましょう」などと言って、お金と引き換えに加持祈祷などを行って因縁を取るという人がいますが、実際は人の因縁は取ることはできないのです。
ここに盲点があります。多少の霊的な現象をみせられると人間は弱いものです。
何度も言うように、自分の因縁は自分で取り去る以外にありません。
自分の人生の在り方をよくよく省みて、原因となるものを根っこから取ることです。
それを以ってすべては「自力」だということです。
使い姫としての動物
たびたび動物霊の良くない点を言葉にしてきましたが、なにも動物を悪者にしようとして述べているのではありません。
動物霊もほとんどが立派なのに、特に一部は人間を支配したいと思っている動物霊が人間に憑依するのです。
現世において犬や猫を飼うのと同じように、あるいは介助犬として人間に飼われるように、あの世では「使い姫」として動物を使う場合があります。
このようなことから、地上では動物霊を神として祭るという誤ったものになったのです。
この事はこれまで狐信仰(稲荷神)や蛇霊信仰(蛇神)龍神信仰の場で動物が関わっていることを申し上げてきました。
古代インドの時代、お釈迦様には猿が使いとして現われたと言います。
戦後の日本において法を説かれた菩薩界の方の場合、鳩がよく現れて終わるまで傍にいて静かにして、法を説き終わると飛び去ったとその方の法をお聞きになった方々は言い残しておられます。
このように、かつて蛇や狐を使いとして現わしたことがあったので、後世の人が、狐や竜などの動物霊を神として崇拝するようになったのです。
蛇は地球の人間の誕生の歴史より古いと明らかにされていますが、動物は自分の本性を人間に見せたくないために、いろいろな霊的現象、主として菩薩の姿を見せる場合が多いのです。
そのために、偽の菩薩像をみた人間が、神のお告げがあった、お告げを聞いたと錯覚を起こす者があり、ついに動物霊に支配される結果となるのです。
日本を代表する古来からの霊峰富士ちわれているのだが、山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された経緯があります。
噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された経緯があります。
しかし、天下の霊峰といわれた富士山は今や霊的な視点からすれば、必ずしも清浄な霊域とはいえず、自縛霊や狐の巣と化しているといってもよい。
富士山麓には信者からの汗と血と涙の布施や喜捨によって集められたおかねで金ぴかで豪華絢爛な宗教本部があちこちにできあがって、そこに集合する人間の業火が未浄化な蛇や狐の霊を呼び寄せているのである。
動物霊はその人の心を見て、この人にはどういう姿を見せれば信ずるかを見抜くのです。
観世音菩薩を信じている人にはそれに、不動明王を信じている人にはその姿に、龍神を信じている人にはその姿に変化して見せると、あたかも自分が特別な人間であるかのごとく、あるいは悟ったかの如く錯覚を起こし、完全に動物霊に支配されてしまうのです。
その人達の死後は地獄界に住し、心の境涯によっては狐や蛇の姿にもなるのであるが、このように間違った信仰は、神の子・人間が動物の支配下におかれて苦しむのである。
万物の霊長である神の子・人間は、動物霊より上段階にいるのですから、動物霊にコントロールされることは実に愚かなことであり、人間としての本性を決して忘れてはならないのです。
使命を持った菩薩界の霊や光の天使は芝居じみたことや、人をおどしたり驚かしたりするようなパフォーマンスは絶対にしません。
よく当たるからということで自分の考えでも出せるようなことを聞くために尋ねに行く人も多くおられるようですが、無知とはいえ残念に思います。
何人もの政治家がお尋ねに行っている所もあるように聞きますが、お尋ねしたあとでなければ行動できないとは、子供よりまだ悪い。
自己確立からは程遠いのです。このような人達に国をまかせたならば、この日本はこの先どうなることでしょうか。少し厳しいことを述べさせていただきました。
動物霊信仰
人々の中には、本体がどのようなものであるかを知らずに動物信仰をして、庭の隅などに動物霊を祭っている人がいますが、決して正しいことではありません。やめることです。
動物霊信仰者でも少しの奇跡はあるでしょう。彼らにもそれくらいのことはできます。
ところが動物霊は、所詮、動物であり、真理は説けません。真しやかに並べてはみても必ず矛盾が出てきてコロコロ変わります。
蛇の獰猛さ、狐のずるさを想像してみてください。蛇や狐に、慈悲とか愛がわかるだろうか。
とても上手に人間を騙しますが、もともと動物は本能のままに生かされているのですから、こうしたものが人間に憑くと、いっときは利益を与えても、ある程度時間がたつと本性を現わし、人間を食いものにしていきます。
熱心な信者ほど病気をしたり、家の中がうまくゆかなくなったりするのも、そのためであり、ご利益があるという信仰の危険性がここにあります。
動物霊が憑いている教団の教祖や熱心な信者の状態をよく観察してみると次のような状態が見られことが多々あります。
顔色が悪い、病気が絶えない。人を非難する、人をおどす、自己本位、エリート意識が強い、比較の観念にとらわれる、我が強い、感情的、欲望的、愛がない、計算高い、無理を平気で言う、などです。
また教団によっては、動物霊以外に阿修羅が憑く場合もありますが、この時は、戦闘的、排他的、一本調子、他をかえりみないなどの状態が見られます。
動物霊はこの世に非常に執着を持っていますから、神理があいまいだったり、あるいは全然神理か説けず、占いに熱中している場合など、これらは動物霊の仕業とて差し支えないでしょう。
何々の神、何々権現、〇〇如来、〇〇菩薩などというようなことを喋るようなら、これはほぼ間違いなく動物霊です。
動物霊や魔王でも奇跡を起こしたり病気を治したりしますが、これと、神理に適って調和された生活の随伴現象として起こってくる奇跡とは、自とその内容を異にしております。
第一その永続性、心身の安らぎという点で、まったくの異質であることを知っていただきたいと思います。
動物霊に支配(憑依)されている人の特徴については次のようなことああります。
動物霊が支配している場合は、神がかりになって、体を上下に動かしたり、合掌している手先が蛇行したり、座ったまま数十センチから1メートルも空中に浮いたり、飛びはねることもあります。
彼らは人を驚かすところに特徴があると言えます。不動明王だの、竜王だの、稲荷大明神と名乗って出てくる場合も動物霊がほとんどであり、まことしやかに振るまうので特に気をつけなくてはなりません。
このような人々はまことに危険極まりなく、健康にも、日常生活の上においても、いろいろ支障が起きてきます。
また、こうした動物霊達は肉体祖先が浮かばれていないからお祭りをして供養しろとか、あるいは多額の金品を要求したりもします。
動物霊が憑依している者は欲が強く、したがって憑依されている者は、金とか地位とか物や名誉などに固執します。
予言する、病気を治す、それだけで信じてはいけません。
また罰があたると脅迫するようなことがあれば、これもまた地獄霊です。
一番大事なことは、神がかっている人間の品性や言動をよく観察することであり、人としての正しい道を心の物差しとして生活しているかどうかが問題なのです。
地獄霊が憑依すると、おごり、怒り。そしり、ねたみ、欲望の渦の中にひきずられるため、心は常に動揺し、不安定です。
いくら口先でうまいことを言っても、その考えることと行為に大きな矛盾が出てきます。
自然な霊力や脅迫にあうと、人はつい盲信、狂信になりがちです。
正しく見ることが如何に大事であるかを理解していただきたいと思います。
稲荷大明神、竜神、竜王らの本来の使命は、動物霊達に動物としての道を教える役職にある天使達であり、本体は竜とか蛇、狐ではなく、人間の魂としての天使であいます。
この使命を担ったあの世での立場は、仏教で言えば菩薩段階であり、キリスト教で言うところの上段階の光の指導霊になるための修行過程です。
これは、もっとも厳しい修行過程であり、学習なのです。
動物霊達は感情の気性が強く、本能的で、指導はむずかしく、この世的な概念で言えば、数百年にも当たる修行が必要だと我が心の師は言っておられます。
ただ蛇や竜達がよくよく正しい法を勉強して、竜王達の仕事を手伝うことはあるらしいのですが、彼らは竜神でも竜王でもありません。
稲荷大明神、竜神、竜王は仏教で言う人間の天使の役職名なのです。
「不動明王」とはあの世の秩序を正す役目と、この世で肉体を持っている正しい心の人々を魔から守る使命を持つ、諸天善神の一人です。
商売繁盛を目的に、よく稲荷神と思って本体は狐などを祭ってある家庭や店舗があるが、非常に危険なことだといえるでしょう。
彼ら動物言達は、盲目同様の人間をからかったり、また彼らも人間になりたいと思っているため、いろいろな現象を出したりするものであるということ。
こうしてみると予言や予知の背景には必ずそれを知らせてくれる存在があるというとが霊的世界の仕組みを知ることによって理解できるのではないでしょうか。
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