お経と真の先祖供養のあり方

読経

質問をいただきました。

1)先祖供養のためお経を上げる習慣がありますが、いったい、あれはどのような意味があり価値がある行為となるでしょうか。

(2)また、アメリカやソ連や中国、ヨーロッパなどの諸外国のように故人に対してお経を上げる習慣がない文化圏での供養はどうなるのでしょう。

(3)そして、科学が発達するにつれて、宗教と哲学の存在価値が薄らぐことはないのかお考えをお聞かせください。

きょうはこの三点について考えてみたいと思います。

(1)先ず、お経を上げることが供養だと考えるのは正しくありません。

お経をあげなければ供養にならないというのであれば、そういう文化のない国では供養が行き届かないことになり成仏できていない霊で溢れてしまうことになるが、しかし、実際はそうではない。

死んだ人がお経の意味を知っているなら、自分に向けられた読経の内容に対し、『ああそうだった、自分は考え違いをしていた』と気づくでしょうが、お経のおの字も知らない、内容についても理解していない者には、馬の耳に念仏ということになりましょう。

それと、お経の意味を十分に理解して日頃の生活に実践しているような人が死んだ場合は何日もこの地上生活に未練を持たず、早い時期に天上界に上がってしまいます。

そのような人に対して、遺族の者たちが追善供養をしても釈迦に説法となるようなもので大して意味を成しません。

要は、死者の霊にもこの世にいたときと同じように、日常的な普通の言葉で、人間としての正しいあり方を語って聞かせることが最も大事であり有効な内容となるのです。

その為にも地上で生きる私たちが偏りのない、執着しない生活をしなくてはいけない。

地上の人間が不調和な生き方をしていながら故人や先祖の供養というのもおかしな話しだと思わないだろうか。

人を諭すということは、先ず、自分自身が中道に沿った偏りのない生活をしていなければなりません。

夫は妻に対し不満と愚痴と怒りをぶつけ、妻も夫に対し同じことを思い夫婦がバトルの生活をしていて先祖供養はできようはずがありません。

故人や先祖にしてみれば、『私たちを供養する気持ちがあるなら、あなたたちがもっとしっかり仲良く執着しないで愛も慈しみも実践した生活をしなさい。』ということになるのです。

自分の日頃が、足ることも忘れ、不満を持ち、愚痴を言い、怒りをもって生活していながら、故人や先祖に対しては成仏してください、安らかに眠ってください、自分が意味の解らないお経を唱えて供養のつもりでいる形式的なことに囚われている子孫をみるあの世の縁者やたちは、滑稽(こっけい)な光景に苦笑することだろう。

自分が、故人や先祖の立場に立ってみたら簡単にわかる物事の道理ではないだろうか。

お経そのものは、釈迦の説法を弟子や後世の人たちが書き記し、それが中国に渡って漢文化され、リズムを持った読誦に変ってきました。

漢文の意味を悟り、その教えの内容を日々の生活のなかに実践している者が経文を読誦する場合は、執着し、迷った霊はその読誦の音声波動によって心に安らぎを得れば浄化されるでしょう。

それが故人の気づきのきっかけになる場合があります。

したがって、そういう意味ではお経は供養になるといえますが、しかし、普通はこうはいきませんし、第一それだけの自信のある方は非常に限られているものです。

大変僭越(せんえつ)ですが僧職の方で、あの世を知っている人、もしくはそういう能力を持ちえた人ならばお経は供養になりますが、それ以外はあまり意味がないといえます。

問題を抱えている人が『三回忌の法要を和尚さんにお願いして済ませましたので供養はできているはずです。』といってくるのですが、実際はそうではない場合があるのがそれを証明しているのです。

僧侶にお願いして法要を営んだらそれで供養だとする考え方は余りにも短絡的であり、古来の因習に疑問ももたずに行われてきた中身の伴わない習慣的な姿だといえよう。

(2)お経を上げることが供養というならば、ソ連やアメリカの人たちはどうなるかということですが、国政や文化がどうあろうと、神を信じ、己の心を正して生活している人は闇の世界で苦しむことはないのです。

お経を上げなくとも、遺された家族の者たちが調和された生活を送っていれば、 たとえ闇に苦しむ霊でも、それを見る者は反省の材料とし、悟れる環境に浮かばれることになります。

いずれにせよ、死者、先祖の最大の供養とは、地上界の子孫の実生活の調和にしかないことを知るべきで、お経の有る無しではないということである。

(3)正しい生き方の法則は心の法則です。その意味では世界に占める仏陀やイエスの説いた法は心の法則そのものであり科学です。

調和を説くその心の教えである法則が非科学的と考えることは全く狭い考えだといえるでしょう。

例えば、般若心経の一節にある色即是空、空即是色とは、万生万物は循環によって成立ち、宇宙の摂理、秩序、法則から外れれば心も肉体も苦しむから、中道(偏らない)の心で生活しなさいということをいっているのです。

心配事があれば食事がノドを通らないし、怒れば心臓が高鳴るでしょう。

中道に反した感情想念が働くと、血液の流れが乱れ、胃腸の働きも弱る。お釈迦様の教えである仏教はそれを教えています。

これは立派な自然科学であり心の科学です。

多くの人は、従来の拝む宗教と、正しい生き方としての法則とを混同され、これまでの、観念と自己満足の宗教を宗教とみてきたのです。

本来の宗教は限りなく人々の道しるべとして存在するものであって、間違っても宗派宗教のための宗教であってはならないのである。

しかし、特に現代は宗派宗教であり、真に人々の為の宗教には成り得ていない内容であることが多いのは否めない。

その意味でいえば、宗派宗教は存在価値がなくなるでしょう。

過去の偉大なお釈迦さまやイエスは民衆に対して、自分自身が経済的な豊かさのなかで人生のあり方を説いたであろうか。財産を持ったであろうか。

聖貧のなかで人々を導いたのである。

現代の宗派宗教は異常なまでに財を成していることを不自然と思わないのだろうか。

正しい生き方の法則と本来の仏教の中身はそんなものではなく、シンプルで立派な心の科学なのです。

正しい生き方の法則と拝み宗教とを混同しないことが肝要であろう。

ということは、拝むような、拝ませるようなことをしなくても、人間として正しく自立していくことは学べるものであるし、それができれば依存型信仰を脱却できるのである。

未来の宗教はこれまでの抹香臭い宗教ではなく、自然科学と心の統合を同一次元で捉えるようなものにとって代わるようになっていくだろう。

冠婚葬祭にみる古来の価値観が昨今、急激に変化し始め、ニーズに応えるべく様式も随分と変わっているところに宗教的価値観の変化をみることができます。

故人や先祖供養をすることは良いことですが、もっと大事なことは、私たちが争いのない生活、即ち、不満、愚痴、怒り、妬み、恨み、中傷、のない生き方をすることであろう。

どれほど宗派宗教が先祖供養を説いても、私たちが心不調和な生き方をするならば、間違いなく死後は闇の世界の住人となるのです。

とすれば、あの世の世界はさ迷える霊たちで溢れかえり地上を取り巻く霊圏は非常に曇ったものとなるのである。

地上人間が心を調和することを優先せずに、あの世の浄化とか、故人の供養とか、先祖供養を優先するこのような影響は、地上とあの世との悪しき連鎖をつくりだし地球の霊域を曇らせて汚染することになるということだ。

これまでの記述は、事の実態と真実を述べたものであって、決してお経による先祖供養を否定すものではないことを申し添えておきます。

きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。またの訪問をお待ちしております。ランキング参加しております。下のバナーをポチッとクリックして頂ければありがたいです。
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