神と仏について

鈴木 様のコメント: 2015年4月5日 4:34 PM

今回ご縁をいただいて、こちらのサイトを拝見させていただきました。
唐突で失礼かと思いますが質問をさせてください。
私の場合、特定した宗教への入信はありませんが、なぜかしら神様、神というものへの関心があります。
だからといって何を学んだということでもありませんが、今一つ神という言葉、その存在はどのようなものなのかという思いが消えることがありません。
日本の宗教観による神はどうなのか、世界の宗教観による神はどのようなものなのか。
この辺のところを教えていただければ有りがたく思います。
私の知人で熱心な宗教信仰者がいますが、その家庭ではいつもトラブルが絶えなく、お子さんたちも非行に走って学校でも問題になり、警察沙汰にもなっています。
このような状況を見るにつけ、熱心に神や仏を語りながらも家庭がうまくない現状に、信仰とは何なのか、神とは何なのか、仏とは何なのかという疑問がわいてきます。
どうぞ神の定義、仏の意味について、そして信仰についてなにかしらご教示いただければと思います。
宜しく御願い致します。
大坂在住 60歳 男性

 
自然鈴木様、コメントをくださいましてありがとうございます。
及ばずながら私が知り得る範囲で、神と仏について述べさせていただきますが、不足の点についてはご了承くださいませ。
先ずは、神がどのような存在であるかについての様々な考え方は、宗教や哲学などに見ることができると思います。
事例として、ここにいくつかの考え方を述べてみますが、これらの考え方がそれぞれに両立可能なのか不可能なのかは個人の解釈にもよるでしょうから、一概にはいえないところでもあります。
造物主
第一原因としての神という捉え方で、全ての物事の原因を辿って行ったときに、全ての原因となる最初の創造(創世)行為を行った者として、想定される存在の神という意味。
アニミズム(汎霊説・汎神論・はんれいせつ、はんしんろん)
洞窟や岩石、山、水(泉、滝)など自然界の様々な物、あるいは全ての物事に固有の霊魂や精霊、神が宿っているとする考え方。
守護神
恩恵を与える者としての神で、祈り、信仰、犠牲などに応じて現世や来世における恩恵を与えてくれる存在であるとする考え方。
人格神
神が人と同じような姿や人格を持つとする考え方。キリスト教でいうとヤハウェやイスラム教でいうアッラーなどがその典型でしょう。
八百万の神
一神教が砂漠の宗教であるのに対して、多神教は農耕社会に多くみられ、配偶神や親子神のように地上的・現世的な性格を多分にもっているところがあります。
日本の記紀神話にあらわれる八百万神(やおよろずのかみ)の世界も多神教の一種でありましょうが、その神々は古代ギリシアの宗教やインドのヒンドゥー教における多神教とは異なって、肉体的な特徴や個性をもたず、目にみえない存在でありました。
また日本の神話には世界を創造する造化の神自然神が登場していますが、その多くは祖先神(または氏神)であって、山や森などのある特定の場所に鎮(しず)まり、個性や機能を強くは主張しない存在とされてきたところがあります。
古事記にはたくさんの神々の名前が出てきますが、最初に現れた神の名が天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)ということで記されております。
いわゆる宇宙創造の最初の神という位置づけになろうかと思います。
さて、科学が発達することによって受ける人類の恩恵は大きいのですが、そういうなかでも私たちの心の支えとして、神仏の信仰は日常生活の中に取り入れられて存在しています。
とはどういった存在であり、神の定義はどういったものでしょうか。
それは、すべての存在の根源的宇宙意識と表現したい。
抽象的な表現かもしれませんが、この地球上、宇宙空間に存在するすべてのものはこの大意識を離れては存在することはできないと考えます。
太陽も、人間も、動植物も素粒子も、すべてこの大意識の経綸のなかで生かされ、生きていると思うのです。
とはそれでは何を意味するかといえば、神の大意識と不離一体の境涯まで悟った人、すなわちかつてはこの地上に生命をもったことのある人間であり、現在もそのような境涯で人々を善導する人間のことだと解釈しております。
したがって不離一体という意味においていうならば、大悟の心境は神といえるかも知れません。
先のモーゼやイエスは、さまざまな奇蹟をおこし、人々を救い導いていきました。
しかしながら肉体を持った人間は、仮に神の境地まで大悟を得たとしても、神になることはできないでしょう。
なぜかというと、この世の3次元という物質界には物質界の法則があって、その法則の枠を越えることはできないからです。
その枠とは、物質に限定されたことではなく意識の枠のことです。
この世の3次元物質界は人間の意識の場合、10%の意識によって成り立っている波動の荒い世界であり、100%の意識のうち、10%の意識しか働いていません。
これを以って意識の枠と表現したものです。
そのために一般的には、四次元以降多次元の世界は見ることも、覗くこともできません。
そうした制限された環境の中で全ての生命は存在し、輪廻を繰り返し学ぶのです。
人間の魂は、その心境に応じて霊道がひらかれ、10%の意識の枠を、20%なり30%に発展させることはできます。
イエス様やお釈迦様のように如来という境涯の悟りを得ると、その求めに応じて、なんでも認識することができるのですが、二十四時間そうしているわけにはいきません。
それは何故かと言うと、地上にはこの世の生活がありますから、四六時中、霊道を働かせ続けるわけにはゆかないからです。
したがって、大悟し、神の意識にまで同通したとはいっても、万物を生かしつづける神そのものになることは、肉体があるかぎりできないことなのです
仏という名称はこうした意味で使われていると理解していいでしょう。
巷のいたるところで「われこそは神である」といって、多くの信者をかかえている教団もありますが、そんなものではありません。
霊視や霊聴ができ、奇蹟を起したとしても神ではありませんし、そう語らせている背後の霊達もまともなものではありません。
霊視、霊聴にも段階があります。
教えの中身である真理についても同じです。
「我こそは〇〇の神である」とか言っているその内容が、言葉として、理論として通用するかどうか、それも重要な問題です。
大事なことは、説く言葉も理論も裏付けられ、それを証明する現実の証があり、さらには教祖と称する人の生活における行いがどうであるかを検証しなければなりません。
正しい理論に沿った教えは、神や聖人をつくるためにあるのではないと思うのです。
悟りとは、己れの過失なり欠点を修正し、二度と同じことを繰り返さない想念と行為を意味するものでなくてはならないでしょう。
その悟りの積み重ねが、やがて大悟につながり、一切の執着から離れ、煩悩にふり廻されぬ心境に到達できるのだと信じるところです。
一つ一つの気づき、悟りが、自身の心の調和を確立してゆき、地上の大調和に欠くことのできない核となっていきます。
神と仏とは、以上のような意味を持ち、正しい教え、宗教の目的はとなると、私たちが仏(執着から離れて悟った人)の境涯に到るためにたゆまぬ精進にあるといえるでしょう。
本来、人間は誰もが如来になれる魂をいただいてこの地上に生まれています。
しかし、そこまでなるにはこれからまだ何千回、何万回となく輪廻転生をくり返さなければならないと思います。
罪の子が禅定して神の子になるのではなく、元来、神の子であるから精進によって神の子になると解釈すべきではないでしょうか。
仏教的にいうならば、凡夫が如来になるのではなく、元々が如来になる魂の徳性があるから如来になるのだといえます。
禅宗ではこのことは、「瓦を磨いても玉にはならぬ」という公案として示されています。
その公案とは、ある青年僧が川原で瓦を磨いていました。
そこを祖師が通りかかられて「お前は何をしているのか」
「はい、瓦を磨いて玉にしようと思って、一所懸命に磨いているところです」
「馬鹿者、瓦はいくら磨いても瓦だ。宝珠だから磨けば光を発するのだ」というものです。
人間の魂がこの話しの宝珠にあたることは既におわかりでしょう。
明治天皇の妃の御歌に、「金剛石も磨かずは珠の光もそわざらん」というのがありますが、ダイヤモンドも山から掘り出しただけでは泥をかぶっているから輝かない。
泥を洗い落として、悪い部分は切って捨てて、さらに面をカットして磨くときれいに輝くのと同じように、人間も本来神の子ですから、悪い部分を反省して除けば元々如来になるべきものであるから如来になるということでしょう。
しかしその過程だけを見てしまうと、悪い人間がだんだんよい人間になるように見えるかもしれません。
釈尊が、如来になる資格があると免状を渡されたその第一番目が舎利仏であったのです。
しかし、これは霊的な視点からの話しですが、輪廻転生の回数の少ない人は魂が成長しきれていなくて幼く、逆に回数の多い人はそれだけ賢明で魂が大人であるということも言えます。
即ち、人格の高い人、低い人があるのは業や傾向性だけではなくそういう側面もあります。
人格の低い人ほど物質欲が強かったり、我が強く、自分にとって不都合な事があるとすぐに不機嫌になったり、言葉が乱暴になったりしますが、人格の高い人は謙虚で精神面を大事にします。
正しい禅定は、日々の生活の中で反省し、同じ過ちを二度とくり返さないようにして実践をしてゆくことが大事です。
日本仏教だけでなく、キリスト教においても、罪の子がだんだん良い人間になるということだけをいっているのは、それは人間の反面、外側だけを見ているからではないだろうか。
何故なら、人間は本来罪の子ではなく、地上生活のなかで心に罪を犯したということであって本来は神の子だからです。
どんな宗教を立ち上げようが、人間は人間であって神になることはできないのですから、教祖を神さまにしてはなりませんし、神格化することも危険なことだと思います。
宗教はあくまでも正しい理論と文証とそれを実証する事実(人々の正しい行いとしあわせ)がなくてはならないと思います。
あちらこちらに話しが飛びましたが、参考になりましたでしょうか。
神仏について記述する機会をくださった鈴木様に感謝申し上げます。
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になることが有りましたら下のバナーをポチッとワンクリックして頂ければ有り難く思います。
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