ナチュラルな生き方
私達が生活しているこの地上は、緑と光に恵まれた刺激的で活力にあふれている環境であり、まだまだ科学の面でも進歩する時代の途上にあると思います。
いつの時代も科学の進歩はめざましいのですが、今から112年前にアメリカのライト兄弟が動力による有人飛行機を、空高く飛ばすことに成功するとは誰が予測できたでしょう。
その一方で、科学の発達は原爆にみらるような人類を破滅にも追いやってしまいました。
人類は自分たちが発見した力によって滅ぼされることも経験してきたことを忘れてはなりません。
意識は科学に優先しなければならないということですが、その意識の最も深いところでは精神を根底から変化させていかなくては科学と意識のバランスがとれないでしょう。
世界的規模で現在のような生き方を手放し、これまでとは違った全く新しい生き方を築くべき時代であろうと思います。
実際、私達の住む世界が破壊され、代わりに新しい世界が造られる過渡期にいるのです。
それは文明や物だけではなく、精神の世界でも同じことがいえます。
今までの世界では、何よりもまず外界に目を向けて発展してきたのではないか。
基本的な精神のつながりが失われて、物質世界だけが優先すると錯覚してきたのです。
だからこそ、迷ったり、苦しんだり、虚しかったり、悲しかったり、寂しい思いをすると、私達は外界にある「物」、外に目を向け、お金、資産、利害関係、仕事、名誉、行楽、食物、向精神薬、といったものに心奪われてきたのです。
不思議な事に、物や形などの上記のような事に心を向けるほど大切なことがおろそかになり、そういった苦しみが増すのです。
物から、幸福や満足をみつけようと骨身を惜しまなかったのです。
新しい世界が築かれていくには、心の中に宇宙の崇高な力を受け入れ、創造エネルギーが体内をめぐるのを意識しなければなりません。
私達一人一人が、内なる精神の働きによって結びつけてられていることを知れば、創造する力が自身の内部にあることが実感できます。
内なるエネルギーを知れば、自分なりのリアリティー(現実感、真実性、迫真性)を作り出すこともできますが、そのリアリティーの創造に責任を担うことも自覚しなくてなりません。
このようにして一人ひとりが個人レベルでステージアップしていけるのですが、そういった人たちがどんどん増えると集団意識に大きく影響します。
私がいま、この世の中のこの時代が過渡期にあるということの理由として、自分の内面、周囲、社会が変化するのを注意深く見ているからです。
人間の魂が神からの分霊という意味からすれば、本来、愛というエネルギーだけの一元的性質の精神であってよいはずなのでしょうが、現実には善悪、エゴもあれば愛も同時内在しています。
仏教でいうところの、一人の人間が慈悲ももちあわせていますが、煩悩ももちあわせているということでしょうか。
過去を知って新しい生き方を模索する
世界状勢や私生活、あるいはその両方がますます悪化していく一方だと危惧する人は大勢いるかもしれません。
仏教の教えに「諸行無常」という言葉がありますが、この響きはうつろいや崩壊の寂しさを感じさせるところがある反面、実は、万物は形を変え相互関係のなかで循環して生かしあっているという真理を教えています。
人間の心もまたとどまる事もなく刻一刻と変化しています。
私たちは眠っていても次元の異なった世界で活動しているのです。
全ての変化、それは物質も精神エネルギーも含めて活動をしているのですが、この活動は時として穏やかなときばかりではなく、荒ぶるときもあります。
自然界にもそれがあるように、私たちのマインドにも同じように心安らかな時もあれば、何かに囚われて苦悩するとき、悲しみや怒りに心翻弄されるときがあります。
まるで自然界の嵐のように、晴れのち曇りのように、そして雨のち晴れのように。
しかし、ここで決定的な違いがあります。
何かというと、自然界は人智の及ばないところですが、人間のマインドは自身の工夫や努力、その調え方、方法によって穏やかになれるという点です。
心の豊かさは与えられるものではなく、自分が気づくところに原点があるということ。
その気づきを得るためには学びが必要です。
物質やお金で満たされた幸せ感と、マインドを優先した無上の喜びとでは比較になりません。それは心があって充足されるものだからです。
豊かさを求めた人間が、望んだとおりの人生を送れるのはごくごくわずかな人の場合のようですが、おそらくそれは賞賛、評価あるいは成功といった誰でもが欲しがるものが得られたからであって、しかし、それが真のマインドの至福かとなると必ずしもそうではないでしょう。
ほんとうの精神的至福を得るためには、今までとはまるつきり正反対の思考と方法で生活のあり方を習いはじめなければなりません。
時間はかかるし、そのことに打ちこまなければならず、勇気もいるので簡単なことではなありません。
子どもが成長していく過程では転んで起き上ったり、何かをするにしても失敗しては成功したりということを繰り返しながら物事を覚えていくように、私達も新しい世界では幼子であるということを忘れてはなりません。
精神性を高めるということは、多くの間違いを繰り返しながら学んでいくので、無知を恥じたりおびえたり自己不信や自己嫌悪に陥ることは頻繁にあるかもしれません。
しかし、幼子が転ぶたびにその児を叱ったりしないでしょうから、すぐに自分の望みどおりに生きることができなかったり、表現することができなくても、自己評価をしないことです。
転ぶたびに幼子を叱っていたら、その児は喜びを感じることもなく、自信を持って力いっぱい歩くことができなくなります。
今、人類は永遠不変の宇宙の法則に従って生きることを学ぼうとする気運が高まってきています。
宇宙と調和して生きることは、いつも活き活きとバイタリティーにあふれ、喜び、活力、愛、豊かさの中で生きることです。
しかし、人間はときとしてこれまでの価値観とその世界を手放しがたいものだと思われるでしょうが、新しい世界には、何事があろうとも移行するだけの価値があります。
精神のトレーニングによって自身のステージを高めたいと欲するならば、減らすか、捨てなくてはならないものがあるということを自覚しなくてはなりません。
ところが捨てきれないことが多いのです。
心が変われないのはこの欲望故です。
欲望はさまざまな場面で顔を出します。
知識ではどれほど学び得て豊かでも、いざとなるとただの煩悩に翻弄された人間になってしまうことはよくあることです。
これはあくまでも知識を得ただけで、心の根底に落ちていないからです。
こうして進歩向上はアップダウンを繰り返し繰り返し少しずつ歩んでいくのです。
幼子が転んで泣いて、立ち上がって歩くことを繰り返すように。
やがては幼子もひとりの覚者となって人を善導するときがくることを楽しみとしたい。
かくのごとく
塵芥(ちりあくた)にも似たる
盲目(めしい)たる
凡夫(つねびと)のうちに
正しき覚者(みほとけ)の弟子は
智慧をもて
光あらわる(発句経より引用)
※真に悟られた方の教えを学んだ人は、智慧という光をもって、迷い、目を失い、ちりやほこりのように風が吹けば飛ぶような心の迷い人の前に現れる。
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