老いた自分と仲良く生きていく
14年前の私の体力と、間もなく64歳となる今の自分の体力には雲泥の差がある。
重さが5キロほどのチェソーを半日振りまわして、薪をとるための間伐作業していても次の日には普通に作業できたが、今はせいぜい2時間程度が限度で、無理をしようものなら次の日の本業に差支えが出てしまう。
老年になったとはいえ、わが身が不自由になるのは淋しいものです。これまでできていたことができなくなる。そのふがいなさがもどかしくてなりません。
若い頃には、人はたくさんのものを持っています。
気力、体力はもちろんのこと、目が輝き、女性なら美しさも光り輝いている。
その溢れる力があればこそ、多少の悩みなんか吹 き飛ばすこともできる。
しかし、その若さは永遠のものではありません。健康な体もやがては病に罹(かか)り、美しかった肌には幾重ものシワが刻まれていく。
一方で、あくなき美へのこだわりは女性の若さ維持にもなるのだろうが、現代は若い女性たちの摂食障害によるうつ病の発症者も多く相談に来る。
でも、嘆いていても何も変わりはしません。嘆いた分だけよくなるのなら、いくらでも嘆けばいい。
そして悩みというのは、拘って嘆いた分だけ大きくなっていくのです。
拘りや悩みは、嫉妬に似ているかもしれません。
初めは小さかった悩みも、そこにばかり目をやっていると、どんどん雪だるまのように膨らんでいく。
そして、転がりながら小さな悩みさえもくっつけて、自分ではどうしようもないほどに大きくなっていく。
そうなる前に、もう一度客観的に自分自身を眺めてみることの習慣を身につけておきたいものです。
これまで持っていたものを失う。それは悲しいことです。
しかし失ったものばかりを嘆いていても前には進みません。
ふがいない自分としっかり向き合い、そして仲よく生きていくことです。
まわりにはたくさんの人がいます。でも、二十四時間ずっと一緒にいるのは自分だけ。
その自分を嫌うことなく大切にしてあげなくてはいけない。
悩みを抱えている自分もまた、いとおしく思うことです。
老いに不安を持ち、その先の死を想像するとき恐怖心から執着がうまれる。
執着とは物事に囚われることです。
囚われの原因は生老病死という生きる過程において避けることのできない問題です。
これは私たちの五官六根という、眼、耳、鼻、舌、身、プラス意識の六根のことで、この六根から囚われがつくられていきます。
この囚われを脱するには、自分を第三者の立場で客観的に観ることで徐々にできるようになるものです。
偏った考え方をしている自分に気づくことが大切だ。
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