愛と怒り

2020年3月7日

『愛 闇夜の月のごとく 憎しみ 稲妻の 木を裂くが如し』観童

仲良く、睦まじく、そして楽しくしていた男女がお互いを知り、何かしら自分の価値観とのギャップを感じ始めると心が通えなくなることはよくある。

「愛情」が一瞬にして「憎しみ」に変ったりするというが、それは何も大人だけではない。

老いも若きも年齢にかかわりなく愛もあれば怒りもある。

子供たちのあいだでも、友情から怒りに変貌することがあるし、憎しみにまで至る場合もあります。

何故そういうふうに変わってしまうのだろうか。

いろいろな意味で「愛」と「憎しみ」は隣り合わせといえる。

愛することと、憎むこととどっちが苦しいのか。

それは人によって、おかれた状況によって違いがあるでしょう。

「好き」なだけの状況なら楽しくいられ、「憎む」だけなら、簡単だという考え方もあります。

色々な感情を一度に持つのが人間というものなのでしょう。

「愛している」から「憎い」ということもいわれます。

自分が愛する分だけ、相手からも愛して欲しいという感情はごく当たり前の欲求かもしれません。

しかし、実際は必ずしもそうはいかないから、苦しいということもあります。

「あなたにこれをあげる」ということをいいながら「あなたは何もくれないの?」では、もらうことを期待しながらあげていたことになるわけで、こうなると、交換条件といえなくもない。

私がしてやったのに」、「俺が働いた金で生活できるだろうが」ではあまりにも寂しくないだろうか。

ここに苦しみの原因が生じてきます。

愛する人を憎む自分と葛藤しながら苦しみの渦中にいる人もいるでしょう。

憎しみの気持ちはないが嫌気がさしたり、悲しみのなかに悶々とする日々の人もいるでしょう。

自分の愛する人が自分の思い通りにいかないことに悶々としている人もいます。

夫に対して憎しみを持っていた人が、逆に夫から去られる結果になった人もいます。

妻が夫に対してもっていた感情はそのまま自分に返ってきたケースです。

また、まれには憎しみから愛を取り戻すこともあります。

これは、憎しみによってお互いが傷つき、苦しい思いをすることの愚かさに気づき、和解しあえた場合のみです。

こうしてみると、愛も憎しみも一つの心から生まれる働きという意味においては、裏表の関係であって、別物ではないということもいえるかもしれません。

「愛」は相手があって育むものという意味では時間がかかりますが、しかし、それとは反対に「憎しみ」は、一瞬の怒りという自我感情で起こりうるので、与える影響は計り知れないものがあります。

別れるものあり、悲しみの淵に沈むものあり、奈落の底に突き落とされるものありです。

愛が相手に受け入れられない時、その愛が憎しみに変わるといいますが、これはその愛のあり方にも原因があり、身勝手な押し付けの想いであってはならないと思うのです。

愛と思っても、自己都合による押し付けや欲求は、冷めることはあっても、相手からすれば心が安らぐことはない。

こうしてみると、争いや憎しみは個々の持つ愛の違いから発生するもので、厳密にいえば愛に行き違いがあってはならない。

そして、本当の愛は、このような行き違いを超えたところに信愛寛容として在るものでありたい。

日々、いろいろな事情をかかえてくる人たちと向き合っていくなかで、教わることがたくさんあります。

生きるには、老いてゆくこと、病をすること、避けられない死があることは承知のとおりです。

そのなかでびがあり、りもあり、しみがあり、しみがありです。

宮沢賢治さんがいいます。                                      『悲しみは力に、欲ばりは慈しみに、怒りは智慧に導かれるべし。』

この短い言葉には、私たち人間が社会のなかで生きていくにあたって、忘れてはならないもの、気づかなくてはならないもの、学んでいかなくてはならないもの、そういったとても大切な根本的なことを示しておられます。

2011年の震災で失われた2万人近い命は、生存できた人たちにとっても、また全国民の悲しみを誘ったが、悲しみで終わることなく、その悲しみを力にして生き抜こうと決心して深い絆がうまれました。

人間は平和で豊かなときには手に余るほどに欲張ってはいても、崖っぷちの瀬戸際までくると他を思い、手を差し伸べるものです。

そんな光景にみえるものは、正に、人間がいただいた本性であり、誰の心にもある慈しみそのものを感じて心が温かい。

半面、火事場の泥棒、ということばがありますが、残念ながら人の災難に乗じて盗みを働くような一部の人間はどこにでもいますが、本当に心貧しい者たちです。

心がこのような人たちも、いつかは慈しみ、愛の心を持てる時が来ることを願うしかない。

欲張りが慈しみに変わることを。

人間関係は、どんなに怒ってみても、憎しみを以ってしても、それで事態が好転することはないでしょう。

憎しみによってお互いが傷つく前に智慧をもって気づかなければならないと思うのです。

『許すこと』も愛であろうし、如何にすれば事態が好転するのか、理性と智慧を以ってすれば必ずや妙案も出てくるし、お互いが心地よく生きて働けて暮らせることになります。

怒りは破壊のエネルギーでしかないということをこれまで何度も述べてきました。

「愛」には様々な形態がありますが、最終的には「他者を受け入れて慈しむ」、「押し付けは愛ではない」、「赦し」ということだろうと思います。

大事なのは、このような他者への愛の投射によって、自らも愛で成立している存在であるということが確認できるということでしょう。

「憎しみ」は「怒り」と「攻撃」の感情です。
これも是非は別にして、本来の愛とは、あらゆる点で反対の作用をする感情だと思います。

なぜ憎しみがうまれるのだろうか。

ひとつは、憎しみは、自分に「愛」が注がれていないことに気づいたいた時に発生する感情でもあります。

「憎しみ」は他者を破壊する感情であって、自らの存在を維持する為の他者に対する防御的攻撃ということができます。

しかし、この憎しみは相手のみならず、自分をも破壊していることに気づかなくてはなりません。

憎しみが本能的感情であるのは明白でしょう。

「憎しみ」は自己保存に原点があります。

憎しみは互いに憎しみを呼び連鎖するものです。

結果的にわが身に返ってくるということです。

愛が憎しみを生ずるというのは、執着心にほかならず、自己愛を本質とするからではないだろうか。

人間の心のなかにある愛、そして憎しみという煩悩、それらは武器を持ってわたしたち自身に襲いかかってくるわけではない。

それなのに、私たちはそれらのものを制御できず、知らず知らずのうちにその虜となり、憎しみの召使いとなって煩悩の命ずるままに動かされています。

いったいなぜだろうか?

これが自我感情の姿であり、執着以外のなにものでもないからです。

心に執着という重いものを持っていると、冒頭に述べた、闇夜の月明りの如く、目立たず静かに足元を照らしてくれる月の光にさえ気づけなくなってしまう。

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。