人間と関わる霊

CA338478
「地縛霊・浮遊霊」
身体を病んでも、心を病んでも、人間、死への不安は誰にでもあり、その恐ろしさから肉体に未練と執着を持つ。
そうした肉体や地上生活への執念が強ければ強いほど、本来の心の自由を失い、地縛霊、浮遊霊などになって影響を及ぼし、この世の人間に不調和な現象を起こすのである。
例えば、日頃感情の起伏が激しい人は霊的な影響を受けると更にそれが顕著になり、心を乱して感情的になりやすいからとてもわかりやすいし、傲慢な心を持っている人が霊的な影響を受けると更にそれが顕著に言動となって表れやすい。
もう一つは、霊的に敏感な体質でありながら、そのことに気づいていない人の場合、身体や心に受けた霊的感受反応が単なる身体の不調や病気だと思って動揺したり、強い不安に襲われたり、恐怖心をもったりする人が多いものだ。
そういう人にその体質を教え、対処法を教えてやりますと、10のものが5になり、5のものが1になりというように霊的感受反応を楽にやり過ごせるようになってくる。
霊的な感受反応としての身体症状には、胸が息苦しくなる、背中が苦しくなる、肩が重くなる、頭痛がしてくる、動悸がする、何故か不安感が強くなる、訳もなく恐怖心が襲ってくる、イライラして自分ではなくなる、感情的になって怒りが抑えられない、不眠状態になる、憂鬱になる、等々がある。
さて、地縛霊は交通事故現場や、不慮の死を遂げた場所、自殺現場、戦死箇所、先祖伝来の土地への執念、不調和なものを祀ってある場所、動物の執念、神理を悟ることなくこの世を去って尚この地上に思いを残す執念の強い場所、などに生活していることがある。
その中には、死を自覚している者、自覚していない者が、生きている人間と同じように、俺の地所だ、俺の物だ、と執着を持ってそこにいる。
「さわらぬ神に祟りなし」
家を建てるために土地を購入した人がその土地を見てほしいと言ってきたことがあった。
出向いてその土地の真ん中に立って意識を静めてみた。すると心臓を強く揺さぶられた衝撃があった。
とても邪悪な霊波動がそこにはあったので先ずは土地を浄化してクリーンにすることにしたが、このままでは住めるような環境ではないと思えたがしかし、購入した本人にはいえなかった経験がある。
特に霊的に問題のある土地を使用するときには、たとえ目に見えなくとも、その土地の地縛霊に神理を教え、使用のことを伝えることが必要である。
地上で暮らす私達の都合で「この地所は私の土地だ」といったところで彼らには通用しない。
彼らは彼らなりに自分の物だと主張するからである。
そこで、彼らの住む正しい場所、あの世の教え、神理を説いてやることが必要になるというわけである。
鉄道事故現場、特に踏切の場合、同様な事故が良く起きるし、交差点事故などの場合も単に形状、構造上の問題だけではなく、それは現場に地縛霊として残っている浮かばれない霊が、似た環境や似た心の在り方を持っている人間に瞬間的に憑依することによって運転ミスによる事故を誘発させるからである。
彼らは肉体を去っていても死を自覚しない。
「慣性の法則」
「運動をしている物体は運動を続けようとし、停止している物体はその位置にとどまろうとする」これは自然科学の法則ですが、これと同様に、生前での状態と同じ意識を持ってこの世を去って行くため、生と死の間がはっきりとしないのだ。
突発事故で死亡した場合は、病死のように死を意識しながら徐々に体の機能が衰えていく場合と違い、しばらく意識がもどらない。
丁度、記憶喪失のような現象になる。
従って、死を自覚するまでには相当な時間がかかり、事故の状況を思い出すまでには大変である。
自分自身が死を自覚できるようになれば悟ることも早いが、地上生活と違って、あの世にに入るとこの世での潜在意識90%が逆に表面意識90%になり、この世での潜在意識90%だったものが逆にあの世に移動してからは10%になってしまうので過去(生前)の記憶蘇生がむずかしくなる。
生前の心が不調和なために、何事にも執着が強く地獄に落ちてしまうと、同類(同じ波長)の悪霊に邪魔されるため一層それが困難になるのである。
恨む心を持てば、その想念が現象化されて自らを苦しめる。
不調和な環境には、同じ心を持った霊が集まってくるため、たとえ生きている人間であろうとも地獄の霊が支配できる状態が整ってしまうと事故に見舞われる場合が少なくない。
彼ら心不調和な霊ほど自分のために地上人間に尽くす(供養)ことを促し、幾度かの事故を続けさせる場合もある。
小さな子供の事故の場合は両親の心の調和度、生活意識の在り方が反映されているために子供に事故が起きる現象というのは、両親の心の在り方、生活の在り方について反省を求めていることを予告していると解釈していいだろう。
子供の自己保存本能は、自我我欲というにはあまりにも純粋であるからである。
良く「魔がさした」というような言葉が示すように、私達の生活の内部には、心の針が、電流計や温度計、自動車のスピードメーターのように、善と悪、明と暗の間をフラフラと動いている。
悪の暗い想念にその心の針が指すとき、私達の心に魔がさすのである。
その故に、常に心の針を光の善の世界に指示するような生活が、人生の修行目的の一つとならねばならないだろう。
「金持は三代続かない」
こういう言葉も良く聞きます。
親、またその親というように肉体先祖は私たち人生を修行するための肉体の提供者であることはこれまでの投稿記事で何度も述べた通りですが、信仰的な立場からそれらを祀ることが現代における宗教的行事の一つになっている。
しかしそうした慣習的宗教的な考え方が、子孫に対する過保護となって財産や地位を残そうとする一因でもあります。
先祖の供養に囚われ、ほんとうの正しい供養の在り方も解らず、自己の欲望のために自己保存の人生を送ってしまう人が多いのである。
その結果、死者になっても、神理を悟っていないため財産や子孫に未練を持って成仏することができない。
家族の心に不調和な原因を残し、財産争いだの病気だのという問題を残すということになるのである。
財産というものは、自己のためのものでもなく、子孫のためでもなく、人生を学ぶための一時的な借り物でしかないということを私達は知らなくてはならないのだが、財産に固執するそうした執念が、旧家と称する家には多い。
先祖の成仏できていない悪霊の影響が多いため、慈悲と愛を失った冷たい環境を作りやすい条件になるということなのだろう。
従って、先祖の供養そのものが、形式宗教化してしまうのである。
ではどう対処するか。
生きている人間の心のあり方を正しく教え、即ち法に学ぶこと、これが先決である。
彼ら地獄の霊達もやがては、私たちのそういう行いを見ることによって自然に自分の非を悟って行く。
むずかしい哲学化した、ほとんどの人が理解できない経文をあげて解るような霊であるならば、すでに地上のことなどは心配せず、天上界で悠々と生活していることだろう。
生前に学んでいないお経など何らあの世の霊達のためにはならないのである。
地上のことに囚われ、心配をして自分が行くべき世界に行けないような霊は、いつまでも意識が浄化されないままの霊で、次元の低いところで右往左往しているのである。
両親を始めとする肉体先祖の供養は、子孫の、感謝報恩の実践によってなされるものと知るべきであって、読経や法事にあるのではない。
亡くなって数年が経っているのに、自分の死を自覚できず、いつも幼稚園児の孫と関わってきて会話をしているお爺さんがいたが、これなども生きて生活をしている者たちの都合を考えない代表的な未成仏な霊の事例である。
このように、地縛霊の多くは、未だ肉体を持って生きていると思っているものが多い。
病院やお寺などにも霊的現象が起きるのは、やはり今生に執念を持ち死の恐怖から抜け出すことのできない霊がさまよっているからである。
かなり古い話ですが、地縛霊の一例をあげよう。(この記事を読んで具合が悪いと感じたらとばしてください。)
1970年7月19日の朝日新聞東京版に、次のような記事がある。
「予代田区大手町一丁日一番一号に、千年前の首塚にまつわる怨霊伝説のため一等地が手つかずになってビル化をまぬがれている」猫の額ほどの空地でも、引く手あまたの丸の内怪談話である。
その事件の一。
1926年、関東大震災で灰になった大蔵省が、首塚も整地して仮庁舎を建てた。
間もなく、同省の役人の中に病人続出、一年ほどの間に当時の大蔵大臣を始めとして部長クラスの幹部十四人が相次いで死んだ。
「これは、武将、平将門公の塚を粗略にした祟り」と、塚の上の庁舎をとり壊し、1931年4月に盛大な鎮魂祭を行ない、省内の不安をとり除いた。
事件の二。1940年3月20日、同じ大蔵省本庁舎上に雨中突然の落雷があり、炎上した。
再び庁内に「慰霊祭をおろそかにした罰」という声が上がり、将門公没後千年、ということもあり、千年祭を挙行、河田烈大臣自ら筆をとり、故跡保存碑を建立したのであった。
事件の三。1945年暮、進駐してきたマッカーサー司令部が、荒れ果てていた首塚周辺を、モータープールにしようと着工した。
すると、整地作業中突然ブルドーザーが横転し、運転手と作業員の二人が下敷きとなり一人は即死、一人は重傷を負った。
古くからのいい伝えを知る近くの材木商、遠藤政造さんが司令部に行き、「あの塚は、日本の昔の大酋長の墓であるから是非つぶさないで残して欲しい」と陳情し、塚は残されたのである。
事件の四。1961年、モータープール撤収後の跡地、首塚の東側土地が日本長期信用銀行と、三井生命保険相互会社に払い下げられ、ビルエ事に着工した。
このとき、長銀の建った場所は塚の旧参道の上であった。
1963年年頃、塚に面した各階の部屋の行員が次々に発病、同行は「祟りなんてちょっと本気になれないが」と思いながらも、塚の管理者、神田明神の神官を呼び、盛大なお祓いをした。
その後も同行の塚に面した部屋で仕事をする行員の机などは、窓側に向くか、横向きである。「塚に尻を向けては……」という配慮であるとか。
この一連の事件は、同一の土地上に発生したものだが、祟り″なのか偶然なのか。
災いを受けた当事者や周囲の者も、大部分は「偶然に決まってますよ」という声が多いようだが、気味の悪い話ではある。
問題はこうしたことを、偶然と一笑に付すことが果たして科学的であるということであるかどうか。
原因がなくてこうした結果が生まれるものであるかどうか。
原因と結果は、相対的な関係を持つ循環の法則であるが、誰にも変えることのできない法則なのである。
私がこの記事を知って思ったことは、原因不明の現象が同じ場所で何度も起きるということ自体、執着の強い悪霊が、地縛霊となって災いを人々に与えていることにある、と思った。
地縛霊によって災いを与えられるというのは、当事者の心の在り方にも問題があるのだ。
真理を悟っていない、不調和な心を持っている人々は、同類の世界に通じてしまうため、心の安らぎを失い、彼ら(地縛霊)の暗い想念に覆われ自らを不幸に落としこんでしまうということである。
心を明るく、正しい想念と行為の生活をしている人々は、自らが調和の光によって覆われているため、罰を与えるような地縛霊に支配されるようなことは絶対にない。
あの世の霊の善悪もまた、私達地上人間の想念と行為によって定まってしまうということを悟らなくてはならない。
心は一念三千といって、その心の在り方によってどのような世界にも通じる。
苦悩も楽しみも、自分が作り出す原因によるものだと心得べきなのである。
平将門の怨霊にしてもそうだ。
千年も地獄に落ちているような霊では神仏の子とは言い難い。
本来、神仏の子としての人間であるならば、死後も必ず生前の自己反省をし、心に安らぎを生じ、神仏の子であることを悟り、その慈悲によって救われることになっているのだ。
人間は、地獄に堕ちても長くて二、三百年くらいで天上界に魂が進化して行くもので、千年も二千年も地獄で生活して悟れない者は、ほとんどいないのである。
この地上で修業をしている私達に魂の兄弟や守護、指導霊が常に協力しているように、地獄に堕ちている者達にも、あらゆる方法で神仏の子たることを悟らすために、魂の兄弟や守護、指導霊は常に援助を続けているのである。
件の話のような丸の内の場所にしても、そういった現象が起こるということは、地獄の霊や不調和な動物霊の暗い想念によってその一帯が覆われていることは否定しきれない。
しかし、人間に罰や災いを与えるような不調和な霊を、恐ろしいからと祀ってしまい、多くの人々に拝ますようにすることは間違いである。
多くの人は心の眼が閉じているため、そのような彼らの実態を知ることはむずかしい。
悪霊は人間を操り、人々の心に不調和を強い、社会を乱して行く。
彼らを善に変え、救ってやることは、祭りをすることではない。
その場所に住んでいる人々の心の在り方を正しく、中道に適った生活をし、平和な安らぎのある環境に変えることによってその地域に関わる人たちが悟り、またその場の霊達をも悟らせることができるのである。
特定な人によって経文をあげたからといって、不調和な彼らを救うことはできない。
経文や祝詞が心から解るような霊であるならば地獄に堕ちることもなく、人々の心に災いを与えるようなことは絶対しないことを私達は知らなくてはならない。
あの世の地獄の霊達は、人間の心の中を見ることができるため、宗教的な、形式的儀式で救うことは不可能なのである。
正しい法で語りかけ、心を諭し、私達自身がそのような生活をすることが最も重要なのだ。
信心とは、お経をあげたり、讃美歌を唱ったりというような偶像崇拝ではないことを知るべきである。
お経や讃美歌は心を調和し霊域を高めるための方法で、その中に記されている神理を実践することが最も重要なのである。
多くの人々は、眼に見えない霊的現象について判断を誤り、神だ、仏だといって拝んだり祀ったりしているうちに自分を失った狂信者、妄信者になってしまう。
その結果、信仰が長くなるほど自分の心を狭く小さく閉じこめてしまうことになる。
また罰が当たるなどと言われて脅迫に負けて自己保存的になり、いつか教団や拝み屋、あるいは霊能者、宗教的組織の奴隷となり果ててしまうのである。
神仏の無限の慈悲と愛の光を、自らの不調和な想念と行為によって遮断し、不幸な人生に追いこまれて行くのである。
暗い心は地縛霊や不調和な地獄霊に支配されて、事故、病気、家庭不和など、安らぎのない生活を送るようになってしまう。
これは、物質文明を因とする文明病ともいうべきである。
ただ幸いにも、すべての現象は、私達の心が造り出すことであり、その在り方によっては救い、救われ得るのである。
地縛霊に導通するような、不調和な想念と行為をしないことだ。
金銭や物質への強欲は悪霊の業であるから、そうした想いを捨て、貧しい者や老人や子供に、恵む心になるべきで、それこそが、菩薩心という、調和への第一歩といえるのである。
感謝の心を報恩として、実行した布施は、必ず己の心に光となって帰る。
あらゆる執念、欲望にこだわらなくなったとき、その人の心は光に満たされ周りの人たちにまで安らぎを与えるのである。
こういう話もある。
四ツ谷怪談の映画撮影や芝居をする場合、無事に映画を撮り終われるよう四ツ谷の稲荷神社にお参りをしないと、いろいろ不思議な事件が起きるという。
この現象も将門塚と同じに、供養ということで祀り、祈らせている。
本来、供養とは、死者に対する冥福を祈ることで、正法を説いてやることが必要である。
この地上界に思い残す執念を持っている者に対して、安らぎと平和の世界に行けるよう迷える魂を諭し、神理を自覚させることこそが最も重要な供養なのである。
ご利益を戴くための供養であってはならない。
祈る対象物は何であるか。
それは己の心の中の守護、指導霊、魂の兄弟、肉体先祖、両親、つまりは自分が生存できる万象万物、環境でにあり、感謝の心であり、行いである。
その己の心と神仏の心との中に安らぎの人生が見いだせるということなのである。
祈る心とは神仏の心と自分の心の対話であり、神仏に対する感謝の心であるのだ。
形式的な参詣ではなく、自分の心を偽らずに生活している者は自らがして調和の光りで満たされ神仏の光によって覆われる。
だから不調和なものに憑依されることはなくなるのである。
虚偽の生活体力の限界を越えた生活をしていると不調和な霊に憑依されて、原因不明と称する不調和な現象に見舞われることが多い。
心も体も調えて日々の生活をしなくてはならない。
しかし、自己反省によって己の中の原因を追及すれば、不明な原因を発見することはできる。
不調和な想像や恐怖心は捨てなければいけない。
なぜなら、恐怖心は、想念が作り出して現象化する能力によるからである。
たとえば怨霊の主人公を演じても、演技者の心が訓和されていれば、守護霊や指導霊に保護されているため怨霊に意識を支配されることはないということである。
心の眼を持たない人々が、ただ祀ってあるものを祈るということは、そういう意味で危険なことといえる。
祀られてあるものにしても、動物霊に支配されて祀られてあるものの名を騙って出てくる場合がある。
私達の多くはまだまだ未熟な蛇神(蛇)、稲荷神(狐霊)、などの動物霊や龍神(未熟な自然霊)に手を合わせて祈っている人々が多い。
この事実を知ったならば、むやみに不自然なものを拝むべきではないといえる。
人間の形成した偶像ではなく、永久不滅の己の魂なる心の世界を信じることである。
慈悲深い心の世界の神仏こそ、私達の父であり母なのであり、そして大宇宙の森羅万象を統べる意識、すなわちゴッドなのである。
アルコール中毒患者などには、地獄の霊が憑依している場合が多い。
酒好きな人は、通勤の帰途、仕事が終おったときなど赤提灯を見ればつい足が向く。
節度のあるうちはまだ良いが、しかし次第に量が増え、遂には酒に呑まれてしまう。
酔って家へ帰る頃には、その行動も解らぬようになる。
無意識の状態は、他の霊に肉体を支配されていることがあり、とんでもない失態を招く。
そうした憑依霊は、この地上界で肉体を持っていたとき、酒におぼれてこの世を去った者達で、彼らは未だにその生活に未練と執着を持ち、生きている同類の意識を支配して酒を飲ませてしまうのである。
自分の地獄における生活が苦しいから、地上界の人に憑依して、その苦しみから逃れようとしているのだ。
人間の心が不調和になるに従って、彼らの力は強くなり人々の心をむしばんで行く。
だから人間は中道に適った心を強く持って憑依霊の誘惑に打ち克たなくてはならない。
人には寛容で己自身にきびしくなることが大切なのである。
人間が正しい法を悟り、実生活に生かす心を持てば、憑依霊も救われることになるということを忘れてはならない。
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