魂の本当の姿
めぐみ さんのコメント: 2013年10月8日 9:35 PM(許可を頂き原文のまま掲載)
お便りさせていただきます。 最近ですが、こちらのサイトを知り拝見しております。 一つ一つの言葉のなかにとても深淵なものを感じさせる内容と思い、毎日読みいってしまいます。
原因は婦人科の病気をきっかけに友人に誘われるままに入信したものの、私の疑問が消えることもなく、悩みが増えるばかりです。
最初は教えを忠実に守り、毎日休むことなく勤行をしていました。
熱心に勤行をすれば病気が治ると教わったからです。
しかし、三年間真面目に勤行をしても事態は変化することはありませんでした。
幹部の方に、教えに関する質問をしても私の疑問が解決することもなく今日まできたところです。
人間の心というものは宗教によって変わるものでしょうか?
心の本当の姿はどういうものでしょうか。 精神どういうものはどういうものでしょうか。
勤行をすれば心が変わると教えられましたが全く変われませんでした。
むしろ入信前にはなかった不眠症がでてしまい、ひどくなってきております。
私を誘った友人は何故か私を避けるようになっています。 たぶん私が信仰に対する疑問を投げ掛けるようになったからだとおもいます。
教団仲間の陰口、批判、中傷を聞くにつけ、集会に行くことが嫌になっている自分です。
脱会したい旨を友人に伝えましてからは全く無視をされるようになり、とても苦しい思いをしています。
こんな状態の私が思うことは、信仰ってなんだろう?
心ってなんだろう? 精神ってなんだろう? 何故こんなに苦しい思いをするのだろうか?ということです。
こちらのサイトを拝読しまして心に響くものを感じましたので、是非お尋ねしたいと思いコメントさせていただきました。
不躾ではございますが何とぞ私の疑問を解決できるような言葉をいただけませんでしょうか。
宜しくお願い申し上げます。 めぐみ47歳、主婦
今回は、この方の問い合わせにお答えする内容で精神、魂、心ということについて述べていきたいと思います。
勤行(ごんぎょう)と称して読経をすれば心が変われる、それが救われることになるという、全く無知で低俗な教団や幹部の教えに翻弄される人々が多く、このような悩みを抱えて相談してくる人たちが後を絶たない。
信仰に対する疑問を投げかけることで避けるようになる友人は、宗教で心を学ぶことにすら気づいていない愚かな人間としか言わざるをえなく、そのような人は友人としてはいかがなものかと思います。
自分にとって都合がいいときは友達でいられるが、何かしら不都合が生じると疎遠になってしまう。これが人間の身勝手であり、ご都合主義の友人関係ということでしょう。
所詮、それまでの友人ということで割り切り、めぐみ様はご自分の人生を歩かれたらよいのです。今回のことはあなたにとっても大きな気づきの機会であったのです。
心が変わるということはどういうことを言うのだろうか。これまでの生き方をして心が苦しいから苦しみから解放されるために心を変えたい。
こう願っているならば、先ず、読経をやめて、普段の生活を見直すことから始めることをするべきです。
どこかに不自然な考え、片寄った行動がないだろうか。貴重な時間を勤行に費やし、生活を犠牲にし、ネガティブな気持ちになって悶々とした毎日を過ごす。
まことに愚かしいことです。
教団仲間の陰口、批判、中傷、めぐみ様はすでにお気づきのはずです。
矛盾の多い教義と実際行動の食い違い集団。早く退会されるべきと思います。あなたの心の徳にはなりません。自分の心を信じて行動する最も良い機会でしょう。
宗教にみる阿片作用 投稿日: 2013年9月19日
心が変われば病気も治る 投稿日: 2012年10月10日を参照されたい。
さて、きょうは精神、魂、心ということの真の意味について述べていきますが、心の本当の姿、すなわち実相というものは、正しき循環と秩序のもとにあるということを念頭に置いて以下を読み進んでいただければと思います。
魂も転生輪廻の法則にしたがい永遠に生きつづける不滅の生命だが、この法則をはずすと人間は混乱と苦悩を生んでしまいます。
人間が神の子、仏の子であるという説明は、これまで、いろいろな人が説いてきましたが、しかし、その内容は哲学であり、学問であり、先入の観念を、そのまま受けつぐ、といったものであったりして、分かりにくく、あまり実のないものが多かった。
そこで、こうした既成観念を白紙にして一度離れて、人間の心の正しい法則とは具体的にどういうものか、また、愛や慈しみの精神とはいったい、いかなるものをいうのか、人間がそれを知ったときには、どう生活の上に行っていくべきかを、まったく新しい視野のもとに述べておきたい。
それゆえに、既成の学問、観念とは内容的に非常に異なっておりますが、一字一句を吟味されれば、そのいわんとするところ、その真意については、きっとご理解いただけるものと思います。
そうした意味で、これを読まれる方々は、既成観念を白紙に戻し、その上で、ここに述べる内容を素直に検討していただきたいと願うものです。
精 神について
先ず、通常でいうところの精神とは、人の心、人格、潜在意識、表面意識、あるいは、その人の魂のようにいわれてはいますが、莫然としています。
ここでいう精神とは、宇宙の意識(神仏の精)、心、魂の三つを包括して、精神と呼びます。
そこで宇宙の意識についてまず説明しますと、それは、神仏そのもの、エネルギーそれ自体、慈悲と愛そのもの、ということになります。
人間は、誰しも、神仏の精を内臓し、自分自身の心をつくり、魂を形成しています。
神仏の精を受ける受け場、器が、各人の心です。心は各人の意識の中心をなしています。
つまり人間の中心は、エネルギーの補給を受けている、いうなれば意識の中心点です。
人間として生きている理由、受動的に生かされているものとの相違は、一切の事象を認知する能力、大宇宙と己との一体観、これです。
動物その他については、その能力を求めても、求められるものではありません。
ところが人間は自ら生きている生命体であり、人間以外の動物、植物、鉱物の場合は、地上世界の循環と調和のための媒体として存在しています。
神仏の精、エネルギーそのものがあればこそ万物の霊長として、人間それ自身を成立させているわけです。
そしてこの心こそが、神仏の命をうけて、それぞれの目的、使命を担っているところであり、心そのものは、エネルギーの受け場、慈悲と愛の織りなす光体そのものの場であり、私たちが日常生活において、心に問う、心にきく反省の相手は、意識の中心にあるところの、この心です。
心は器である以上、大きい、小さい、深浅の差があります。
その差というものは、その人の人格、能力とは関係ありません。
人間は神仏の前ではすべて平等、自由な心が与えられているのですが、心の大小は、その人の役目なり、使命が、それぞれちがうということです。
人体には、頭、胴、手、足があるように、人間それぞれにも、神仏との約束において担った役割があるのです。
太陽系にも、太陽が中心にあって九つの惑星、三十二の衛星が運動しているようにです。
地球には地球の使命、月には月の役目があり、地球が太陽になったり、月が地球になれないように、おのずと決められているのです。
国の社会でも、政治家、実業家、商人、学者、新聞記者、弁護士、技術者、農業従事者、会社員、サービス業など、それぞれの職業があって、一社会を構成しています。
これと同じです。しかし現実は、職業なり立場が、そのまま本人を表現しているとはいえません。
今の社会は物質社会で、金のある者、経済力の強い者が支配階級となっていて、人間の価値が金で計算されている傾向にあります。
人類に闘争が絶えないのも、力は正義とする唯物思想がはびこっているからであって、戦争、内乱、天災、社会不安、病気など、その原因をさぐると、すべて、こうした考え方、行動が根底にあります。
各人が、その心に目覚めたならば、太陽が東から西に没するように人体の各機能も、人間社会も、自然にノーマルな状態に復することが出来るのです。
各人の天命、人類の天命というものは、己の心を知ったときに、初めて達成されていくものです。
魂とは、心を含めて90%の潜在意識、想念帯、10%の表面意識の全体をいいます。
しかし魂は、心そのもの、あるいは90%の潜在意識が、想念帯や表面意識に強く働きかけている場合は立派な人格、立派な徳性となって表面に出、人びとの範となるのですが、心や潜在意識の弱い場合、あるいは心の働きのない場合は、いわゆる迷える魂といわれるようになってきます。
ですから魂そのものは、必ずしも、心を含めた全体とはいえない場合もあります。
下の図「魂」について説明します。
円周外側の紫部分が表面意識。その内側のブルー部分は想念帯。この想念帯は、表面意識と潜在意識の両意識につながる意識帯です。緑の部分から内側が潜在意識であり、黄色と赤の部分は心(潜在意識)の中心です。
ところで、精神は前述の通り、心はエネルギーそのものであり、そのエネルギーは波動になります。円の中心は心ですから、中心の波動は微細で、円周外に近くなるほど荒くなっていきます。
緑部分から赤部分中心までの90%の潜在意識であるこの層は、心に通ずる世界です。
それは、創造と自由と智慧、慈悲と愛に満ち満ちた、無限の宝庫、場所、泉、空間、器であります。
スピリチュアルな分野でいえば守護霊・指導霊の住む世界であり、それは各人に等しく内在する、心のふるさとでもあります。
各人の潜在意識は、それぞれ心に通じていますが、守護霊そのものは、ある一定の空間、場所を占めているので、その位置は、必ずしも一定ではありません。
たとえば、その守護霊の位置か、表面の想念帯に近くなるほど、霊界となり、逆に、中心の心に近づくほど、白光から黄金色の光が出てまいります。
心の放つ光は、各人のあの世における修行の度合いによって違ってきます。
しかし各人の努力、その一念力は、自分の守護霊を通じて、他の上段階にある知人、友人である指導霊の応援を求めることが出来ます。
その意味においては、自分の守護霊そのものの力が、かりに弱い場合でも悲観することはなく、自分自身が善なる想念のもとに行動をするならば、それに応じた協力が得られるということです。
真理……悟りは、その人の求める思念の量に比例するように仕組まれているからです。
心に問う、きく、ということは、普通は90%の潜在意識、つまり守護霊にきけ……、ということです。
潜在意識そのものは、光のエネルギーです。
各人の守護霊は、そうしたエネルギーの世界に住んでいますから、そのエネルギーを、創造、自由、智慧にかえることができるのです。
光のエネルギーは、万物を育む力を持っており、また万物の根源であり、同時に、この世にあるものは、あの世にもありますから、その人にとって真に必要なものであれば、守護霊の協力のもとに供給し得ることが可能になってきます。
天才児の才能は、90%の潜在意識の一部が、その子の大脳に働きかけるためにおきるものであって、その子が自覚できていなくても、守護霊があの世で学んだことをダイレクトに教えるために、本人が今世で学んだことのない、大学生でも解けないような高等数学を解くことができたりするのです。
しかし、その天才児が、増長慢となり、俺は偉いというような優越感や、おごる心に支配されますと、守護霊の働きはとまってしまいます。
これはなぜかといいますと、たとえば、電気を自由に流すためには、ゴムやベークライトでは電気は流れませんが、銅、アルミといった導体物質でなければなりません。
これと同様に、守護霊は光に包まれており、光の電磁的作用で、その者に教える(通信する)ので、それを受け入れる導体物質(表面意識)や想念帯が増長慢という不導体物質のベールに包まれると、光を通さなくなるからです。
人間の精神のエネルギーを受ける心に、慈悲と愛とは正反対の、人を見下す増長慢や怒りの想念があっては、光が通じなくなるのはあたりまえでしょうし、天才が一夜にして鈍才に変わるというのも、こうした理由によるものです。
次回は精神、魂、心のなかの想念について述べたいと思います。
※きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝いたします。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。
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