想念領域・(表面意識・潜在意識)
想念
前回に引き続き精神、魂、心ということに関連して、きょうは想念について述べていきます。少し長くなりますがおつきあいください。
上の図の紫と緑の中間に位置する領域のブルー層(想念領域)は、地上で生きている人間にとっては非常に重要な役割を果たしている働きのところです。
想念領域そのものも意識の一部であり、エネルギーから成り立っていますが、ここは潜在意識と表面意識がまざり合った世界で、この世とあの世に同通する混在した領域です。
ここには、各人の過去世、前世、あの世での生活の記録と、地上生活、つまり後天的経験のすべてが記録されております。
心を読むということは、この想念領域を把握するということであって、人間の魂には二十四時間無休の、経験と、記録の連続があるということです。
エネルギーにゆるやかな働きはあっても、休息はあり得ません。エネルギーの休息、それは死です。肉体的に死んでも、エネルギーは不滅ですから、無とはなり得ません。
肉体は死んでも魂は残りますから、死人の行く先、考え、行動がわかるのです。
ある人は想念停止をやって悟ったというように伝えられていますが、人間の意識の原理を知りますと、そんなことは、全くあり得ないことがわかります。
想念の停止ではなく、それは集中、もしくは統一状態のことを停止と、誤まった表現したのであろうと思われます。
想念領域は、過去世の記録と現世の経験の記録集積所でありますから、各人のこの世での運命は、ここで握られていることになります。
それは職業的に、経済的に、地位的に、いろいろな面にわたって大きな影響を与え、大筋で運命の流れが決まっているといえるでしょう。
そのようなことから想念領域が映画のフイルムとすれば、地上界での各人の生活様式は、そのフイルムから投映された映像の動きであるわけです。
これが四次元から三次元への投影という意味であって、心から物質への投影であります。
しかし、各人の運命には上限と下限とがあって、そのあいだを上がったり、下がったりして一生を送ります。
上限とはその人の運命の好調時、下限とは、最低時、一番苦しい時期です。
しかも、上限、下限のワクは、各人によって異なっています。
そのワクの外には出られません。
大抵の人は、下限と中間のあいだを、いったりきたりして、その一生を終わる場合が多いのです。
現在肉体を持っている心のステージが高い人の光波動の影響を受けて、物事の真実、道理を理解するようになりますと、下限に落ちることはなく、上限にまで、自分の運命が切り開かれてゆきます。
それは体の健康や、仕事の好転、良縁をいただく、などの結果となり実感するでしょう。
各人の想念領域は、潜在意識と表面意識の間に横たわり、層をなしていますが、その位置は、各人によって一定ではありません。
心のステージが高い人は想念帯が中心に近付き、心が曇って自我心の強い人は、円周の外側に限りなく近づきます。
上の図のように、人間の精神構造は、赤い中心部の宇宙界(高次元)から、緑とブルーの境界部、薄水色の幽界(この世とあの世の境界、低次元)まであります。
そして想念領域の位置は、各人の前世、過去世、あの世、現世での修行、心の調和度によって、決まってくるのですが、これは想念領域が中心に近ければ近いほど崇高なステージの想念を持ちえた人間といえます。
例えば、同じ心の問題の話を聴いても、これを理解できる人と、できない人がありますが、これは想念領域が中心に近いのか円周の外側に近いのかの位置がちがうからです。
中心に近い人の場合はその理解度は早く、逆の場合は遅い、分からない、ということになります。
しかし想念領域は本人の努力や心の調和度に応じて、90%の潜在意識の力が強まり、向上されてゆきます。
いずれにせよ、各人の教養、徳性、ものの見方、考え方、行動というものは、この想念領域に影響されるところがすこぶる大きく、それは、今世での知識、学問を超えたものです。
理由はなんであれ、インテリ学生の存在、あるいはその反対に、体育会系で学問にあまり身を入れなかった学生であっても、大企業の経営者として、立派にその勤めを果たしている多くの事実をみるとき、各人の想念領域の重要性というのが、よくよく理解出来ます。
実際に私の学生時代のクラスメートには、中学しか出ていないのに、今では社員数十名を雇用する建設会社を経営する社長として立派にやっている幼馴染がいる。
物事の判断力、価値観、善悪、正邪、善と偽善、物質と精神性のことに関する判断力は、学問だけではなく、想念領域からの影響がすこぶる大きいということです。
各人の心理状態もその大部分は、想念領域の影響をうけているといえます。
笑い、悲しみ、怒り、苦しみなど、人によってその感受性は異なります。
同じ冗談でも、ある人には笑いであり、ある人には悲しみになったり、怒りになる場合がしばしば見受けられますが、これは、10%の表面意識の作用もありますが、それ以上に、想念領域の振幅に本人自身が動かされているためなのです。
ですから、日頃から想念の在り方を心して学び実践していないと、想念のステージアップはできないものだということになります。
今日の心理学は、この想念領域の振幅の研究といっても過言ではありません。
もっとも、心理学も進み、深層心理から、超心理学までありますが、これらは、さきほどの90%の潜在意識の領域に多少入り、予知、予言、透視などのさまざまな研究がなされつつあります。
この意味では心理学も相当進んではきたといえるでしょうが、しかし潜在意識の領域は、それを研究するその人の魂、つまり、想念領域、表面意識を含めた全人格が、相当シッカリしていませんと、その研究成果は期待できるものとはならないでしょう。
また、この領域は非常に危険度が高いことも知っておかなければなりません。
潜在意識層は、次元の異なる世界ですし、あの世の生物(未浄化霊、邪悪霊)が暗躍していますから、予知、予言、透視が、仮に、100%当たったとしても、それを当てた人間と背後にいる存在が本物であるかどうかはわかりません。
ここでいう本物かどうかというのは、自分の本当の潜在意識からの働きであるかどうかという意味です。
興味本位、当てもの主義、名誉欲があって研究しますと、未浄化な霊や邪悪な霊を呼びこみ、精神病院に送られることにもなるからである。
真に科学者として己自身が無欲となり、人類のために役立たせることにあるならば、その研究は、たしかに実を結ぶことになるでしょう。
上の図の紫色の10%の表面意識、ここは五官意識の世界です。
すなわち、眼、耳、鼻、舌、身、そして、これから判断の基点となるところの各人の意識、自我があります。
ここは日々の生活、行動の場で、ここでの知識、経験、想いが、想念領域に記録されてゆくのですが、それだけに、五官による判断、意識は自我心があってはならないのです。
眼で見て美しいと感じ、想い、そして行動に移すとき、私たちは、表面意識の作用をうけています。
耳よりな話に心を動かし、体にふれるものに敏感なのも、表面意識の作用です。
ともかく表面意識は外見に敏感で、形の世界にとらわれます。
そうして、人より偉くなりたい。金が欲しい。美しい人を側におきたい。うまいものを食べたい。楽しいことをしたい。美しい着物を着たい、見せたい、といった意の働きが強く出てきます。
しかし、各人の表面意識の作用は、五官、六根がそのままストレートに現れるかというとそうではなく、想念領域の意識が、理性というブレーキをかけたり、促したりするので、その行動はそれぞれ異なってきます。
ですから五官、六根のうえでは、誰しも同じように感じても、考え、行動となると、みな違ってきます。
人間の苦の原因が、すべて、人間の五官、六根にあるというのも、私たちが、この表面意識の作用に、左右されてしまうところにあります。
通常、大脳の働きは、表面意識と想念領域が、その主役を演じています。
大脳そのものは単なるコンピューターであり、その電子計算機は、表面意識と想念領域が指令しているわけですが、本当はこの二つの意識は、指令室ではなく、指令所は、その奥の潜在意識でなくてはなりません。
ところが、想念領域の層は、非常に厚く、堅いために、人はなかなか指令所の指令をうけることが出来ません。
つまり、中心の神性仏性の部位からの働き、指令を想念領域や表面意識に反映できないのです。
同時にこの二つの層(表面意識、想念領域)は、各人の生活経験の上に成り立っていますから、各人それぞれ異なり、問題の多いところともいえます。
いちばん大事なことは、私たちの日常生活は普通五官六根に頼り、想念帯を含めた表面意識が毎日の生活の主力をなしていますから、これから少しでも脱皮するためには、潜在意識の声をきこうとする反省と習慣が必要です。
反省は人間の持つ特権であり、人間再確認の、人間だけが与えられた機会であり、想念の働きです。
ですから、反省こそ、我ら人間の人間たるゆえんであり、精神向上に欠くことの出来ない、一大要素であるといえます。
地上世界に肉体を持っている光の天使としての地上における目的は、人々の心の調和と、ユートピアの建設にあります。
神と人間を切り離すこれまでの唯物的ご利益祈願、偶像崇拝思想では、こうした目的に異和感が伴いますが、けれども神と人間を切り離したところに、人間の迷信があったのです。
人間は神仏の子である以上、神仏の心に帰らなければなりません。すなわち自然の営みに人類の生き方を学び、原点に帰る。それは人間自身の責任であるからです。
神仏の子である人間が、なぜ動物のようになり下がったか。
それは長い地上での生活にふり回された結果です。
オギャーとこの世に出た途端、人間はあの世での生活を忘れます。
忘れる理由は、前世、過去世のおさらい、償い、そうして、あの世での生活の経験を、どう生かせるかの心の修行があるからです。
覚えていては、その修行の目的は、なかば失われます。過去を知ることは必ずしも必要ではありません。むしろ過去世を知る必要などありません。
試験にカンニングはいけないようにです・・・・。
ではなぜこのような仕組みがあるかといえば、それは長い人間の歴史、転生輪廻の過程に重ねた諸々の罪業、これの清算のためです。
人間の歴史は、霊的視点からいいますと今から約二億年前にさかのぼると推測されます。
地上人類の当初の人々の年令は百歳を優に超え、健康で病が今よりはるかに少なく、年もとらずに、意識は常にあの世とこの世を自由に、行ったり来たりしたと理解しています。
その当時は、人間は心が調和されており、罪業というものはありません。
結婚して子供が出来ても、その子はあの世の生活を知ていたようです。
ところが子孫が子を生むようになり、長い歴史とともに地上の生活になれた人類は、次第にあの世との交通が途絶え、五官、六根にふり回されるようになったのです。
つまり罪をつくりはじめた。
罪をつくれば、当然、その罪のつぐないをしなければなりません。
まいた種を刈り取ることは、自然の法則だからです。
本来、人間は神仏の子であり、自然の法則にそって、生きるように出来ているからです。
それは、罪業を犯せば人間の心は苦悩するように仕組まれたものだということです。
かくして、人間は、あの世からこの世に、生まれ出るときに、あの世の生活、前世、過去世を忘れるようになったのである。
1・つまり己自身の修行が目的となったのです。
修行とは、心の調和、神仏の心に帰る行いです。
かといって宗教の世界に身を投じる必要はどこにもなく、「足ることを知る、不満愚痴のない生活、怒りの心を持たない」というこの三つの生き方さえ実践できるなら、人間としての心は無限に昇華されていくだろう。
2・同時に、二億年前の地上人類誕生のときの平和と、地上に降りたったその目的を果たすためでもあるわけなのです。
この目的、これが人間の使命であり、責任であるわけです。
人類にこの二つの目的を自覚させ、果たさせるために、歴代の光の天使がこの世にあらわれたのです。それは神仏の命によって……。
光の天使は、宇宙の原理、人間の在り方。慈悲と愛の神理を説くために……。
人間が小宇宙であることの自覚、小宇宙であればこそ、大宇宙と一体となり、一切の事実を認知できるのです。
それは心という一点で大宇宙と結ばれているからです。
心を通じて、小宇宙と大宇宙は、通い合えるのです。
人びとは神仏の子であり、宇宙は神仏そのものといえましょう。
地上世界における光の天使は、人々の心の眼をひらかせる役目を担っています。
地上における光の天使たちは、仏教が哲学となり、学問となったその誤りを是正し、二千五百有余年前に説かれた釈迦の正法、心の神理を、ふたたび地上によみがえらせるために努力されているのである。
愛と慈悲の伝道者として。
ところが人々の心は、転生輪廻という長い歴史の過程に、諸々の想念、諸々の罪を重ねてきました。
想念領域というカラの中に、各人の心は、埋没してしまったのです。
そのために、普通では90%の潜在意識は、特殊な人でなければ開けないといったありさまとなったのです。
開けても、動物霊や地獄霊の支配をうけるのがオチです。
いわんや守護霊の声をきくことはまず不可能に近く困難を極めます。
そういう状況に落ちこんでいるのが現代人です。
しかし真に心を説く者は光の伝達者であり、各人の心の光明をひき出し、想念領域、表面意識に働きかけることを担っているので、正しく指導をいただくことで、想念領域が浄化され心の窓がひらかれるのです。
それは、各人の表面意識が、調和された者の話を聴聞することによって、あるいは文章を理解し実践することによって、想念領域の奥にいる守護霊が、その人の想念帯の浄化と表面意識に働きかけるからです。
各人が、調和された者の話を聴き、気分が楽になった、気持がセイセイした、正しい生き方を実践しよう、という自覚は、想念領域の奥にいる守護霊のこうした作用があるからです。
もっとも、ここで間違えては困ることは、各人の想念領域と表面意識は、よいにつけ、悪いにつけ、それは各人白身のものであり、そうした意識をムリに変えさせることはできない。
各人の意識は、各人の意識であり、その自由、その意思は、与えられたものであり、各人が所有するものですから、これは神仏といえども、自由にはならないのです。
それだけの特権を、人間各自が持っています。
従って、各人の守護霊も、各人の表面意識、想念領域が、これを迎え入れる自覚が出てこない限り、自由にはならないし、表面意識に顔を出すことさえ出来ないのです。
また反対に、表面意識や想念領域が、守護霊を迎え入れたいと願っても、その人の環境や、意識の調和度、その他、諸々の事情で出られぬこともあります。
従って一概に、霊能力がある、そのこと自体に対して評価はできません。
霊能力があるから、あの人は凄いとか、素晴らしい人だとか、調和されている、いないということ、心のステージが高いとはいえないのです。
霊能力はなくても、その能力が開いていなくとも、意識の高い人もありますし、逆に霊能力は開いてはいるが、意識の低い人もいるのです。
霊能力そのものは、いろいろな諸事情が加味されて開くものだからです。
肉体行をおこなって霊道を開く人もいますが、これはかなり危険でリスクを伴います。
本来は、心の修養を行っているなかで、人間としての生き方を自然のものにするなかで霊道が開くことが成道といえましょう。
いずれにしても、宇宙の法則、真理を悟った、私心のない者の話を聴聞することによって、想念帯をおおっていた各人のこれまでの考え方、想念、教養、徳性に変化が起こり、既成観念に各種の疑問が湧いてきます。
そうした疑問は、やがて、回を重ねるにしたがって、だんだん、永解されてゆきます。
しかし疑問そのものは、各人それぞれ異なり、次第に高次元化されてゆく人もあります。
疑問の連続、そしてその回答の積み重ねは、やがて、中心の心に通じます。
疑問は調和された者の話を聴聞することによって生じ、あるいはその文字によって生じ、自ら行ずることによって、事実と理論の一致という解答で裏づけられてゆくものです。
ですから疑問と行動は、たえず表裏一体となっていることが理想であり、悟りへの早道といえます。
ここで注意したいことは、疑問の解答が事実となって現れる場合と、そうでない場合がありますが、それは守護霊がその人の意識を麿くためである場合があります。
その人に必要なときは直接的に、そうでないときは間接的に解答を出すからです。
たとえば、ある人が真理の話を聴きます。その真理を聴く時期が、その人の人生、これからの一生にとって大事な運命の岐路に立っている場合は、その解答は直接的になります。
つまり、砂に水が吸いこまれる如くズバリ、ズバリと理解でき吸収されていきます。
そうして、その人をして、真理の神理たるゆえんを教えてゆきます。
間接の場合は、ある程度、その真理もわかり、昔のように、五官や六根に左右されないとみれば、今度は手をかえ、品をかえ、より高次の疑問を提示し、その解答を、自らの意識で悟るように仕向けるのです。
こうした場合は、疑問に対する解答は、容易に解けません。解けても違っています。
守護霊は、あの世とこの世をみており、各人の生活を四六時中見守っていますから、その人の意識の状態、魂の状態いかんで、いろいろ指導します。
そのヤリ方は各人各様であり、一概にはいえません。
正しく霊道が開いたということは、内からの光が外に出たことを意味します。
霊的能力が開花している人の場合は決して良いことばかりではなく短所もあります。
それは表面意識の作用と想念帯の振動で、本人に欲が生じ、威張ったり、おごる気持や、金儲けの手段に使いますと、危険なものとなるからです。
守護霊は光を体とした、慈悲と愛が身上であり、威張ったり、おごる気持とは、体質的に波長が合わないからです。
潜在意識のところで触れたように、それは電磁的作用で守護霊はその人の意識に働きかけますから、おごる気持は守護霊の働く場を失います。
つまり守護霊はその人についてゆけず離れます。
ところが、一度開いた想念領域の一部は開いたままでいますから、動物霊や、邪悪な霊がが入ってくるのです。
具体的には、おごる気持は、こうした動物霊や邪悪な霊と同通するのです。
従って、その人の意識が、これらを引き込むわけです。
類は類をもって集まる。動物霊や邪悪な霊に、毒気を吹きかけられ、守護霊でもこうした場合、波長が合わずに手がつけられぬことがしばしばあるのです。
ですから、霊的な能力を開花させた人、あるいは生まれながらにして備わった人は、普通の人よりも、正しい法を常に行じてゆくように、心掛けることが大切です。
各人は、それぞれ、主体性を持った人間、自由と権能と、創造を託された人間です。
そしてその意思に対しては、神仏といえども、動かすことができないのです。
太陽は地上に無限の光を与えています。しかしそれを受け入れる人間の側が、これに感謝し、これを善用するか、あるいは当然として悪用するかは、各人に任されているのと同じです。
この点を各自がしっかりと肝に銘じておきませんと、大変なことになります。
これは、霊的能力者の基本ですが、同事に正しい法を行ずる者の態度でなければなりません。
霊的能力そのものは、悟りへの一過程にすぎず、悟りとはほど遠いものです。
それなのに鬼の首でも取ったように、有頂天になりますと、とんだ間違いをしでかし、犯罪にまで発展する場合もあります。
よくよく気をつけなければならないところです。ともかく霊能というものには、このような短所があり、長所ばかりではないということも知らなくてはなりません。
ところで、人々が霊的能力に求めるその動機とはなんでしょうか。
ひと言でいえば、安心した生活。それは肉体的にも、精神的にもということになりましょう。
通常、心の調和であるとか、自己啓発とか、人類の平和とか、ということよりも、目先の利害にとらわれるのが常です。
問題が発生すればその解決を、事業を持つ者は事業がうまくゆくように、病床にある者はその快復を、と。
それは職業的にも、経済的にも、健康的にも、恵まれてこそ、正しい生き方の法則が信じられるわけです。
安心した生活は、こうした現象的な利益につながってこそ、得られるものでしょう。
正しい生き方の法則というものは、こうした現象的利益と、一致するように出来ているのです。
正しい生き方の法則とは循環の法則であり、慈悲と愛という幸せを与えてくれるものだからです。
循環とは、すべてが、めぐり、めぐってくるということです。
心も、肉体も、エネルギーの集合体であり、宇宙も空間もエネルギーから出来ています。
テレビのチャンネルを回すと、いろいろな画面が映ってきますが、電波は目には見えません、エネルギーを母体として、空間に生きているからです。
人間の想念行為も、これと同様に、感謝の想いは感謝として、正しき行為は、それに応じた報奨として、本人にかえってくるものです。
ですから正しい生き方の法則そのものは、現象利益にも通ずるということです。
すべてのものは、円運動を描いて循環しています。
円である以上、360度回転すれば、再びもとの位置に返ってくるのです。
太陽はまるく、地球も円形です。他の星々も、すべて円形です。四角や三角はありません。
地球は太陽の回りを、円を描きながらまわっています。
宇宙は、正しい循環の法則そのままの姿で素直に動いているのです。
人間の精神構造も、図に表せば、円になってしまうのです。
原子の世界も原子核を中心に、そのまわりを陰外電子が、グルグル回っています。
こうみてきますと、小は原子から、大は宇宙まで、すべてが、正しい調和と循環の法則に照らして、円運動を描いているわけです。
生命というものは、すべて円運動を描きながら動いているのです。
どれひとつが欠けても、生命体として維持されることはできないのです。
ですから、人間の生命が、肉体が、円滑に、円運動を描いてゆくためには、各人が、正しい循環の法則に照らした生き方が必要になってくるのです。
人間は小宇宙であり、各人には、自由と創造、意思が与えられていますから、その想念、行為は、各人の自由にまかせられています。
それだけに、正しい循環の法則に反すれば、病気や、事業不振、さまざまな悩みを抱くようになるのです。
正しい生き方とは、自然界に学ぶ法則であり、法はまた、慈悲と愛であります。
太陽が法則通り、熱、光を地上に惜しみなく与えてくれるから、地上での生活が可能なのですあり、喜びがあるのです。
これが慈悲でなくてなんなのでしょうか。
太陽は無言のうちに、私たちに、その生き方を教えています。
すなわち、正しい法則を理解し、慈悲と愛に生きよと。
地上に肉体をもった光の天使は、その正しい生き方という法則の存在を、盲目となった人びとに、明らかにしているのです。
現象利益も、正しい生き方の法則を理解し、実行するならば、自然に与えられることを教えています。
ですから、足ることを知った現象利益、大いに結構なのです。
正しい法則に沿った生き方、つまり、慈悲と愛のみ、そこまでゆかなくとも、私たちの日常生活のすべてが、正しい循環の法則から外れないような生き方が行じられるようにしたいものです。
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。
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