心の原点・永遠の旅路と死生観

坐禅2014年の年頭にあたり、また人生を考えるにあたって、先ずは、昨年度2013年の大きな出来事を少し振り返って記載してみたい。

2020年夏季五輪・パラリンピックの開催地が東京に決定

昨年は国際オリンピック委員会(IOC)総会が9月7日、ブエノスアイレスで開かれ、IOC委員による投票で、2020年の夏季五輪・パラリンピックの開催都市に東京が選ばれた。

富士山が世界文化遺産に決定

また、カンボジア・プノンペンで開かれた国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は昨年6月22日、日本が推薦していた「富士山」(山梨県、静岡県)を世界文化遺産に登録することを決めた。

参院選で自民、公明両党が過半数獲得、ねじれ解消

政治では、第23回参院選は昨年の7月21日に投開票が行われ、自民党は、改選定数1の1人区で圧勝するなど改選定数(121議席)のうち、65議席を獲得した。

その結果、自民、公明両党は非改選分を含めて参院の過半数を確保し、参院で与党が少数の「ねじれ国会」は解消することになった。

安倍首相にとっては過半数を獲得したという意味において、安定した政権運営ができる基盤を得たことになる。

楽天が初の日本一

野球界では、プロ野球の楽天が、11月3日の日本シリーズ第7戦で巨人を3―0で破って対戦成績を4勝3敗とし、球団創設9シーズン目で初の日本一を達成した。

東日本大震災が発生した2011年のシーズンからチームの指揮を執ってきた星野仙一監督は、就任3年目でチームを日本一に導いた。最高殊勲選手賞(MVP)には楽天から美馬学投手が選ばれた。

そして、仙台市を本拠地とする楽天の日本一は、震災の被災地のファンを勇気づけた。

伊豆大島で土石流災害、死者35人

一方、大型で強い台風26号に伴う記録的な豪雨により、伊豆大島(東京都大島町)で10月16日、大規模な土石流が発生した。土石流は集落を襲い、35人が死亡し、4人が行方不明となる惨事となった。

ホテルなどで食材偽装の発覚相次ぐ

全国で食材の虚偽表示が次々と発覚した。「阪急阪神ホテルズ」(本社・大阪市)が10月22日、運営するホテルのレストランなどでメニュー表示と異なる食材を使った料理を提供していたことを発表。

それを契機に、全国のホテル、大手百貨店のテナントのレストランなどで同様の食材偽装が明らかになった。バナメイエビを「芝海老」、普通のネギを「九条ねぎ」、豪州産牛肉の成形肉を「和牛」などと表示しており、食材表示への消費者の信頼を大きく損なった。

猛烈な台風がフィリピン直撃、死者・行方不明者約8000人

猛烈な台風30号が11月8日、フィリピン中部を直撃し、約1600万人が被災した。

同国政府の発表(21日現在)によると、死者は6102人、行方不明者は1779人と、同国で過去最大級の自然災害となった。

12月上旬は死者と行方不明者合わせて約7000人だったが、捜索の進展で増えた。

台風の最大瞬間風速は秒速105メートルで、沿岸地域を高潮が襲い、レイテ島タクロバン市などで壊滅的な被害が出た。

中国で大気汚染による濃霧が過去50年で最多と判明

中国の1月~10月の微小粒子状物質(PM2・5)を含む「濃霧」の発生日数が過去50年で最多となった。

中国気象局が11月1日、発表した。越境汚染が懸念され、日中韓は今年3月、PM2・5を巡る政策対話を北京で実施することを決めた。

世の移り変わりというものを客観的にみていただくために、敢えてこのように日本国内のニュースと世界の主だったニュースをほんの少しだけ述べてみましたが、それでは本題に入りましょう。

真の喜び

さて、社会も、私たち普段の生活も表面的には一見安定しているかのようにみえるが、実は上に記述したニュースのように、いつ何が起こるか予測できないことが多く、一寸先は闇であり、不安定そのものということが理解できると思います。

もっと厳密にいうならば、私たち個人個人においても同じことがいえるのであって、死と隣り合わせに生活しています。

ですから死生観ということを是非一度真剣に考えてみていただきたい。

肉体をいただきこの地上に生まれた以上、誰もが死をさけられないのだが、それにもかかわらず人びとは目前の生活に追われ、不必要なことに心を乱し、肉体五官中心の毎日を送っている。

何も人間に備わった感情を捨てろということではありません。

テレビドラマや映画においては喜怒哀楽というものが欠かせない人生劇場の条件でしょうが、しかし、人がそうした喜怒哀楽まかせの生活を続けるかぎり、人生の真の喜びを知ることはできないであろう。

そうすると本当の意味での心の平和はこない。

感情に偏って悲しみ、怒り、恨み、妬んではいけないということだ。

それでは本当に心の平和はこないのだろうか。

決してそんなことはない。

人間が本当に心の平和を望むならば、物にほんろうされず、肉体五官中心の生活にピリオドを打ち、自分の内にある、決して偏りのない、エゴ(自我)から離脱したバランスの取れた、感情的でない心の尺度にしたがって物事を判断し行動することである。

なぜなら、肉体に囚われた五官六根中心の生活、生き方からは、私たちの心の安らぎは、決して生まれるものではないからである。

ここで五官六根の意味について今一度、説明をしておきましょう。

人間が持って生まれた肉体感覚としての御存知のように、眼、耳、鼻、舌、身(全身)です。

見るもの、聞くもの、匂い、味覚に加え、寒暖、痛、快などの皮膚感覚に執着し、そこに意識が加わり六根となります。

したがって、自我(業、エゴ)とは、私たち人間の想念と行為による執着がつくりだしたものといえるでしょう。

この想念とは、表面意識と潜在意識の中間に位置して両面に同通する意識帯のことです。

それだけにこの想念を、五官という表面意識で曇らせると、潜在意識の部分まで汚してカルマを重ねてしまうことになる。

厳密にいうと、過去世におけるカルマを解消できず、逆に魂の芯の部分、つまり潜在意識(中心)にまで上塗りして生まれ変わっている人間は多い。

業想念

このようなことが何故起こってくるのかとなると、それは業想念によるものである。

お金は絶対であり、豊かさはお金次第だ、命の次に大事なもの、地位が高ければお金も入るし人々から尊敬される、汗水流してまで働くのはバカバカしくて割に合わない、人生は面白おかしく過ごした方が得だ・・・・・・・といったようににです。

こうなると業想念は、やがて業をつくってゆき、さらにその汚れた業想念を重ねてゆき、死んであの世に行って大変厳しい苦労をし、魂の修正が未熟なままで再び来世に生まれても、その業に引きずられる要因を強く持ち越すことになり、地上の人生においても新たな業を生みだしてゆきます。

もうこうなると、この世での人生が良きものとなりようがなく、苦難の人生となるのである。

しかし、決して諦めてはならず、自らの努力で試練を超えていかなくては業の解消は叶わないのだ。

業にしても、業想念にしても、私たちは大なり小なりその影響を受けながら生活をしており、そのため自分の都合の悪いときには、とっさに悪い癖が出やすくなるのです。

人間はこのようにして生まれ変わり、即ち、輪廻転生しているというのが現実である。

しかし、業に引かれてはならない。

分を律することができるのは他人でもなく、神でもなく、仏でもなく、依存した他力信仰でもなく、己自身であることを悟らなくてはならないだろう。

に掲載した円のイラストのから水色の部分が想念帯で、の部分が表面意識、から内輪の黄色が潜在意識である。

自我という言葉は悪業を表した代名詞のような言葉と受け取られがちですが、善も業を重ねる種となる場合があることを知っておかなければならない。

例えば、子どもに対して『ああしてはいけない、こうしなさい、ダメよ、いつまでそんなことしてるのよ、受験を控えているでしょ』というような押し付けや、否定の言葉、実は、こういった子どものためとはいえ、親の価値観という都合による善への執着も業をつくります。

相談者のなかに、夫への愚痴、不満、怒りを毎回のように話す奥さんがいた。

しかし、私がこの家族を客観的にみるに、ご主人も逃げている点はあるのだがしかし、この奥さんはいつも自分が正しく、ご主人は間違っていると裁く、という考えを変えようとしない心の闇、エゴという闇の帝王が巣食っているのがよくみえるのである

他を批判し、感情に先走った言動は自他を苦しくさせ追い詰めてしまうことに気づかなくてはなりません。

自分の心の苦しみは他を赦すことなくして解放されることはないのである。

「それは解っています。」と言いながら相手を許せないのは何故か。

これこそが自我であり、執着というものの実態であると同時に、その背景には自分自身が過去世において解消できなかったカルマ(業)に引かれて今世においても再び、理性も知性も見失っているということである。

真の意味での正しい人間は、他を裁くということはしないものです。

人間、善に囚われると心も言葉も四角四面になって角が立ってきます。

善への執着も円満を欠くのである。

心(魂)は丸くなければいけません。

心が三角や四角ではこまるのです。心の光

要するに自我(業、エゴ)は五官六根に基づく執着の想念が作り出した、汚れた黒い想念であり、囚われた心、これを自我(業、エゴ)というのです。

こうしてみると、善にしろ、悪にしろ、心や行動に業をつくってゆきますと、それにまた心が引き回されて、「良くない」、「悪い」と知りつつ悪を重ねてしまう。

あるいは、人の意見が正しいと思っても、その意見にあえて逆らい、素直になれず、逆の方向に自分を持って行ってしまいます。

そこにあるものは、奇癖、頑固、優柔不断、驕り、傲慢、虚栄心、見栄、でありこれらはみな自我心(業、エゴ)の作用によるものです。

業想念というものは、地上生活の中で相対的観念に自分の意識、魂が振り回されている状態をいいます。

この相対的観念とは、他の言動を見ることで判断したり、行動する、自分と他を比較して物事を判断する、他と他を比較して物事を判断することをいうのです。

こういった判断には本来の自分、即ち、一個性としての自分、本来備わってるはずの思いやりのある心、慈愛のある心、決して右にも左にも片寄ることのない調和された心から判断する言動は失われているのである。

残念ながら、表面的な教育や説法ではもはや神性仏性を内在した人間としての己を知ることはできないだろう。

悩み苦しんでいる人たちと語り合っているとき、いつも思うこと。

人間は悩み苦しんだときにこそ心の安らぎを求めるのだが、それには五官に翻弄されない生き方、すなわち、奥深い心の内面から正す以外に道はないと。

「人は褒めて育てろ」とは言いますが、表面的な慰めや激励で解決するようなこととは異なるのが自我心の修正なのだ。

底深き 奈落の淵におちて 今もなお

己のよこしまなるに 気づけぬ愚人

心あるもの

道に目覚め

安らかなり

諸行無常

ここまで述べてきたように、私たちは通常は肉体五官の範囲内で生活しています。

しかし、私たちが気づかないだけで、実はもっと広い五官以外の、感覚次元を異にした世界に包まれ、その中にいるのである。

一般的には4次元ともいわれている世界のことだ。

肉眼で見える範囲はきわめて狭く、限られて、物質的次元であり、その物質は、時間、年月と共に変化し、とどまることなく循環し、きわめて不安定である。

諸行無常という言葉がそれを示している。

であることは何もないという意味です。

生命の本質

私たちの肉体を科学的に説明するならば、エネルギー粒子によって支えられているということになるが、そのエネルギー粒子を目で見ることはできない。

当然である。エネルギーは運動能力を示した言葉であって肉眼でみられることではない。

人間の肉体も見えないエネルギーによって支えられていている。

形あるものはいつかは崩れる。

形あるものは、形のない光の粒子によってつくられ、そうして絶えず新陳代謝をくり返しているのだ。

この成りたちは肉体だけのことについてだけ言えることではなく、心の世界、魂の在り方もこれと同じで、私たちの生命の本質は、永遠の旅路をつづけている。

何故、永遠の旅路を続けるのか、それは私たち個人の魂の調和と、人類の調和、そして地球の調和、宇宙の調和という目標に向かってであろう。

時折耳にする言葉ですが、「心ある人」、「心ない人」とという言葉があるように、心は見えないが、誰も自分に心が無いと否定する人はいません。

心や魂については、普通は見ることも触れることもできないが、しかし、実際に普段の生活の中で考え、行動している出発点は他でもない心(魂)である。

その心(魂)は五体が朽ちれば、次元を異にした世界で生活するのです。

心とはほかでもない「魂」のことだ。

私のわずか64年の人生経験から述べる言葉ですが、この事実は曲げられない。

私のような者でも気づいたのですから、私たちが心の世界、魂の存在を認識したとき、五官や六根にふりまわされた生活の儚(はかな)さ、哀れさを知ることができるであろう。

何故なら、この世の地上生活は、人間の魂が人間の魂として永遠に続くの人生行路の一コマであり、その一コマに、翻弄(ほんろう)される無意味さを悟るからである。

肉体五官中心ではなく、偏りのない心からの行いを中心とした生き方、調和という目標を知っている私たちの心は、それに目を向けようと向けまいと、私たちの毎日の生活行為がそれに合致するよう潜在的に望んでいるのだ。

物質文明がどれほど変わろうとも、大自然の計らいと、人間の生きる在り方というものは、遠く古代も、現在も永遠に変わるものではないし、私たちの心はそれを知っているのだ。

私がこれまで述べてきた記事の内容は、人間と大自然の関係を中心として、人間という心を持った霊長生物を浮彫りにし、物質文明の中で明け暮れる不安定な心の動揺は何に起因するか、どうすれば真の安らぎが得られるかを明らかにしようとするものである。

心の尊厳性を悟り、このブログで述べてきたことの真意を生活の糧とされて、一人でも多くの人が安心した境涯に到達されるよう望むものであることを年頭の願いとしたい。

昨年は多くの方々に訪問していただき心から感謝を申し上げる次第です。

今年からは周一のペースで毎週月曜日にアップしていく予定でおります。

今後とも宜しくお願い申し上げます。

感謝。

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になるものがありましたら下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。

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