宗教にみる阿片作用
迷信、盲信、狂信
家相が良いとか鬼門が問題だとか、厄年の新築は禍の元になるとか、迷信のたぐいはたくさんある。
だが、盲信、狂信は、人間の造り出した信仰であって、神理にはほど遠いものであることを私達は知らなくてはならない。
神社、仏閣にお詣りに行き、祈ることが信仰であると思っている人々が、何と多いことか。
神仏を祈ることによって、自分の幸福が得られるという誤りに、私達は気がつかなくてはならない。
信仰とは
一般世間をみると、「信仰を持たないものが恵まれ、信仰者が不幸で貧しいという現象にぶつかることがあります。何か矛盾を感じるのですが、これはどういうわけなのだろうか」という質問をいただく。
厳格な意味では信仰を持たない者は一人もいません。
何故なら、自分を信じているか、金を信じているか、地位や名誉を信じて生きているのか、何かを信じて生きているのが人間です。
何も信じることができなくなったならば、人は生きてゆくことさえ難しいでしょう。
先ず、信仰のない人たちが比較的恵まれている理由は、その生活態度が自力的だからです。
そういう人たちの場合は依頼心が少なく、原因と結果について自分なりの見解を持っており、ものの成否は努力の結果とみているからです。
それだけに偏ると自己中心的であり、思念の力も人一倍強く働いています。
恵まれた環境は、そうした諸条件が生み出したといえるでしょう。
ところで人の幸、不幸は本来、主観的なものです。
第三者が見て、経済的に恵まれているから幸せかと言うとそうではなく、それを維持するために戦々恐々とした生活であったり、親子の断絶があったり、形だけの夫婦であるとか、内と外では大違いの場合もあるようです。
また金ができ、地位があがると、今度は慢心を起こし、分を超えた金使いや投資などで大きな損失をしたり、金持ち三代続かず、のように新たな執着の原因をつくり出してゆきます。
こうしてみると、物や金の価値に偏り、地位や名誉、、知識や資格などに偏り過ぎた唯物論者の心ない思想によって、人類は灰色の人生を送らなくてはならないだろう。
なぜなら、智(知恵)と意(意思)によって造り出された闘争と破壊の思想は、自由と安らぎの心を乱し、団結という美名のもとに、個人の自由を束縛し、きびしい弾圧によって、人は苦しい生活に追いこまれてしまう。
しかし彼らも心の悩みについてはどうすることもできない。
従って心を失った人々によって、類は類を呼ぶ法則に従い、指導者を中心に集団を形成していく。
唯物思想に応じない自由意志の一言は、取巻きによって抹殺されてしまう。
思想によって洗脳された人々は、目的のためには手段を選ばない暴力によって行動し、そこには、慈悲も愛もない行為が展開されて行く。
思想イデオロギーのためには、犯罪意識もないのである。
思想的な人々の集団は、指導者のロボットと化し、人間性を失ってしまっている。
現代のテロ集団がそれで、本当に哀れな人々としかいいようがない。
互いに信じられない人間の集団は、いつの日か、内部闘争によって破壊されて行く。
私達はこのような思想から、自分自身を守ることが必要である。
それには、正しい宗教観を身に着け、正しい真理に私達がもどることだ。
失われつつある人間の心をとりもどすことができるからである。
人間としての偉大な心の尊厳を知り、調和のある社会を築くことが、必要なのである。
しかし仏教もキリスト教も、信仰する人たちの言葉や内情を聞くにつけ、あまりにも人々の知恵と意思によって改められすぎていることを痛感させられます。
そのために、大自然を支配している意識、すなわち真理は偶像化され、さらに光の天使達も偶像化され、拝む宗教の氾濫に侵された末法の世となってしまっている。
本来の正しい教えも、その真髄が分からなくなってしまったため、多くの人々は、神仏の名のもとに祈ることが宗教である、と考えるようになり、一握りの悪質な宗教者によって、食い荒らされる宗教となり果ててしまった。
生活の中で、マンネリズムになってしまった信仰は、一日の形式的行事におちいっている。
「仏教とはむずかしいもので、その真髄をきわめることは困難である」と仏弟子であるはずの、僧侶達までが、このようなことをいっている時代なのである。
知的で、我流の解釈の成立している姿こそが、現代の仏教なのではないだろうか。
私は大いに疑問に思う。
人間の在り方を教えている仏教が、なぜ哲学にならねばならないのか。
なぜきびしい戒律によって、一定律を作らねばならないのか。
それこそ摩訶不思議である。
多くの人々は、仏教から遠くなった。
否、遠くなったというよりは、仏教が民衆から離れたといったほうが正しいだろう。
時の権力者や、貴族、僧侶達のための哲学と化した宗教は、すでに真の心のものではない。
きびしい階級制度がなぜ宗教を必要とするのか。
これは、彼ら特権階級と思っている連中の、自己保存の手段なのである。
神の名のもとに、彼らは大衆を犠牲にしてきたのである。
一部のそうした特権階級や、僅(わず)か5%の貴族や僧侶の私利私欲のために、弱い立場の95%の人々を犠牲にする宗教は、阿片にひとしい。
阿片となった宗教は、すでに人を救うことはできない。宗教のかたちをとった霊感商法も然りであるが、ご利益をうたう教えは神理でも何でもない。
人間の私利私欲の産物であり、それが神意でないことを、私達は良く知らなければならないでしょう。
彼らは、神仏の名を騙って生活している偽善者なのである。
祈ることのみが救われる道でないことを私達は知り、盲信、狂信、迷信、が邪道であることを忘れてはならない。
宗教の正しい神理から、心を遠ざけられていることを改めて認識すべきである。
万物の霊長として、私達が宇宙の法則が真理であることを信じることが、人間として当然であり、その営みを悟ることなく、教団の指導者を盲信、狂信することは、自分自身を失うことになることを悟らねばならない。
人間らしい生活を忘れ、不調和な苦楽両極端の人生を送り、正道の心を無視した片寄った生活をしたのでは信仰の意味がない。
毎週日曜日には教会に通い讃美歌を歌い、牧師の声を聴きながら、家や職場ではお局様になって傲慢な言動をして嫌われている人がいるのである。
何のための信仰であろうか。
指導者のいいなりになったり、求道心をただ祈る方向だけにおく、というのは盲信である。
行いが祈りであるが如くに生きればよいであろう。
もはや神の名のもとに、疑問を持つこともなく、自分の心を失い、心の安らぎを得ることもなく、祈りによって人生の逃避へ走るという結果になってしまうのである。
このような人々は、早く自己の心を取り戻さなくてはならない。
指導者は、″紙″を神として祈らせたり、
「あなたの家の不幸は、何代前の先祖が浮かばれないからである。祈って供養しなさい」とか、
「あなたの病気の原因は、屋敷内の守り神であった竜神を粗末にしたための祟りであるから、祠を作ってお詫びしなさい」
といって、皆祀らせてしまう。
これが彼らの常道である。
旧家ほど、祀った神さまと称する〝紙″が多い。
「あなたの商売がうまくいかないのは、稲荷大明神を祀らないからだ。一日と十五日にお祭りをすることによって救われる」
などといわれれば、私利私欲の心が優先して偶像を祭ってしまう、という具合である。
こういった事例はこれまでたくさん見てきた。
欲望を満たすための信仰は、祈れば祈るほど心が不調和となり、不幸な人生を送るようになることを知らねばならない。
祀った当時は一心に祈り、祈る心で仕事にも精を出すから、商売は繁盛、金もできる。
しかし金と暇ができると、祀ったものには無関心になり、形式的なお勤め信仰になって行き、繁盛したことへの人々への感謝の心も忘れてしまう。
驕り高ぶる。
浪費をはじめる。
傲慢になる。
欲望の満足ばかりを考える。
いつか、そうした心の魔に克てなくなり、心は暗い想念に覆われ、安らぎもなくなり、家庭生活をジワジワと破壊し、邪悪な霊を呼び寄せ、やがて支配されて没落への一途をたどるようになる。
不幸を自ら選んで行くのである。
「さわらぬ神に祟りなし」という諺は、真に的を得た言葉である。
神仏にさわらず、頼らず、神理に即した生活を、自らの努力によって築き上げることが、神仏の心に通じることなのだという道理を悟るなら、必ずしも既成団体に入信する必要はないのである。
人間らしい生活への最善の努力こそ、私達の心に平和な安らぎを与え、大自然の法則に沿った生き方であり、繁栄をもたらすということである。
人間らしい生活とは、偏りのない実践によって調和した正しい想念と行為、万物の霊長たる自覚を持って衣食住に足ることを知った生活、それである。
限りない欲望は、足ることを忘れさせて苦しみを造り出して行くのみである。
私達の環境の中で、さわりを起こす眼に見えない憑依霊や地縛霊は、神でもなければ仏でもない。彼らに憑依されるには必ず原因がある。
想念と行為についてまず反省すること、これが先決だ。
反省もなく、さわりの霊を皆、祀ってしまうことは、彼らを増上慢にし、さらに災いを後世に及ぼすことを考えなければならない。
一例をあげよう。旧家での出来事だが、息子が狂ってしまった事件があった。
息子の父は自分の妻には辛く当り、姑もこの妻に辛くあたり、狂った息子の父と、この父の母親、つまり姑と親子でマザコンかと思えるほどのやり取りをしている異様な家族。
この父親は何故か息子を可愛がることはしなかった。不憫(ふびん)に思った母は、自分にも夫からの愛を向けてもらえない分だけ息子を溺愛したのだった。
こういう家族のなかであれば、歪んだ精神構造ができあがって当然のことであろう。
息子は小学校5年生あたりから内向的になり、友人ともうまくいかなくなり、孤立するようになっていったのである。
中学に入って被害妄想が出てくるようになり、ありもしないことを想像でつくり出し、事実であるが如く語りだすようになってきた。
私は、中学のときのこの息子に会っているが、この息子の背後に居る邪悪な存在に気づいていた。
この旧家では稲荷神を屋敷内に祀っていて、代々願い事をして祭りごとをしてきたのであるが、息子の父親の時代になってからは一切これまでのような祭りごとはしなくなっていたというところまで確認した。
ある日、発狂した中学の息子と、父親と、息子のおばさんとで、息子の相談をしているところに立ち会うことになった。
このときに息子が父親に飛びかかったのだが、私がなんとか力づくで息子の暴力を制止したことがあった。
ランランと不気味に光り輝く息子の目は邪悪な霊の支配下にあったことが見てとれる。息子は精神科に通い、統合失調症と診断を受けることとなった。
以上のように、深い関わりをもってきた霊の災いを治めるには、自ら心を正してから、彼らに正しい道を説明供養し、人類に迷いや苦しみを与えないようにその誤りを諭し、彼らの住む世界に帰してやることが正しい法であって、祀ってやることが正道ではない。
霊を祀れ、という行者や教祖がいたら、それは正しい霊力のない人であることを知らなくてはならない。
正しい霊力があれば、彼ら邪悪な霊の誤りを指摘して正しい道に帰依(きえ)させることができるはずである。
同時に、こうした宗教的環境に苦しんでいる人々に対して、「なぜ苦しんでいるのか」という原因を教え、正しい心の在り方や生活の在り方についても導くことができるはずだ。
狐の祟りだの、蛇の祟りだの、先祖の祟りだのといって、祀らせてしまう信仰は、自分自身が万物の霊長である自覚を忘れているのである。
「臭い物には蓋をしろ」式の信仰から、脱出することが、私達の幸福を得る道といえる。
形式信仰に迷わされるに従って、生活も不安定になり、ますます安らぎを失って行く。
迷ってはならない。
阿片の中毒から、自分の心を救わなくてはならない。
已に強くなり、何ごとにもとらわれない大きな心を持って、人生に立ち向かう勇気を持つことが必要である。
不幸な現象については、自分自身と、その環境について良くその原因を探求し、苦悩のもとを除去し、より良い人生に進歩するための努力を失ってはならない。
大宇宙、大自然はその努力に対して、平和と安らぎの光を与えてくれる。
私達にです。
人間の心を盲目にして、祈ることによってご利益が得られる、と教えている宗教指導者達やスピ系の人たちは誤りを犯している。
大宇宙、大自然は、人類がこの現象界に肉体を持って魂の修行ができる環境の一切を、提供しているではないか。
太陽の熱光のエネルギーによって、植物、鉱物、動物相互の関係が生まれている。
この姿こそ、愛でなくて、慈悲でなくて何であろうか。
大自然によって生かされ、肉体的先祖代々に、子孫保存の本能を与え、私達は肉体を両親からただで戴いたはずである。
両親の慈悲であり、愛でなくて何であろうか。
元来は、天の慈悲と愛によって、魂が乗るための肉体が提供されたということです。
その肉体の運転手である私達自身の意識、すなわち魂の不注意で、不調和な現象が出たからといって、自分の心も行ないも正すことなく、祈ることによって救われると思っていることは大間違いである。
大自然の恵みに感謝して、生活するとともに、心から人々に対しての恩に報いる行為を実践してこそ、社会の調和が完成されて行くものでしょう。
私達は、病気、貧乏、家庭の不調和などの悩みに対して、その原因を追求することなく、結果だけを見て、己の都合、己の幸福、己の利益だけを祈願している人々が何と多いことであろうか。
神仏を始めとして、私達の守護、指導霊や、魂の兄弟達も、我田引水の祈願に対しては、協力されないことと知らなくてはならない。
神仏の働き、エネルギーは、偏りのない調和された法則によってすべてが定まっている。
私達が鏡を見るとき、私達の姿は実物と同じように映る。
実物が美しければ、映し絵もまた美しい。
私達の心の鏡も、全く同じように、あの世の天使達や、みなさんが言うところの神々に映るのである。
心の中は光の天使に対して、絶対にごまかしは通用しない。
私達の心が、已に嘘がいえないように、真実は真実以外にないということを悟るべきだ。
最善の努力をしている人々に対しては、必ず私達に関係の深いあの世の人々によって、常に協力がなされているということを忘れてはならない。
「自ら求める者に与えられる」ということを悟らなくてはならない。
求めるためには、正しい想念と行為が一致した、目的のための努力がなくてはいけないのである。
自己都合のために祈ることによって、救われるのではない。
そのときの心の状態が重要なのである。
家内安全、大漁、交通安全、五穀豊饒、安産といういろいろな祈願がある。
人々のためにも、心を正して祈ることは、守護霊や魂の兄弟達によって天に届き、慈悲が戴けることにもなろう。
与えられた慈悲に対しては、当然感謝の心を持って布施することが道であろう。
特に大漁祈願や五穀豊饒を祈る場合などは、生物の生命を取ることになるため、収穫物を無駄にしたり粗末にしたりしてはならない。
彼らは私達の血肉、骨となるのであるから、その身の供養という事実を忘れてはならなず、その生物に対して、感謝する心を持つことが当然であろう。
食事ができるのも、多くの生命が身を供養しているのであるから、神仏に感謝するとともに、万物に感謝することを忘れてはならない。
しかし多くの人々は、このような大宇宙、大自然の大慈悲に対して、心からの感謝を忘れている人々が多い。
祈願は自己保存の一方通行であってはならず、得られた慈悲に対しての、感謝の印としての施しを忘れてはならないのである。
報恩の行為は、人々の心を調和し、近隣愛を生んで行く。
自然に行い、それへのまた報いを考えてはいけない。
正しい施し、供養の意味がなくなってしまうからである。
また、仏教は本来一つであるにもかかわらず、いくつかの宗派に分裂して他の宗派を邪宗と決めつけ、心の、闘争と破壊の種を蒔いている不自然な思想もある。
仏教にもキリスト教にも、闘争と破壊の教えは存在していない。
もし闘争と破壊の道を正当化して教えている指導者がいるとしたならば、それは我流で、自分の都合で指導しているということを知らなくてはならない。
時代に応じた神理などは、存在していないのである。
神理は、新旧に関係なく、太陽が東から出て西へ沈むように、不変である。
それを知らず、人問が勝手に私利私欲の思想を造っているが、それは不遜の行為といわねばならない。
仏教の哲学化も、このような人々の独りよがりの産物によって造り出されてしまったものである。
化石化した宗教を、自己流に解釈して、あたかも正しい法のように手直しし、神理を悟っていない指導者によって題目闘争を教えられ、人々を格闘の世界に追いこんでいる例がある。
ある信者はまた難しい哲学的用語を使って自己慢心し、用語も分からない人々に相対しても仏教哲学を学んだ仏弟子のごとく、高圧的に振まって折伏行為をし、要求をする。
こうした連中の心は、慈悲も忘れさった阿修羅界、地獄に通じているものである。
このような不調和な行為を、神仏の名を借りて人間の心を狂わしてしまう指導者の心は、安らぎを失い、地獄の生活に追いやられるであろう。
その罪を、反省しない限り天上界に行くことはできず、地獄できびしい反省を、自らの仏性によって矯正されることを悟らなくてはならない。
神仏は教団のためにあるのではなく、金儲けのために利用されるものでもない。
眼に見えないものを利用し、人の心も分からない連中が自分のご都合主義で判断し、組織のために人々を利用しているだけなのである。
その罪は、生きながらにして償わなくてはならなくなることを、思い知らされるであろうことは明白である。
罰が当たる。
功徳がなくなる。
と教えられている信者は自らが救わなくてはならないが、自己保存欲の強い狂信者は、それを信じている。
しかし彼らは、自ら造った不調和な想念によって、ますます心の安らぎを失って行く。
勤行に対しても、心の中では抵抗を持ちながら、お勤めを休むことを怖れている。
それは、自己保存の強い信者ほど、罰が恐いからである。
彼らにも両親があったであろう。両親は、子供の幸福のために、丈夫で正しく成長し、立派な人間になるように指導したはずである。
神仏も、盲目同然の人生の修行に出ている人類に対して、なぜ罰を当てよう。
罰は、自分自身の不調和な生活によって、自身が造り出していることを、そして、罰を恐れる不安や恐怖心が現実のこととなって創造されることを私達は忘れてはならないのである。
可愛い自分の子供を、なぜ親が不幸にさせようか。
私達の親、神仏は、慈悲と愛の塊りであることを、忘れてはならない。
親の注意を聞かないで、自由勝手な行動をして、自ら苦悩の人生を渡っているのが、人間なのである。
しかしまた親の自分勝手な価値観によって子供に押し付けて子供をつぶす親もいる。
そういう中から、いろいろな疑問が生まれ、その疑問が解決されてくれば、正しい大自然の法則にに達して行くのである。
心の窓が徐々に開かれて行くに従って、生きる喜び、人生の意義を悟るようになって行くことができる道こそ、正道であろう。
万象万物、大自然界が、神理を教えてくれることを悟るからである。
それを知らないで、罰を恐れ、自分の心に足枷(あしかせ)をはめて、心の自由を失ってしまった教えは、神理ではないということを、悟らなくてはならないでしょう。
心から道を求めている人々に対して、このような不自然な指導をしている指導者は、偽善者といわざるを得ない。
信者達にお布施を供養させるために「供養した人々は、その何倍、何十倍にもなって幸せがかえってくる」といって、強欲な人々の心をかき立て、莫大な布施供養をさせた。
その結果、強欲な信者も仏教哲学を学んだ仏弟子のごとく、高圧的に振まって折伏行為をする。
こうした連中の心は、慈悲も忘れさった阿修羅界、地獄に通じているものである。
このような不調和な行為を強い、神仏の名を借りて人間の心を狂わしてしまう指導者の心は、安らぎを失い、地獄の生活に追いやられるであろう。
だが、「灯台もと暗し」というように、教団や集団に属してしまうと自分の真の姿を見失ってしまうのも人間の弱さである。
第三者から見て、明らかに不自然であり、言動にも無理があり、生活自体も何かしら偏った生き方をしているのだが、入信した本人は教団が一番であり、教祖が一番である。
例えば、私が時々お茶屋さんに行ってお茶を買っていたときに、そのお茶屋さんはサービスの特典ということで住所、氏名、電話番号を所定の用紙に書くよう提示してきた。
私はお茶以外は特典など何も欲しくはないのだが、何の抵抗もなく要望に応じたのである。
しかし、時を経て選挙の時期になったら「◎◎党の○○さんに投票をお願いします。」と電話が鳴ったのである。
以来、選挙のたびに同様の電話が鳴るようになった。
私はハッキリと断った「私は、お宅のお店にお茶を買いに行ったのであって、選挙活動に参戦するために行ったのではありませんよ。今後はこのような電話はしないでください」と。以来、電話がこなくなったし、お茶を買いに行くこともなくなった。
このようなケースで迷惑を被っている事例は多いのである。
先に述べたように、宗教指導者は、阿修羅界という地獄にも通じるその罪を、反省しない限り霊界に行くことはできず、地獄できびしい反省を、自らの仏性に強制されることを悟らなくてはならない。
強欲な信者達は経済的に不調和を造り出し、自ら造った罰に当たった人の多いことを、私達は知っているはずだ。
夫婦別れをして家庭を破壊した者、事業を破産に至らしめた者、闘争に疲れて若死にした者、このような多くの犠牲者を手を差し伸べることが、先決ではないだろうか。
「人に尽くすは小善」といっている不調和な思想家達に、このようなことを説いても、通じないだろう。
しかし、人々の哀れな心に「足枷」をはめた、犠牲者によって造り出した浄財で、山中に金ぴかの建物を、莫大な金をかけて造っている。
彼らは、この地球が神仏の体の一部分であり、大神殿、大仏殿であることを知っているのだろうか。
その大仏殿の中に、貧しい人から集めた金で、また山中に小さな建物を造って、人間を救うことができると思っているならば、これはもはや人間の考えではない。
それによって利益を得ることのできるのは、建設会社と幹部だけではないだろうか。
時代錯誤もはなはだしいことを痛感する。
生きている人間を救うことこそ、大善であることを、思い知らされるときがくるであろう。
それは、最高責任者達に悪しき現象となって現われることになっているからである。
人間の力でどのように工作しても、その罪の償いはさせられるのだ。
ヒットラーにしても、スターリンにしても、無間地獄に陥ちているだろう。
人間の心を狂わしてしまった指導者に対しては、数十年ではなく、数百年もしくは数千年という特にきびしい苦難の現象があの世の地獄界において現われてくるであろう。
この世においては、肉体的に、頭が割れそうに痛み、心に安らぎはなく、自分の自由意志はなくなり、不調和な幹部によって突き上げられ、ロボットになっていく。
そのうちに身体はしびれるようになる。しかしそれでも自己保存の心は捨て切れず、「神仏を信仰しているのに、なぜこんなに調子が悪いのか」と自問自答する。
しかし心の窓が開かれていないから、「体の調子の悪いのは、信者の想念を受けているのだ」と自分に都合の良い解釈をして、自慰をしている。
またある宗教指導者は、経済力に物をいわせて、信者の上にあぐらをかき、堂々と悪いことをしている。
神の名のもとに、狂信者、盲信者を操って心を失わせ、罪を犯しているのである。
自分の肉体的不調和が慢性化して、心の安らぎを失い、私利私欲の権化と化し、組織の内部は権力闘争に悩まされている。
このような、心を失った宗教が乱立している社会を、末法の世というのである。
「民衆を惑わし、苦しみのなかに落し、自らが欲望の渦中にあり、神仏を冒涜している指導者には、心の平和、安らぎは与えられないのがあの世の掟である」ということを悟るべきである。
神理は、人間が変えることはできないものであり、人間がつくることができないものであるということです。
病苦も含め、心の苦しみの生活は、地獄の生活であることを世の指導者達は良く悟り、人間としての在り方を、もう一度全面的に反省してみることが自分自身を救う可能性であること、ただ一つの道であることに気づかなくてはならないだろう。
人間の想念というものを信じない人でも、レーダーもラジオもテレビも、高層ビルも、宇宙船も、人間が作ったものだということは認められるだろう。
とすれば、人間の想念は、物を造り出す能力を持っている、ということも十分に分かるはずである。
不自然な信仰をしている指導者達は、自分の心にウソのない生活を実践することにより、現在の信仰の正否を自らの力で悟ることである。
きびしい心の抵抗を正しい法則の実践のために自ら破らなくてはならない。
そして、己の心を失わせた阿片を、自らの力で破棄し、ウソと偏りのない正道につくことがより自分の価値を高めることになることを知るべきである。
戦争もまた不調和な想念行為以外の何物でもない。
戦勝祈願などというものがあるが、勝負を争う場合、スポーツを除いて、そんな祈願は人がなすべき行為ではない。
神仏は常に中立であるからいずれにも加担などしないのである。
親が子供の喧嘩に対しては平等な判断をするように、片よった肩入れをしないのが両親の愛ではないだろうか。
親は子の争いを望まない。
まして、神は戦争など好むものではない。
シリア問題に関連してロシアや中国が関わり、アメリカや他の諸国が関わってくる国際問題。戦争は、絶対に人間のなすべき行為ではない。
人間の肉体を破壊するばかりでなく、他人にも同じみじめな思いをさせ、罪なき人々の心に不安を与える。
戦争は、人間最大の犯罪である。
その指導者、戦争を喜ぶ者は、生ける地獄の阿修羅であり、その償いは、肉体が破壊されても地獄界で戦争をしなければならない。
国家権力による命令によって戦争に巻きこまれても、良心を持つものは否定する。
権力と争えない立場の人間であるとしても、常に正しい自分自身の心に問うて、正道に適った行動を実践することである。
聖戦などという戦争は存在しない。
争いは、理由のいかんにかかわらず、五分と五分、人間は、万物の霊長として、その自覚をし、戦争など絶対にしないようにすべきである。
闘争は闘争を生み、尽きることがない。
調和への勇気は、忍耐と努力によって、いつの日か平和な社会を完成させてゆくのである。
どのような環境にあっても、自ら一人一人の努力によって、己の心を開くことである。
その喜びは大きい。
※きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。
ディスカッション
コメント一覧
観童様のブログを昨年の一月から拝見しております。
私は僧職にある者ですが、得度五年ほどの新参者でわからないことばかりです。
ぜひお尋ねしたいことがあります。
教えて頂ければ幸いに存じます。
私は、仕事で先祖供養ということを日常的に行っているのですが、観童様のコラムを拝見して、供養ということに対するこれまでの私の考えを、今一度点検しなければという思いがしたところでもあります。
日本の仏教界では、親や先祖、そして、縁者というように、血縁の肉体先祖を供養してきたのですが、魂の先祖、魂の兄弟という言葉の意味をもう少し分かりやすくご説明頂けませんでしょうか。
宜しくお願いいたします。