知識と智慧


「知識」と「智慧」の違いを説明してください!お願いします。という質問が、あるサイトに投稿されていました。それに対する回答者の答えが下記の通りです。
回答、『上座部では、四諦で遍智により・実践する六波羅蜜の修行の一つです。
大乗では、智は色の源であり、諸法の本性を照達するのが智慧とします。
知識は、知覚での獲得であり、その調和で創造するのが智慧と言えます。
これを般若と言い、末法到来を信じる者と、そうでない者でも異なります。
浄土真宗の場合、教行信証では真実を正しく見抜く智慧と理解します。
般若を離れ、阿弥陀如来の、はからいにすべてを頼るのが智慧なのです。
大乗で末法に耐えようとの教義は、乱れた世でも信仰心がある証しです。
ただし、仏教の日本的な昇華であり、素朴な原始仏教とは異なりますね。
ここまでが回答者の文章ですが、経文に詳しい方か、宗教に熱心な方か僧侶の答えだろうと思うのですが、あなたはこの文章を理解できるだろうか?一般的にはこれではよくわかりませんね。
それではここで私の、『知識と智慧』に対する解釈を述べてみます。以下
知識と智慧についてはこれを同じように理解する人は少ないだろう。だが、この二つのかけ離れた違いはとなると、誰もが、考え込むかもしれない。
つまり、ここからここまでが知識であり、そのほかは智慧だということはなかなか区別がつけがたいからだ。
智慧とは、これまで想ったこと、行ったことによって積み重ねられ内在されたものが生きた経験として湧き出るもので、臨機応変に応用ができる。
知識は、この世で学んだ諸々の知識そのものをいう。広辞苑が知識の本であるように。
高校や大学で学んだ知識が実生活にどれほど応用ができるのかとなると、まず十のうち、一つか二つである。
学者や特殊な業務の研究者ならともかく、社会に出た人の応用範囲は、本当に微々たるものにすぎないし、知識を実生活に活かそうとすると、大抵は失敗する。
大学教授や学者が政治や事業をやったのをみるとわかるように成功した例は極めて少ないことをみたら分かりやすいだろう。
私の経営する治療院に弟子入り志願してきた人たちは20名を以上になる。その人たちの中には国家資格を持った者たちもいたが、専門学校での実践経験が少ないのと、国家資格を取得するためだけに知識優先の詰め込みをしてきたことによって、現場では頭でっかちで技術面の習得に支障をきたす場面がある。
逆に何の専門的な知識も資格もなく真っ白な状態の者に実践指導すると非常に吸収が早く、技術の習得が早いし応用がきくのである。
このように生活の場は生き物と同じであり、知識偏重の傾向より、体の感性や本人が持ち得ている智慧を生かした実践のほうが成果をみられる場合が多い。
昨日の知識はきょうには役立たない事の方が多いのである。
今日の医学は百年前より長足の進歩を遂げてはいる。
しかし、医学の進歩とともに、新しい病気が増えて新種の病気が現れ、医学がそれに追いつかないというのが現状のようだ。
これについてある人物は言っている。医学の進歩があったから、これまで未発見の病気が発見されたのだ。
もともとそうした病気があったけれども、医学が幼稚だったから分からなかったのだと。またこれまでの医学は治療医学であって予防医学は未開拓である。そのために病人が後を絶たない、ともいう。
私は医学を否定するものではない。医学の分野で治せる病気も多いし、そうした治療をした方が良いという場合もあるからだ。
ただ病気の7~8割近くは、物理的な治療では治らぬことが多い。何故かというと心が病気をつくっているからである。病名も数千種類もあるが、その中の7割は不必要な病名だと医学界では言われているのである。
新種の病気が医学の進歩と並行して現れてくるのは人間の心が、モノを生み出し、時代と共に欲望の方向が変化しているからだ。
これまでの医学は、物理的治療のみにウエイトが置かれていて、人間の心についての理解が欠けていたことは医学者自身が認めるところだ。
しかし、近年は精神医学を重要視して取り組む姿勢が徐々にではあるが、世界的にも注目されて進みつつあるようだ。
業界は物理化学としての医学は進んできたが、病気の間口は、時代の変化とともに広がっていくため、医学と病気は絶え間のない競争関係におかれているといえるだろう。
私がここで言いたいことは、知識と現実についてである。医学といういわば科学知識の頂点をゆく学問すらも、病気という現実の前には多くの問題を抱えているという事実である。
学問、知識にはある一定の限界がある。私たちの生活の場は、知識や学問によって支えられているのではない、といって学問知識の必要性は今更述べるまでもないが、要は私たちの毎日の経験が、私たちの実生活を活かしているということである。
いうなれば毎日の経験から生みだされた生活の智慧が、私たちを支えているのである。
どんな職業にしろ、あるいは家庭にあっても、知識だけでは計り得ない何かがある。その何かとは経験である。経験によって習得し、はじめてものの用に役立ってくる。
『昔から、覚えるより慣れろ。』という諺があるが、どんな職業でも一人前になるには三年、五年の歳月を必要としよう。
大学を出て就職してもスグには役に立たない。大学を出たからと言って、十人が十人、指導的地位に立つとは限らない。小学校だけでも立派な社会人として、大会社の社長をこなしていく人もいる。
こうした例はその人の経験と努力によって得られたものだ。実社会での生活の智慧が、それを実現させたと言えるだろう。
本来、智慧とは何か。智慧とは生きた経験の集積である。その集積が縁にふれ、折にふれて、時々刻々変化する事象に対して、通常はヒラメキきとなって、人によってはもっと具体的に、適切な判断となって現れてくるものだ。
智慧は、知識や頭脳の働きからは生まれてこない。智慧は、心から生じてくる。
頭にいっぱい知識が詰まっていると、逆に智慧は生じ難い。知識が智慧の湧出を押さえてしまうからだ。
智慧の宝庫は、潜在意識にある。潜在意識が開くと、智慧が流れだしてくる。
仏智という言葉があるが、仏智とは潜在意識の奥底から泉となって、表面意識に流れ出した偉大な波動であり光である。
見えない世界を感じ、五官で判断がつかない問題が解けてきて、日常生活をより豊かにしてくれるものだ。
私は僧侶でもなければ宗教家でもないし、霊能者でもない、仏教に関する専門知識など持ちえているわけでもありません。健康に携わる市井の人間にすぎないが、電話やメールで相談を受けるその瞬間でも、話したことも、会ったこともない人の心の波動を感じてしまうのである。
心の波動を感じるということは、その人の心にある、自我心や驕(おご)り、怒り、自己中心などの不調和な波動のことだ。
何故、それを感じるのだろう。
この続きは次回にゆずることにしよう。長文にお付き合いくださって、ありがとうございます。
こころ安住することなく
正しき真理をも知らず
信ずることの
定まらざるもの
かかるひとに
智慧は満つることなし
心と言うものはいつも止まることなく動いているものだが、事の善悪、社会の秩序なども悟ることなく、まして自分自身も他人も天地の真理も信じることのできない人は、心の底から湧き出る工夫も生き方もない。
きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。またの訪問をお待ちしております。ランキング参加しております。、下のバナーをポチッとクリックして頂ければありがたいです。^_^