夢と想念


モノクロに近い、グレーのスクリーンでも見ているかのような、なだらかな斜面の丘の上にいた私の目に入ってきた光景は、一列に並んで生気のない顔した人たちが山から薄暗い谷底に降りて行く異様な光景だった。
まさにあの世の地獄に降りてゆく光景だった。私は彼らと一緒に降りて行きたくなかった。
向きを変えて、お~い、と叫んでみたが周りには誰もいない。
そして一瞬にして雪景色になったところで目が覚めた。深夜の二時だった。
私は、守護霊の導きによって地獄の入口を見て来たのだった。
さて、いったい夢は何を意味しているのだろうか。夢に生活上の重要性はあるのかないのか、フロイト『夢の解釈』は有名ですが、夢とはなんだろうか。
普通、夢には主観的なものと、第三者の介入による夢とがあります。
主観的なものは、自己の想念がつくり出したもの。これは思っていることが夢に現れる状態のことである。
第三者の介入のものは、地縛霊、動物霊などの影響によるものが多いようです。
主観的な夢には、他愛もない日常の出来事に関するもの、美しい情景を見てくる、天女と語る楽しい夢などさまざまです。
反対に、暗く気持ちの悪い夢、呪われた世界などの夢は自分の心に不調和な想念があることの現れですからよくよく反省して心を調和しなければなりません。
また、蛇に追いかけられる、あるいは巻きつかれる夢の場合は情欲を秘めている場合、嫉妬で苦悩している場合、執念をもっている場合などにも現象となって見ることがある。
こうした夢は、あの世の階層を実際に見てくるのであり、それは同時に、自分自身の、そのときどきの現実の想念のあり方が、そうした階層に通じ、またそのような日頃の想念が、夢という形で現象化されていることを意味します。
したがって、こうした夢は、天上界の夢ならともかく、いやな夢、ないしは調和に反した暗い夢の場合は、自分の想念のどこかにあやまりがあるのですから、反省し、修正する必要があるでしょう。
夢はたいてい朝方です。眠るという行為は、表面意識の休養を意味し、あの世のエネルギーの補給を行っているのですから、意識の休養中に夢をみるのではなく、エネルギーの補給を終え、朝方に守護霊の働きによって夢を見る、夢を憶えているということになるのです。
つまり、補給を終えた表面意識が、いつでも活動しやすい状態になったときに、夢という現実的な想念と行為が働くわけなのです。
また夢は、自己の想念と行為をごまかしなく再現するものですから、反省の材料としては、またとない資料となるのである。
現実生活の私達の想念は、形になって現れないとわかりませんが、夢の場合は、日ごろの想念がなんの抵抗ないために現象化されますので、夢の中の行為は、自己に内在する想念の、偽りのない姿といえるでしょう。
一方、第三者の介入による夢は、朝方よりも、真夜中に見る場合が多いものです。眠りが浅く、なんとも寝付かれず、ウトウトしながら悪夢を見る。
恐ろしさのあまり、目を覚ましたときは、自分の腕が胸の上に置かれ、汗をかいている。
こうした場合は、実際に自縛霊、動物霊、浮遊霊、生霊などがそばに来ている場合があるものです。寝入りばなの金縛りもそうです。
ですから『実在界の光の天使、諸天善神よ。私の心に光をお与えください。安らぎをお与えください。』というように、あの世の光りの天使、または諸天善神に一時的な加護を求めることで急場をしのぐことが可能となります。
大事なことは日ごろの心の不調和をなくし、安息な生活をするべく、常に調和を心ががけ、反省と実践の継続的な努力をすることである。
特に怒りを心に持っている人の場合は、他人に対しても、家族に対しても些細なことで怒るということを、何度も同じことを繰り返すことのないように自分を律することを忘れてはならない。
怒りは利己的、自己中心、愛への渇望が背景にある。
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