不安と安らぎ・心の眼を開く

yjimageCAQ3GXEJ苦楽の原点
私はこれまでさまざまな角度から人間の心というものについてブログを書いて来ました。これからも書きつづけてまいります。
記事を書く目的は、社会のより多くの方々に少しでも多く、心の仕組みについて、あるいは人の心の偉大さ、尊厳さを知っていただき、その心で現実の生活をしてもらいたいからです。
人間は心の安らぎがあってこそ平和も実感できるものであるし、幸せを感じることができるものです
人間は知恵のある動物という意味において他の動物とは異なった存在ですが、しかし、万物の霊長ともいわれる人間でありながら、その人生には苦楽があるのは何故だろうか。
苦楽の原点は、私たち自身の心の在り方、この一点にかかっています。
あの人が悪い、あの人のせいだ、霊のせいだ、あのことを切っ掛けにこうなってしまったといって他に責任転嫁をしているうちは絶対に心の安らぎなど生まれるはずがない。
実際に相談にくる方々の内情を確認すると、決して他人のせいばかりではなく、多少なりとも自分自身にも原因があることも浮き彫りになってきます。
否、むしろほとんど自分に原因がるといってもよいかもしれません。
事態を改善するうえにおいてこういったことを考えるならば、他人のせいにしていては苦楽からの解放はないということです。
往々にして自分自身の対応を変えるということには気づけず、相手が変わることを望んでいる場合があるものですがしかし、これでは事態の好転はのぞめません。
誰もが思い当たる、あれが欲しい、これが欲しい、あいつが憎い、あの人のせいでこうなった、負けてたまるかという心は、眼、耳、鼻、舌、身の肉体の五官に囚われることによって生まれてくるものです。
人間は肉体五官に心が傾き、心が外にのみ関心が移ってきますと、ものの本質を知ることもなく、争いや欲望がつのってくるようにできております。
私たちの身の回り、現実社会をみて下さい。
物質至上の考えが大手を振ってのし歩き、かつては高度経済成長の名の下に、人びとは物の渦の中に巻き込まれていきました。
その結果はどうだったでしょう。
公害、インフレ、物不足、そして、人びとの心は荒み、エゴと争いが巷にあふれ出ることになりました。
歴史は繰り返すといいますが、人が物にとらわれ、五官六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)に心が片寄り、自分を失って来ますと、残るものは苦しみ、悲しみだけとなります。
俗にいう霊障と言われている体の症状も実は本人の偏った知識がそうさせている場合があり、身体の症状を霊障だということで責任転嫁をして、自分の不調和な心故に出来上がっている心身症であることを認めたがらない場合が多々あります。
何かのせいにすれば都合がよいという自己保存の心理である。
つまり、目で見るものに囚われ、耳で聞くことに囚われ、鼻で嗅ぐことに囚われ、味覚に囚われ、全身の皮膚感覚に囚われ、内臓の不調に囚われ過ぎると、結果的に意識が不調和になってしまうのである。
つまり精神バランスを崩してしまうということだ。
こうしてみると人類の歴史は、五官におぼれた苦楽の歴史といっていいようです。
人が苦楽の中におぼれるかぎり、人も社会も安らぎあるものとはなりません。
このことを心の仕組みとしてよく理解して頂きたいと思います。
心の不安は、
心を外に向け、その出来事、すなわち事象にとらわれ執着すると起こり、自分の肉体感覚に執着すると起こります。
苦しいからとそのことの一つ一つに心を向けていては苦しみから脱するどころか更に不安や恐怖心の中に埋没することになります。こういう心の癖を私は「心の傾向性」といっています。
安らぎは、
心を内に向け、自分の心の状況をどういった傾向性があるのか把握し、偏りのない正しい心の法則に適った反省と実践の生活から生まれてきます。
学んでも学んでも同じところをグルグルと回って、自分の悪しき癖から脱出できないでいる不要な拘りの生き方はいつも苦しみしかなく、それは捨てるしかない。
しかし、それでも捨てきれないで自らを苦しみの中に埋没せているのが人間でもある。
これを称して「業・カルマ」というのである。
呪われた子ども
何をやっても仕事をこなせる人、努力をする人、これは素晴らしいことであるのは間違いないのだが、しかし、この人、いつも自らの言動によって敵を作っていることに気づいていないしトラブルも少なくない。
「どうしてそんなこともできないのよ」「そんなのやって何になるの?」子供のやる気を消失させるにはもってこいの言葉だ。
自分の子供たちから信頼がなく、子供たちの心を言葉によって傷つけ、我が子をつぶしてしまっているのだが、それでも自分の愚かさに気づけないでいる。
これもまた「業・カルマ」といえようし、できる人間の陥りやすい心の隙でもあろう。
誰もが安らぎを求めはしますが、安らぎは一朝一夕で得られるものではなく、日々の小さな実践と積み重ねでしか安らぎの境涯は得ることができないものであります。
この道理は、私たち人間が大自然という環境の恩恵によって生かされ、生きている限り、過去、現在、未来を通して変えることの出来ないものであり、大自然の法則であり、人間の心の法則だということです。
例え、大都会に暮らして、「俺たちの周りはビルだけで自然環境といえるようなものはないよ」と言ったとしても間接的には誰もが大自然の恩恵によって生かされているのです。
これまで、摂理、秩序という自然の掟である法則というもの、そして現実の社会に現われているさまざまな矛盾を、いろいろな角度から述べてアップして来ましたが、これからも述べてゆくつもりです。
このブログは、私の人生で体験したこと、相談者から学んだことをもとにして書き記したもので、人生に苦悩したり、疑問をいだいている方なら、きっと理解されるものと確信します。
ブログを訪問してくださっている皆さんにお伝えしたいのは、これまでの投稿が一人でも多くの方に安らぎを与えるものでありたいと願っているということです。
自分の生活を整え、健康で明るい生活を求めたいならば、心身ともに自然にそった生活をしていただきたいと思うのです。
私が言う自然に沿った生活というのは大自然に学ぶ心の法則に従ってという意味である。
禅定瞑想
人生と悟り
ブログをアップした当初は訪問してくださる方々もほんのわずかでしたが、それがひと月たち、ふた月たつにしたがって、訪問してくださる方が増え、心についてメールでお問い合わせおいただくようになりました。
そしてご自分の本当の心について再確認して気づかれる方々もおられます。
人間がこの地上界に出生する以前は、次元の異なった世界に存在し、さらにそれ以前には現在と同じように肉体生命を持って生活していたという事実は、読者の皆さん自身の心の窓をひらいたときに、それを知ることができるでしょうし、やがて地上生命を終えてあの世に還ったときにはじめて知ることになるであろう。
このことは物質界(地上3次元)をみると非常にはっきりします。
例えば、一枚の紙には表と裏があります。つまり陰陽二面性を持っており、その陰陽二面性はそのまま調和につながり、一枚の紙を存在せしめています。
私たちの肉体についても魂という普遍的な生命が同居し、生活しています。
死は肉体と魂の分離であり、肉体は土となり、魂は次元の異なる世界に帰っていきます。
紙は灰になり、土になり、エネルギーとして大気に戻っていきます。
この原理は地上生命の動物、植物、鉱物のあらゆるものに働いている法則である。
仏教には色心不二という言葉がありますが、これは肉体と精神は同時存在していることをもいっています。
物理学では、「質量と光の積は仕事をなし得る能力」と説明していますが、これは物質にはそれぞれの質量に応じたエネルギーがあるということをいっています。
仏教も、物理化学も、そのいわんとするところはともに同じでしょう。
私たちの普遍的な生命(魂)は、あの世という四次元以降の世界よりこの地上界に、自分自身が望んで両親を選び、経済的に豊かな環境に生まれるのも、貧しき環境を選ぶのも、そして不調和な環境を選ぶにしても、それぞれが望んで出てきているものです。
そうして生まれてきた出生の目的はとなると、己の魂の向上であり、調和にあります。
物質経済は生きるための一つの手段にすぎません。
地位や権力や経済の多寡によって人格が定まるものではさらさらありません。
ところが人間は、自分自身の知識に溺れ、物質経済の奴隷と化し、地位ある者、権力ある者が民衆を支配し、争いと闘争を生み出しています。
そのような現象はウクライナのロシア介入にも表れており、有事の危険性もあり得るような緊張状態にまでなっております。
何のことはない、国をあずかる最高責任者が和平を宣言すればよいだけのことだが、しかし、権力者の自己保存のエゴがここにも働いているということでしかない。
それでも私たちの魂は、この地上に出生して来るときにはほとんどが、あらゆる転生輪廻をくりかえし、偉大な丸く大きい豊かな心を所有していたのです。
人間の五体は、母親の胎内で約三ヵ月目ぐらいでほぼ形成され始めるとされています。
各人の魂はその時期になると、はじめてその胎児の中にはいり、人生において生涯世話になる肉体について確認をします。
この頃は母親につわりという現象が出ます。
つわりは母親の意識と胎児の意識(波動)のズレが原因で発生しています。
それが証拠につわりに苦しむお母さんが心を調和し、胎児に語りかけるとつわりが治まることで理解できるはずです。
赤ちゃんの魂のバイブレーションとお母さんの心の調和を図りバイブレーションを共鳴させること、それが調和です。
調和とは一切の偏った価値観を改めること、執着、エゴを手放すことです。
胎児への入魂は、各人(赤ちゃん)が自ら望んだものです。
かくて十月十日、母親のお腹の中で成長し、出産の刹那に、各人の魂は、四次元のあの世と断絶し、地上の制約のなかで生活します。
この時点で魂の90%は潜在し10%の表面意識で生きることになるのである。
これは視点の問題ではありますが、出産はあの世からみると死であり、私たちの肉体死はあの世では誕生ともいえるでしょう。
この世ではさようならですが、あの世ではお帰りなさいです。
乳児は一週間ぐらいたつと、周りに誰もいなくても、また教えないのに笑顔をみせます。
これはあの世にいる魂の兄弟や友だちが、乳児の前途を祝福にきたり、出生のはなむけの言葉に対する応答の現象でもある。
厳しい物質文明の奴隷と化さぬよう、人々と手を取り合って使命を全うする目的を果たすことを誓い、祝福に来た魂たちと交信し、乳児の魂は笑顔をみせるのです。
正に無垢な赤ちゃんの魂にはあの世の兄弟、友人の姿がみえているのである。
私たちが小学校を出て中学に、高校、大学に進み、社会人として巣立つときには、社会のため己のためにと、希望をもって出ていくように、出産の場合も、百人が百人、こうした気慨をもって出てくるのです。
ところが成長するにしたがい、自己保存が育っていって自我の虜になってしまう場合が非常に多いのである
自我心の芽は、肉体の五官(眼、耳、鼻、舌、身)によって増幅されていきます。
それだけに家庭環境における両親の調和された生き方が重要視されなくてはならないのである。
魂に内在された偉大なる智慧は次第に遠のき、闘争と破壊という不調和な環境をつくり出していきます。
人類の歴史は調和の日々より、暗闇の歴史といってもよいかもしれません。
現代は資本主義と社会主義の二大思想が対立し、調和された人間の神性仏性は、いつのまにか、物質文明に集中され、武力は資本力に支配され、労働者は団結してこれに立ち向かうという争いの場を生み出しています。
争いの根本は、すべての規準が物質経済におかれ、人間信頼という出産時の約束を忘れ去ってしまったからにほかならないでしょう。
しかしともあれ、私たちの一切の苦しみの根元は、他人でなく自らの肉体の支配者であるところの魂、己自身の心なのだということを忘れないでいただきたい。
喜怒哀楽を生み出すものは、他人のせいではなくすべて自分の心です。
本来の宗教はこういったことを教えてきたのですが、それすらもいつのまにか偶像崇拝になり、他力本願になってしまい、自分は楽して自助努力を怠り、神に祈れば救われるという間違った方向に進み、自分の判断、決断をせずに霊能者にお願いして被害に遭っているということになってしまったのです。
各人の心の中をひもといたときには、あるときは豊かな環境で人生を学んだことがあり、あるときは貧しい環境下で厳しい修業を選んで帰ったときもあるでしょう。
円には始めもなければ終りもないように、私たちの生命はあらゆる体験を積んで、現在地球上という環境のなかで、自分の本性を悟るべく修行しているのです。
ものにはすべて原因と結果というものがあります。
苦しみや悲しみ、病気にしても、そこには必ず原因があるものです。
うつ病に長年苦しむ人、パニック障害で不安と恐怖心に戦々恐々としている人、宗教被害に苦しむ人、霊障だといって自分の心に責任を持てない人、みなそれぞれに自分の心に端を発しているのである。
例え、霊障があるにしても、自分の心のバランス、不調和を改めるべく決心と努力をしなければ霊障は克服できない。
精神のアンバランスは自律神経である交感神経と副交感神経の働きをアンバランスにし、結果的に身体に様々な自覚症状をあらわすようになってくる。
体には特定できるような病態はないが胃腸の具合が悪いとか、胸が苦しいとか、呼吸が苦しいとかいわゆる医学的には心身症といわれるところがそれである。
そこで、その結果、症状、現象を修正するには、まず原因を追及し、その原因(心の癖)を正道に戻さなければなりません。
原因をそのままにしておいては、結果の好転は望むべくもないのです。
しかし、だからといってただ単に瞑想することは危険性を伴います。
何故なら、心の内にある不調和な想念(エゴ、執着、拘り、知識の偏重、プライド、驕り、不満、愚痴、怒りい、嫉み、責任転嫁、言い訳、間違った知識、偏った思考)が残っているからである。
このような状態で瞑想をすると邪悪な者の関わりを簡単に招き入れることになる。
いびつな心が不調和な結果を生み出しているのですから、本来の丸く大きな心にすべく、その原因を、偏りのない正しい道という物差しによって一つ一つチェックし、以後そのような原因を作らないように努力することです。
愛に生きるには、先ず上述のように、心の執着、エゴをとりのぞく反省の行為を怠らぬことである。
キリスト教では懺悔といい、仏教では反省を止観といっており、禅定の基礎も、中道に照らした反省にあります。
中道(偏りのない心)に照らした反省とその行為が生まれてくれば、間違った原因がとりのぞかれたことなのですから、天の光がふり注がれ、この世の生活は自然と整ってくるのです。
誰の魂にも本来与えられていた慈愛の光を、自らの力によって心のスモッグを取り去ることで再び輝かせることができるものである。
偶像崇拝や祈りによって心の安らぎがあると思う人がいるとすれば、それはその時だけの瞬間的なものでしかなく、逃避的なものであったり、自己満足、自己欺瞞(ぎまん)である、といっても過言ではありません。
信仰は対象にあるのではなく、己の心の内に潜在する神性仏性を信じて中道、すなわち偏りのない生き方を実践することによってのみ真の心の成長があるのであり、安定が生まれてくるのではなかろうか。
他力では決して人は救われることはできないのです。
次に大事なことは足ることを知った生活です。
足ることを知らないがために争いが絶えないのです。
足ることを知ることによって、自分一人がこの地上に生きているのではないことがわかるのですから感謝の心も生まれてきます。
この自然界は、万生万物が相互に関係し、依存しながら生活しています。
空気があり、水があり、樹木があり、海があり、氷河があり、川があり、大自然があればこそ、各人の肉体は保全することができるのですし、自然界のこの大慈悲に対して、我々は、無条件に感謝する心が生まれてくるはずです。
感謝の心は、行為によって人びとに尽くすこと、社会に還元することです。
感謝は報恩という恩に報いる行為の輪廻によって、はじめてその意義が見出され、実証されてくるものです。
世の中には感謝、感謝と言いながら、行為という勇気に欠けている場合が多いですが、報恩は、行為という勇気なしには実を結ぶことはないのです。
おわかりいただけるでしょうか。感謝という心と、報恩という行いは常に循環してこそ調和された働きとなり、慈愛のエネルギーとして人々に伝播していくものである。
「ありがとう」という言葉を一日百回言ってください。という指導をうけた人が事あるごとに「ありがとう」を連呼していた。
しかし、この言葉からは何らの温かさも、真心さえも感じることはなかった。
何故なら、極端に偏りすぎた連呼の挨拶は嫌味のような錯覚さえ感じさせる響きがあるし、耳障りで聞きにくく圧迫感さえ感じてしまう。
これを会話だけでなく、メールのやり取り全部で文章の頭に「ありがとうございます」、文末に「ありがとうございます」と受信するたびに「ありがとうございます」を繰り返されるともはや邪魔にさえなってくる。
やはり何事も程よく偏らずに一言「ありがとうございます」で良いのではなかろうか。
孝行したいときに親なし
形あるものは崩れ去っていきます。
全ては無常です。このままということは決してない。
どれほど豊かで勢いある人でも、風の前の塵の如く、やがては朽ち果ててこの世の人生を閉じるときが必ずくる。
現在健康であっても、いつの日かその肉体は朽ち果て、やがて我々は、あの世に帰らなくてはなりません。
己の人生の一切の責任者は自分であって他人ではありません。
自分自身がすべての根本です。
それゆえ、人はあの世に帰っても個性を失うことはありません。
これは霊が人の身体を借りて語る内容によってその個性が違うことで証明されます。
物理学の法則と同じように、魂もまた等速度運動をしながらあの世に帰っていきます。
病気で苦しんでこの世を去り、その病気の原因を追及せずして心が不調和なまま肉体が破壊されあの世に帰ったときには、その病気の状態であの世に堕ちていくのです。
肉体はあくまで人生という航路のための船でしかありません。
私たちの普遍的な肉体の主は魂であるということを知っていれば、肉体にまつわる執着は離れていくものです。
そのときの私たちは、平和であり、その心に比例した世界に昇っていくのです。
思うこと、行うことは、すべて善なる己自身の心の裁きにあっているのだということを知らなくてはなりません。
神が裁くのではなく、閻魔様(えんま)が裁くのではありません。
それだけに、毎日毎日の、一秒一秒の心と行いの在り方が、真実に適ったものでなければならないのです。
かつて地上に降りたメシアたちは、一切の苦しみというものは自分自身がつくり出し、苦しみから解放されるには、苦しみの原因をつくらないようにすればよいことを発見していきます。
ゴーダマ仏陀は、四十五年間この神理を説き、後にその教えはチベットを超えて中国に渡り、日本に伝わりました。
現代は、偶像を拝む他力にかわり、真の信仰は形骸と化しています。
葬式仏教、観光仏教、学問仏教、哲学仏教が今日の仏教の姿となってしまいました。
しかし、人間の心というものは、決してそうした形骸化されたものではありませんし、とてもシンプルなものであります。
一秒一秒の生活、心の在り方が信仰であり、勇気をもって修正する己自身に、すべてが託されており、悟りの彼岸も、八正道という正しい道を行じるなかにあることを知らねばならないでしょう。
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。
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