虚しい虚栄心

霊体

いつも相談者と対峙し、問題を解決するべく、話すことの内容に心を傾けるのだが、本心を見せて事の経緯を語る人もいれば、自分の本心を見せまいとして語る人もいる。

多くの人々は、自分の心の欠点を他人に見せたくないため、常に欠点をカバーしようと意識が働き、却って欠点を上乗せしてしまう。

自らを飾ろうとする自己保存の心は、逆に自分の心に暗い想念の曇りを作ってしまう結果となるものだ。

自分の心と裏腹に、外見的に飾る心は、自分自身に対しても、他人に対してもむなしい淋しさを感じさせることになるだろう。

自己保存の本能によって、他人に嘘をつく。

嘘は嘘を生み、自分自身を小さな殼の中に閉じこめてしまう。

また、他人を批判することで自分を優位に見せようとする心理、自分を正当化しようとする虚飾。

それは哀れな境地だ。

しかし中には、女性が美しくありたいと思う本能、着物や化粧によって外見への調和を計ろうとする場合もあるでしょう。

より美しく見せようとする行為は、むしろ自分自身と外見への調和であり自然の姿でもあろう。

だがそれも、自分でできる範囲の美しさの表現で良いのではないだろうか。

うつ病で自分の体が思うようにいかず、毎日の生活に支障があるほど辛い思いをしている若い子持ちの主婦が、自分の目元をもっとスッキリさせたいといって下見のために、東京まで3時間を掛けて往復したといっていた。

勿論、私は反対したのだが、彼女は美への執着のために、体のことも考えず強行したのだった。それから一週間ほど動けなかったと話していた。

十分に恵まれてきれいな人であるのに本人は不満なのであろう。

執着とは恐ろしいものである。

あるいはまた、人間、いかに苦しい病床にあろうとも、見舞客に対し笑顔を見せるというような思いやりのある人もいたが、こういった心掛けも、相手に対する報恩の表現といえよう。

なぜなら、それは肉体の故障であって、心の欠陥ではないからである。

病気というものも、原因があるから結果となって現象化されている状態であり、原因追及、反省の良い機会だと捉えたいものだ

「嘘も方便」とは、それが第三者に対しての調和へのものであるならば、慈悲の姿といえ、菩薩心の表われともいえるだろう。

良く、心の中で恨み、妬み、そしり、怒りを持ちながら、相手に対面するとその心とは裏腹な言動を以って褒めたり、媚びたりする人がいるが、これは正しい心の在り方、調和ではなく自己保存の虚心としかいえない。

相手の行為と自分の不調和について語り合い、お互いに了解し合うことが、調和への第一歩であり心のこだわりを捨て去ることになるだろう。

それに反することは、正しく見、正しく聴き、正しく語ることに反する結果となる。

自分の虚栄心を行動で示したところで、苦しみを造る結果のみでは虚しいものだ。

「武士は食わねど高揚子」という武士道の精神がある。

しかし、これは日本的なもので、真理にはほど遠い一つの虚栄心にしかすぎず、自己保存以外のなにものでもなく、調和を害する考え方である。

心に嘘のない生活、それが人間らしい生き方であるからだ。

心に在ることを、素直に謙虚に語れる人々は、想念に曇りを造らない心の美しい人々である。

なぜなら、心に曇りがないため苦しみや悲しみの原因を造らないし、その心は神仏の光と同じく全身が覆われているからだ。

人は、苦しみや悲しみの結果を知っているなら、それを造り出す”縁”に触れないことである。

正しい生き方の法則は、こうした偏りのない自分を造り出すための道であり、魂を浄化して行くための神意であるといえる。

しかし、地上生活はどうしても物質や経済、そして肉体中心の生き方となる為に、自分の中にある神性仏性を忘れ去ってしまうのである。

それは、この世とあの世への等速運動的な、慣性の法則と同じ状態が、私達の魂の修正過程に起こる現象である。

過去世においても、この地上界で生活をしていたときの物質的な執着心、自我我欲で神性仏性を失った人々の世界だからであろう。

また、指導霊や守護霊達は、私達がこの地球上に生まれてきてから現在も将来も側に付いている天上界の人々であるから、地上で生きている人間の性格や特徴をすべて知っている。

私たちの魂は、肉体的な外面に出ない意識の記録として、すべて正しく色別に記録されており、否定することは不可能である。

これらの事実は、夢や錯覚や自己催眠では決してない。

としたら、これを非科学的として否定することができる論拠はなにもない。

もし否定する者がいるとしたなら、その人々は本当の自分を知っているのだろうか。

否定は結論であって、探求を中止することだ。

今から百数十年前に、テレビジョンやラジオ、無線機の実用化を想像できただろうか。

科学も魂の四次元世界も、否定する前に疑問を持つことだ。

疑問を持ったら自分自身が探求し、科学することによってその解答を得ることが必要だ。

多くの霊的現象が現われている事実を、誰も否定することはできないであろう。

心を忘れ去り、頭のみで学んだ知識によって否定する者は、智に溺れた、不自然なものへのノスタルジア(郷愁)を持つ者にしかすぎない。

自己慢心、増上慢、このような人々は、容易に他の意見を聞かず、自己の小さく狭い考えを主張した人生の極端を歩む者達である。

他人の生命を軽んじ、いかなる犠牲をも強いる人々である。

正しい結論は、自ら体験をして、あらゆる角度から探究をし、疑問を解明してこそ出るというものだ。

根拠のない否定は、自らをも否定することになろう。

人生は不可解なものではなく、自分自身の心の在り方と行為が、難解にしてしまっただけなのだ。

また永い歴史と、人間の智と意の産物が、真の摂理という宝庫の扉を閉ざしてしまっただけなのだ。

私たちは自分の心の内にある輝ける神性仏性に気づかなくてはならない。

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