間違った信仰の恐怖

真如苑
40代主婦 A・Yさんのメールから(許可を頂いて掲載してあります。)
観童さま
アドバイスいただいたあとも、毎日ブログを読ませていただいています。
いつも自分と重ね合わせて、毎日感謝の気持ちを持って、前向きに過ごせるようにと思っています。
本日のブログ(信仰の落とし穴・投稿日: 2013年10月16日)の内容は〇〇苑のことかと思いますが、実は私も、人生に希望もなく、周りに来てくれる男性との付き合いで気分転換して過ごすような毎日ではいけないと、心のどこかで思っていました。
職場の同僚に勧められるがまま〇〇苑の会員になり、3年ほど年会費を払って、誘われる集まりに都合がつけば出かけていました。
教主の女性は開祖の御嬢さんですが、確かに何かオーラのようなものはありました。
しかし、集まりでお経を唱え、その中に教主やその妻、子供を崇める文言があり、「何か違うな」とずっと思っていました。
しかし、ご利益祈願のように、○○護摩のお布施、と度々1口500円のお金を出すように言われ、その度にお願いしたいことを書いて従っていましたが、次々と建つ立派な建物をビデオで見せられては、「やはりおかしい」との気持ちが大きくなり、同僚には「神様は特定の個人でなくとも、もっと大きな存在をもって祈る気持ちを持つことができるのでは」ということを伝え、もう教えを続けられない旨をはっきり告げました。
それ以来、何も言ってこなくなりました。
自分には観童さんの宗教に対する考えがピッタリとくるものがありました。(ここまで)
またある女性Kさんは、両親に反対されるなか、15年ほど信仰していして、教師で青年経親でしたが、〇〇苑に疑問をもったのは、親部の経親、それに連なる導き親の人達、事務局の方達の疑問だらけのほんとうの姿をみたからだといいます。
苑の人間関係に疲れてしまっていて、経親、導き親、導き子、事務局の人に責められる日々。
接心に取り組んでも、心は晴れず、行き詰まった気持ちだったが、これも修行だ、私が足りないからだと言い聞かせていたが、精神的に限界だったという。
接心とはいっても心が晴れるはずがない、何故なら苦悩の原因が生老病死をはじめ、心の仕組み、心の傾向性というもの知り、修正する努力がなされていないからである。
この女性Kさんは無宗教の男性と結婚して幸せに暮らしている。
「宗教をやめてこんなに楽に暮らせることを知りました。」これがKさんの心からの言葉である。
宗教を入信して心に疑問をもったら、自分の心から出る疑問を打ち消してはならず、こういうときは距離をおいて客観的にみることで真実や実態がみえてくるものである。
さわらぬ神にたたりなし

科学万能の時代とは言いながら、私たちの心の支えとして、神仏の信仰は、日常生活の中に生き存在している。

特に仏教における先祖供養の儀式は朝夕の行事として、生活の中に溶け込んでいるといえるでしょう。

宗派によって題目はちがっていても、勤行の心は変わっていないようだ。

神道は「祝詞」を神前であげ、礼拝をしている。

神社、仏閣、教会にお詣りにいく者こそ、信仰深い者ということになっている。

しかし、多くの信仰深い人々も、決して神仏の真の意図を理解することもなく、古来の習慣と伝統として信仰生活をしているようである。

あるいは教団や教祖、指導者たちの作為的な教導に疑問をもちながらも神罰、仏罰を恐れ、ご利益や力が無くなるのではないかなどと怯えた生活をして精神疾患者となり失職する信者もいるのである。

人々は誰もが幸福な人生を送りたいと願い、信仰はそのためと思っている方々が多いようですが、寺院や教会で、お坊さんや牧師の説法を聞き、心の糧として生活している信仰者もある。

なかには厳しい修行に耐えて、神々の声をきき、衆生済度に立ち上がった、生き神様だと言われるような人もあり、多くの信者の苦悩を救う指導者もいる。

私たちの周囲をみると、こうした数えきれない信仰のさまざまな姿が雑居している。

だが、正しい信仰もわからぬままに、その険しい人生経験を積んでいる人たちが意外と多いのではなかろうか。

たとえば、信仰者となったがために、心に足枷をはめられ、神仏の裁きや罰を恐れ、宗教指導者の奴隷になっている人々、これは計り知れない膨大な数だろうと推測される。

このようなケースは信者も無知なら、宗教指導者もまた故意であり、無知といえよう。

そして、宗教指導者が故意にそれをやっていたにしても、やがてその苦悩のハネ返がその指導者、信者に戻ってくることになる。

真実の法則を知るならば、故意の罪がいかなるものかがわかり、良心が働くならば他の人びとにそれを求めることができなくなるはずである。

その意味では宗教指導者ほど間違った方向にいった場合の罪は恐ろしい。

なぜなら指導者は信者の善意の上に立っており、間違った指導者はそれにあぐらをかく恐れがあるからだ。

したがって、間違った指導者ほど救い難くなり、常人の罪より一層深いものとなる。

神理はひとつであり、それは正しき心と行ないの物差しに沿った生活しかないということを、指導者も信者も知らなくてはならない。

そして、その中から豊かな心と安らぎある生活が生まれ、真実の人間に立ちかえるということだ。

神仏は、人間社会の物質経済の高低によって、その人を差別したり、地位や名誉で人間の価値を定めることはしないが、人間がそれをやっているのである。

いかにして万物の霊長であるという自覚に目覚め、正しい中道の心を生活の中に活かすか、そうして、万生万物相互の調和を図り、悔いのない人生を送っているかということが大事であり、信心信仰も、ここに帰一されるものである。

巷には神と称するさまざまな神(?)が存在し、信者を集めている。

神は人間社会に、ストレートに現われるものではない。

こうした誤った信仰によって、幸福を求めながら不幸に陥っている人が非常に多いことを聞き、見てきた。

信仰は通常、私たちの五官では感じることのできない世界だけに「さわらぬ神に祟りなし」この諺は、今も生きているといえるだろう。

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