偽我は本当の自分ではない理由

2020年3月7日

本当の自分って何ですか?、本当の道って何ですか?と聞かれたことがあります。
よく聞く聞く言葉ですが、まことのことわり即ち真理、不変の法則というものを知っていて少しでもそれに沿った生き方をしている自分が本当の自分だろうと思います。
日本人は、永い間「罪悪深重の凡夫である」と自分のことを思ってきたところがあるようです。
罪悪深重とは、人間は、重く罪深い、迷える生き物だという意味でしょうか。
しかし、そういうことは本当の自分ではないということを知っている真我、つまり、まことの自分こそが本当の自分だと思うのです。
言葉を変えるならば、「自己の確立」は、「真我なる自分」を自覚することではないかと。
ですが、自分を知ることほど難しいことはありません。
偽我なる自分を自分だと思って、この偽我なる自分をよくしようと思っても、それは手にくさいものを握って、臭くないようにしようと手を振り廻しているようなもので、臭くないようにしようと思ったら、手に握っている汚れたものを捨てればよいだけのことでしょう。
これと同じように、偽我なる自分は本当の自分ではなかったと気づいたら、その手から、その心から放してしまって、真我こそ本当の自分であったと心から自覚し、以降は発想の転換をすることが大事だろうと思います。
心の大きさ、豊かさ、明るさは、この世の人生だけで築かれるものではなく、前世、その前の過去世と、永い輪廻転生によって、どの程度、真我なる自分、もっと深く言うならば、「宇宙即我」なる自分を自覚できるか、自覚しているか、その自覚の程度によって決まるだろうと思うのです。
その自覚を深める為には、心を静めて、自分を省みる瞑想、禅定、を必要とします。
だいぶ昔に教育テレビでおこなった「瞑想の時間」という番組で、瞑想は壁に貼ってある曼荼羅を半眼で見つめて無念無想になるという説明がありましたが、これは必ずしも正しいやり方とはいえないところもあるようです。
私が思う正しい瞑想禅定は、自分が「神の子である、真我である」ということを、念を集中するのではなくて、まったくそのまま、素直に認めることから始めることだと思います。
この瞑想禅定によって、その人の心の大きさ次第で自分から離れて自分を、そして他の世界を客観視できるものです。
ですが、私自身が今もってそうですが、外界のことに心を乱してしまうと、冷静さを見失い、本当の自分を見失ってしまいます。
本当の自分、真我なる自分のままでいることは容易いことではありません。
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