徳・業とはどんなもの?

2020年3月7日

親の徳により子どもの運命が変わるという教えがあるようですが、はたしてこれはほんとうなのでしょうか。
それならば、親の徳とはどういうものなのか、子どもの徳とはどういうものだろうか。
きょうは徳について述べてみたいと思います。
徳とはなんでしょう。
私が思う徳とは、心に偏りがなく、正しく、人に善をつくしてゆくものではないかと思っております。
特に宗教の世界では、これみよがしの「徳を積みなさい」が多いと思いますが、そうした徳は徳とはいわないように思うのです。
他人に気づかれず、ただ黙々として、慈善を行っている人も知っていますし、まさに文字通り陰徳を積んでいる人、こういう人こそが徳行の人というのではと思います。
例えば、小さなことかもしれませんが、道路や電車の中に紙や新聞紙が落ちていて汚れている、人にいう前に、そうしたものを黙って拾い、町や車内を明るくする人、そういう人をいうのでしょう。
それではそういう私自身はどうなのかといいますと、小さなことではありますが、春と秋に二回ほど、自宅から学校までの道路脇の側溝からゴミ拾いをし、通学路を守るために草刈りなどを楽しみます。
草刈りをすれば道路がきれいになり見通しもよくなり、子供たちの安全にもいいし、とてもすがすがしい気持ちになります。
私の住んでいる岩手山麓は、道路整備が行き届いていますから交通量も相当なもので、車の窓からポイ捨ての空き缶やビン、お弁当の食べカラ、雑誌までと様々なゴミが道路わきに溜まっていきます。
何よりも自分が毎日通る道ですから、清掃したあとは気持ちがいいものです。
さて、徳の話ですが、徳の多い人は、人から慕われるであろうし、歓待をもうけるでしょう。
徳は心の財産であり、人間として尊敬もされるでしょうし、他に対しても穏やかに接しようとする姿勢を忘れていないと思います。
しかし、徳を積むとはよく聞きますが、その歓待を期待して徳を積むわけではなく、尊敬されるために徳を積むことであってはいけない。
町や車内を明るくすることが、自分にとっても、町や車内にとっても気持がいいからするわけです。
そうしてそのことが、間接的には人びとの心を明るくするわけです。
人びとの関心を集めるために、または徳のために徳を積むわけではないということ。
ある宗教団体では、その教団に奉仕することが徳を積み、子孫を繁栄させるものだと教えられ、暗黙に強制しています。
こういう教えが存在することをどう思うでしょうか。
しかし、徳というものはそうした特定の場所だけしかないというものではないだろうし、社会のいたるところに転がっていて、その機会も限りなくあるでしょう。
神を語り、仏を語り、教団に奉仕することが徳を積むことと指導することに疑問をもたずに奉仕する姿は、純粋というより、何かしら不可解な観が否めません。
徳を積むことは決して特定の場所や、人がいる、いないに関わりなく為せることです。
もしも、神仏の加護、守護指導霊の加護があるとするならば、それはその人の徳に応じて、あなたを守り、あなたの家を守ってくれるでしょう。
徳は心の調和の現われであり、そうした心と行いの家庭が不調和になることは少ないと思います。
徳を持っているのも人間、業を持っているのも人間、とするならば、何かしら問題があっても徳の部分が業を上回るだけのものであれば、やがてはそれを乗り越えていくでしょう。
人間は今の姿、今の状況をみて人となりを判断しますが、実は、今の姿はこの世に生まれてからの人生だけでできた徳でもなければ、業でもありません。
前世、その前の前世(過去世)という連綿と続いてきた魂の輪廻のなかで培われてきた魂の姿が今のその人の姿でもあります。
人によっては輪廻転生の過程において黒い想念を身につけていく人もいるでしょう。
逆に、よくよく自分を省みて自分の悪しき想念、つまり黒い想念に引かれないように心して少しずつ心をきれいにしていく人もいます。
自己のなかにある黒い想念は、人の意見が正しいと思っても、その意見にあえて逆らい、反対方向へと自分を持って行ってしまいます。
奇癖、頑固、優柔不断、執着、これらはみな業のなせる作用、すなわち魂の癖といえます。
業にしろ、悪想念にしろ、執着にしろ、私たちは、大なり小なり、その影響を受けながら生活しているのが現状でしょう。
こういった自分の魂の癖から抜け出す方法は、ただ一つ、何を行うときも心には中道の物差しをおいて、それに照らし合わせて思い、行動するすることだと思うのです。
いつの時代も家庭の問題、親子関係において悩みはつきず、その背景には、親も子も輪廻のなかで、それぞれの人間形成がなされてきたのであって、今の姿だけをみて人生を憂いて悲しむ必要もありませんし、悲観してもならない。
十代、二十代で人生につまづいても希望を失くすることなく、やがてくるであろう雪解けの春を待っていたいものです。
前世、過去世からの、ある程度の徳をもって誕生したとしても、子どもは両親の感化を非常に受けやすく、その意味においては親が日々の調和を忘れることなく生活する必要があります。
したがって、両親の徳、不徳(不調和、業)が子どもに影響を与え、その子どもの将来に強く影響してゆきます。
つまり、子どもの運命に大きく作用してつくり上げてゆきます。
俗に「親の光は七光」といいます。
親の徳が子供や子孫の生活に影響を与えることはたしかですが、子ども自身の魂に徳がないと、恵まれた環境にあっても、親の徳は長続きしません。
基本的に、親と子の魂はそれぞれ異なっており、同一ではないので、その運命のあり方も、当然、違ってくるからです。
親子といえども、肉体こそ親からいただいたことは間違いありませんが、魂だけは親から授けられるものではありません。
すなわち、親の修行と、子の修行は、同じ環境下で生活しながらも目的や使命、役目、といったものはおのずと別であり、子どもには、子どもとしての人生の目的なり、使命があるからです。
子に対する親の役目は、子どもが成人し、社会人となって、人間としての道をはずさない立派な一員になるよう導くことであり、それ以上のものでも、以下のものでもないでしょう。
子は、自分の人生を自分の足で歩んでいかなくてはなりません。
また、親もいつまでも子どもの足取り、手とり、金を与えて自立心を削ぐような、節度を超えた溺愛は避けなくてはならない。
親の想い、想念は、愛と思っておこなっていても、それが偏ったものであれば、その想念によって子どもを縛ってしまうこともあり、煩悩的に子どもの安全のみを願うと、かえってそれが災いし、子どもを不幸にすることになるから気を付けなくてはならない。
たとえ愛とはいっても、過ぎた想念はかえって人間の自由を奪う想念となることを知っておかなくてはならない。
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