人生航路の羅針盤
友人の結婚式に招かれて感動に涙するとき、肉親の死によって大きな悲しみに暮れるとき、末期ガンの友を見舞いながらもかける言葉が見つからないとき。
何気に暮らしている日々の人生模様と心の機微、喜怒哀楽という一喜一憂は私たちの生活で起こるさまざまな出来事のなかにみることができます。
楽しく幸せに暮らしたいと願いながら生きている毎日ではあろうが、それだけではない大事な人生の目的があることも見逃してはならないだろう。
人生は前進したり、立ち止まったり、時には嵐に遭って後退したりすることのなかで、気づき、楽しみ、苦労もすることは、洋上をゆく船旅や、漁師の命をかけた働きにも似て、文字通り人生航路といえる。
全ては天の法則のままに
きょうは、この船の進行方位を決める羅針盤ともいえる心の基準、法則について話をすすめてみたいと思います。
人類への正しい天の教え、それは大自然の法則と、人間の心と行ないが調和された道、だと思うのですが、これを以って天の法則とここでは表現することにします。
春夏秋冬の季節、昼と夜の違い、生きている者は誰もが老い、必ず死すること。
すべての現象や出来事には必ず原因があって結果があるということ。
これらすべてのことが、正しい生き方の教えである天の法則に適わぬものはないでしょう。
大宇宙の営み、大自然の姿がこれからも変わらない限り、私たち人間の生き方も、そしてその基本も変わることはないと思うのです。
そして、正しい生き方の法則は永遠であり、なにも宗教の哲学的用語のなかにのみあるのではないということ。
気づきや悟りというものは、とてもシンプルな生き方のなかにみえてくる傾向があり、私達の身近な生活環境のなかに、その法則は存在しているということです。
心健やかに生きるための原理、ヒントは私達の手のとどかない遠くに存在しているのではなく、騒ぐ心を静め反省するならば誰にでも気づく存在のものだと思います。
したがって、人が永遠の生命を発見しようとするならば、天の法則を学び行じる以外にそれを果たすことはできないのではないか。
自然はいつでも、常に私たち地上の人間に生きる方法を教え、大きな慈しみを与えています。
真偽
真は偽の反対、偽があるから真があると人はみるかもしれない。
だが、天の法則の理は、ただひとつの真理でなくてはならない。
その真理である天の法則の理はとなると、大自然が教える理(ことわり)です。
何故なら、人間は大宇宙の営みのなかにある大自然から離れて生存することはできないからです。
類は類を呼び、友は友を呼ぶ。
心は万物を生かし、愛はすべてを癒します。
心温かき者には心温かき者が縁を結ぶことになるでしょう。
水は高きより低きに流れ、低きに流れることによって、その生命を保ち、温度という縁にふれて気体化して蒸発、上昇し、雲となり、雨となり、雪となり、ふたたび地上に降り注ぎ、あらゆる命を育んでいます。
このように、已に真っ当に生きる人は、人をも生かします。
天の法則にもとづく理(ことわり)は、永遠にして不変である、ということです。
いかに天の法則といえども、実践のない法則は、あたかも絵に描いた″モチ″であり、その味わいは解りません。
天の法則は、生活のなかに生かされてこそ、生命が宿るということ。
私たちのまわりの自然に目を向けてみてほしい……。自然は、私たちが眠っているときさえも一刻の休みもなく動いています。
停止することもなく……。
自然は常に動き、留まることなく循環し、輪廻するからこそ天の法則はそのなかに生きているということがわかります。
このように、天の法則は、右にも左にも、上にも下にも偏らず、バランスのとれた中道によって保たれながら生きています。
天の法則は知識であってはなりません。
固定的な観念でもない。
あくまでも行ないだということ。
大自然がそうであるように。
天の法則を悟った人は、行ないによって、大自然と一体になることができます。
それが成されたときこそ宇宙即我の境地の極致といえるのでしょう。
そこには自他の区別がありません。
自分の心が拡大され、自分の心が宇宙そのものであり、その宇宙から自分の姿を見ている。
自分の拡大された意識のなかにすべての生命が息づいていると実感します。
この地球上の万生万物は、すべて循環し、片時も今の位置を保つことはできないという無常の姿が実感されます。
想念
人の想念も、大自然の姿と同じように輪廻という循環を続けています。
悪い想念は、悪に通じるが、幸福を求めるならば、まず悪の想念から離れること。
怒り、憎しみ、そねみ、嫉妬、中傷など、こうした想念を摘みとり、責任、博愛、勇気、智恵、努力、進歩向上、調和など、善の想念を抱くように心がけることです。
不平不満をいっていながら幸せになりたいと言い、『私が何を悪いことしたというのよ。』と愚痴と怒りをあらわにするようでは根本が天の法則から逸(そ)れている。
人の幸不幸の根本は、毎日の心の想念と行為の結果にかかっているということです。
多くの″物″を持つ者と持たない者。そのどちらが幸せであろうか。
もし、持つ者がそれを失うまい、手放すまいとして執着したり、より一層殖やそうとすれば苦しみが伴ってくるでしょう。
人は持つ者を羨(うらや)み、嫉妬もするが、持たない者が、それを欲すれば、欲望のとりことなり、これもまた苦しみの種となるものです。
このいずれも不幸な者達であり、厳しいかもしれないが、心貧しき者といえる。
貧しくとも心まで貧しくしてはならない。
一日の主食は、わずか三合の玄米と少しのおかずで足り、起きて半畳、寝て一畳という言葉が示すように、住居の空間は、数平方米で足ります。
私たちは自分のおかれた立場、環境によって学ぶことがあり、自分の分を知り、わきまえて生きるという謙虚な意識も忘れてもなりません。
何も畳一枚で生活しろという意味ではないが、足ることを忘れてはならないということ。
また、物の多少に幸、不幸があると考える人は、本当に不幸です。
必要以上に物に執着してはならないし、その執着が自らを苦しめることになります。
何故なら、根本的にあらゆる物質は、やがては、大地に還元されてしまうものだからであり、人は、生まれたときも、死ぬときも、身一つだということを、忘れてはなりません。
否、死ぬときは身ではなく心ひとつである。
幸せな人は失うもののない人で、常に足ることを悟って生活をする平和な心の人々でありましょう。
物は必ず失わざるを得ないが、唯一、心だけは失うことはありません。
しかし、現実には、その心さえも見失っている人たちもいるのである。
あまりにも周りを見過ぎて自分の内面、心を見ようとはしない生き方の人です。
この大宇宙大自然界は、天の意識である慈しみと愛によって存在しています。
人間もまた慈しみと愛の心の所有者であります。
天の法則という、大宇宙の意識にふれた者は、まずその心を持ち、その意を汲み、実践する者でなければなりません。
自らが行い、他の為におこなわねばなりません。
慈しみを法則とたとえれば、愛は法則の実践行為でしょう。
慈しみを天の意識とすれば、愛は人間の行為を意味します。
慈しみは、万生万物に無限の光を与えるもので、愛は寛容にして助け合い、補い合い、許し合う行為ではなかろうか。
慈しみも愛も、自らを戒めて行う者にその光は与えられるということです。
自分を律して戒めることと、自分を責めて卑下することは全く意味も次元も異なります。
自分を責め、卑下する者は、気を病み、精神を蝕(むしば)まれてしまうでしょう。
心ない者、実践をいとう者には、天の光もとどきません。
愛を欲する者は、愛の行為を示さなくてはならない。
求めるだけの愛は、自己愛に過ぎないからです。
慈しみの扉(とびら)をあけようとする者は、天の法則の心を汲みとることが先です。
窮地の人に手を差し伸べる者は、菩提心に満ちた光りの使者であり、天使であります。
正しく気づき、悟れる者は天の法則を人々に知らしめ、慈しみと愛の光明の輪を人々に与えずにはおかない。
慈しみは、愛という行為によって輪廻します。
あなたが慈しみをもって行為することは愛そのものであります。
慈しみは、天の縦の光、愛は実行の横の光といえるでしょう。
怒りは、そこにどんな理由があるにせよ、破壊のエネルギーとして周囲に作用し、その波動は、やがて已に返り、心を乱し、魂の前進をはばむことになります。
原因のない結果はなく、すべては必然であり、偶然の産物はありません。
子育ても、子どもの為という美名の元に子供を厳しく躾けをするといい、幼子に平手打ちなどの暴力をするなど、やってはいけない行為である。
このような行為は慈しみや愛の名を語った暴力でしかありません。
こうして育てられた子供は心に怯(おび)えと、不安、恐怖心を植え付けられることになり、後になって強迫神経症やパニック障害などの精神的疾患を病むことになってくるものだ。
暴力のある家庭環境に育った子は、体ではなく心に闇をもって成長してしまうのである。
己にきびしく、他人に寛容、実るほど頭の下がる稲穂かな、の心境になるべきです。
常にとらわれのない柔和な心は、天の心であり、法則の心でもあります。
妥協は、調和の姿ではない。
自我が伴うからです。
妥協によって、ひとときの平衡(へいこう)が保たれても、自己主張を通そうとすれば、自分も、他人も、この世は一瞬にして暗黒となるでしょう。
諍(いさか)いや、戦争がその例です。
妥協は、破壊を防ぐ、一時の防波堤にしかすぎず、永続は不可能です。
なぜなら、妥協には、心からの共感がないからです。
調和は無限の進歩と、安らぎを与えます。
調和の根底には、慈しみと愛が働いているからだ。
調和とは偏りのない心と行いを言います。
愛には、自己主張がありません。
驕(おご)りがないし、へつらいもないでしょう。
喜びや悲しみがあったとしても、それにとらわれることがありません。
愛の実践者は苦しむ者があれば、その苦しみを癒し、悲しむ者があれば、光を当てて、希望を与えるでしょう。
愛は、天の心であり、私心のない、天に通じる偉大な架け橋なのです。
この世が、愛に満ちれば、地上には、真の楽園が誕生するはずです。
天は、それを望み、その日のくるのを、辛抱強く待っているのであります。
地上界の人類が調和への霊域に包まれることを・・・・・。
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