亡き妻が導いてくれた。

津波
きょうは一昨年3月11日14時46分18秒に発生した東日本大震災の日である。震災によって亡くなられた方々のご冥福を心から祈念もうしあげます。
毎日新聞―2013年3月10日の記事から
東日本大震災で妻と母を亡くした岩手県釜石市の鮮魚卸売店経営、菊地好広(よしひろ)さん(56)は、一時酒に溺れたものの、ふとしたきっかけから仕事が順調に回り、この2年間をがむしゃらに働き通した。
末の娘がこの春大学を卒業し、親の手を離れる。「妻が導いてくれたのかもしれない」。命日を前に、そう思う。
2011年3月11日、菊地さんは自宅に戻ったところで揺れに見舞われた。
外出していた妻芳子さん(当時56歳)の安否を気遣いながら高台の親類宅へ逃げた。
翌日、自宅と店、母喜世子さん(同83歳)が1人で住む実家はいずれも津波に流されていた。不安を酒でかき消そうと、浴びるほど飲んだ。
遺体安置所に足を運び、16日に喜世子さん、18日朝に芳子さんと対面した。
菊地さんは元々、建設現場で働いていた。
結婚を機に芳子さんの実家の魚屋を手伝い始めたのが今の仕事につながった。芳子さんはいつも「無理はしないで」と菊地さんの体を気遣っていた。
同日昼ごろ、友人らが集まる市内の食堂へ行き、妻の死を伝えた。そこへ店主が戻り、事情を知らずに菊地さんに声をかけた。
「弁当を大量に注文されたのに魚が手に入らん。何とかならんか」。菊地さんは「忙しく働いた方が気が紛れる」と迷わず引き受けた。
しかし、沿岸部の市場は壊滅状態。内陸部の市場で働く知人に頼むと、釜石から約30キロ内陸の遠野市までなら魚を持っていけると言われた。19日から軽ワゴン車で釜石・遠野間を連日往復した。
当時、長女(35)と長男(30)は独立し、次女ひいろさん(23)は看護師を目指して埼玉県内の大学に通っていた。
震災の1カ月後、ひいろさんの誕生日に「おめでとうとは言いにくいけど」と携帯メールを送った。返信が来た。「生きていてくれてありがとう」。
涙がこみ上げ、「この子が社会に出るまで頑張ろう」と誓った。
その後も休みなしで働いた。6月には釜石市内のスーパーから声がかかりテナントを出店。昨年9月に入居した仮設出荷施設には震災前の設備がそろった。
東京都内の料理店にも販路が広がり、「見えないレールに乗っているようだった」。
先月24日、市内で妻と母の三回忌法要をした。集まった親子の話題は昨年10月に婚姻届を出した長男の結婚式だった。「挙式は沖縄でしよう」。
一方、ひいろさんは4月から埼玉県内の病院で働く。
「無理をするな」が口癖だった妻も、2年間働きづめだった自分を怒ってはいないだろう。菊地さんはそう確信している。
※この記事を読んで私が思ったことは、その人の生き様が人間の魂を揺さぶるということ。当事者にすれば、ただ生きる為に必死になっただけかもしれません。
その逆境や試練に遭遇したときに発揮する、人間の真摯な姿、気力というものをみるとき感銘せずにはいられない。
人間は恵まれた環境にいるときほど些細なことに自分を見失い不安や恐怖心を抱えこんで生きているのだが、震災いのような極限状態のおかれてしまったときに強くなれるのもまた人間であろう。
全てを失い、何もないときの方が人間のたくましい本質が発揮されるということを、どのような時も忘れずにいたいと思った。ある漁師は言っていた。『家族を飲み込んだ海を憎いと思ったが、やはり憎めないと、海が好きだし、海によって生かされてきたから。』と。
私は、この言葉に、こみあげるものを押さえきれなかった。
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Posted by kansindo