不安と恐怖心を超えるために

不安・恐怖心
『自分は死ぬかもしれない。悪性のガンかもしれない。』といって心を乱し、家族にも当り散らすことはよくあるケースだが、逆にふさぎこんでしまう場合も多々ある。
命の危機にさらされたら誰でもうろたえて我を見失う傾向はあるだろうが、それでも余りにも起きもしない先の事に思いを馳せて不安を増幅して恐怖心にまで発展してしまっているケースはよくあることだ。
実は、この動揺、不安、恐怖心が身体には一番よくないし、精神の回復と体の回復を遅らせてしまう。
こういった不安感や恐怖心は病気の時だけのことではなく家族の問題や他の人間関係、仕事の問題、子どもたちにとっては学生生活、若い女性にありがちな容姿に拘ることで発症する拒食症、そしてリバウンドで過食症になるなど、更に、うつ病も背景には不安感や恐怖心、執着、頑固、拘りが潜んでいる。
人間の体は身も心も一つで心身一如ということばのとおり、心の変化が良いにつけ、悪いにつけ身体にまで影響を及ぼすものであり、また身体の健康状態も心に影響を及ぼしてきます。
異常発汗、動悸、拍動が強い、のぼせ、呼吸困難、聴覚過敏(音に過敏)胸痛、めまい、ふるえ、ドキドキ、不眠、胃腸の不調、みぞおちのつっかえ感、頻尿、皮膚のトラブル等々、不安や恐怖心による症状は多い。
これらの症状は特に病態が発見されない場合は自律神経の働きがアンバランスの状態であるとみてよいでしょう。
しかし、問題は何故、自律神経の働きがアンバランスであるということを正しく知ることが重要です。
内臓を含めた肉体全体は自律神経の支配下にありますが、その自律神経は脳の支配下にあります。
そして、脳は心の支配下にあります。ここが重要です。
心を考えず投薬だけに委ねる心療内科や精神科の対処は根本的な治療とはなっていません。
日常的な不安や恐怖心、信念の欠如、懐疑(かいぎ)の念は、症状を悪化させるだけで、せっかくの調和されている自分の心をかき乱します。
厳密にいうと、自身の霊域さえも不調和な状態にさせてしまうのです。
恐怖感は一面において身を守り、自己を律する支えとなるのですが、もう一方において、うつ病やパニック障害などの精神病にまで発展しうる精神作用でもある。
精神的な不安や恐怖心が長じてくれば、やがて肉体にまで影響をし、様々な症状を体現するようになってきます。
いったい、恐怖の実体はどのようなものだろうか。また、これにはどう対処すべきだろうか。
心の仕組みや、心の作用とその反作用を知ることによって、大きな不安は小さく、恐怖心もなく毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にも自分を見失うことなく生活できるようになるということを申し上げておきます。
恐怖心は人の心を蝕(むしば)む最大の敵であり、恐怖心は理性を見失い、安定を枯渇(こかつ)させ、マヒさせます。
あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ、心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼びおこします。
たとえば、怪奇映画を見ると怖がる子が、日常生活は、いたって普通で、学校では模範生の子がいるかと思うと、怪奇映画をみると夜一人でトイレにも行けないのに、それ以外のことになると、まことに大胆で両親が心配するほどの子どもがいます。
通常の場合、恐怖感は、きわめて心理的な面が強いのです。いうなれば、暗示にかかりやすい人は、恐怖感も強いでしょう。
男性と女性とどちらが恐怖感が強いかといえば、おわかりになるでしょう。
女性の心理作用は男性のそれより、やはり大きいようです。
ことに、思春期は、もっとも心の不安定な時期で、このころは特にこの傾向が強く現われるようです。
車の運転に関しても、女性の場合は男性よりも、恐怖感に襲われて体が萎縮し、そのため大事故を起こすケースが多いといわれています。
こうしてみてきますと、物事に対する女性の被暗示性はきわめて高く、したがって恐怖感も強いといえるでしょう。しかし、現実には男性でも不安や恐怖心はある。
その意味では恐怖感は、自分の生活を守り、安全を確保するためのブレーキの役割りを果たしています。
しかし、恐怖感の根底にあるものはなんでしょうか。
恐怖感は、人間も動物も同じように持っています。人間の独占物ではありません。
とすると、その根底にあるものは、生に対する、やはり執着です。
だが、知っていただきたいのは生命はこの世限りではないということだ。輪廻転生していき続けているのが私たちの魂である。今世だけの肉体に執着してはいけない。
本能的防衛手段として恐怖感があるのですが、しかし、必要以上にそのことに意識を向けている状態が長引けば長引くほどに不安も恐怖心も増幅して心を支配してしまいます。
この点が本能と感情だけで生きている動物との違うといえるところです。
したがって、本能的執着から離れられぬかぎり、恐怖感は常についてまわるといえます。
本能的執着、それは生に対する執着です。
生きたいという本能です。
私たちにこの本能的執着がまとわりつくかぎり、恐怖感は容易に消滅できません。
必要以上の恐怖感は自己保存の現われであり、それはいろいろな形で現われ目先のことに囚われ、体の不調と変化に過敏になり、動揺してうろたえるのである。
人前に出ると上気するとか、嫌な思いをした相手を思うとフラッシュバックして手に汗を握るとか、怒りに心が揺れるとか、動悸がするとか、学校が嫌いになるとか、その形は千差万別です。
しかし、いずれも恐怖感の現われは、自己保存というエゴの意識がそうさせます。
物中心の考え方、肉体中心の考え方、お金中心の考え方、この世が全てだとする価値観、あるいは、自分をよく見せようとする心の動きは、他の動物にはないことです。
それだけに、人間の持ちえた知識、知恵、こだわり、執着というものが不安感や恐怖心をつくりだしているのです。
例えば、症状を緩和させたり、改善を図る意図で相談者に対し、その都度アドバイスをしますが、この時に相談者はそのアドバイスに拘り過ぎてそのことを気にし過ぎることがよくあります。
これは日頃からこだわりの多い人に見受けられる一つの傾向でもあり、如何にこの拘りを少なくしていくことを心掛けるかが進歩の条件となってくる。
内臓不調の人に食べてはいけないものをアドバイスするとそれに拘る。
今の体調を考えてやってはいけないことをアドバイスするとそれにこだわる。
しかし、アドバイスは絶対にそうしなさいということではなく、自分の体調や精神状態をみながら臨機応変に対処する柔軟な姿勢が大事であり、アドバイスによって視野を狭くしてはならない。
そこで本能的執着を離れるには、どうすべきかといえば、今の自分の心の状態をよく把握し、反省と実践によって、先ずは小さな心の安らぎを実感し、体験的に深めていく以外にありません。
いくら心の在り方を学んでも、不安と恐怖心にドッップリと浸かり、知識として、頭に詰めこんでも、恐怖感からは容易に解放されません。
正しい法則、即ち心の在り方を体験的に理解し、深まってきますと、恐怖感を自然と越えられ、死も恐れなくなります。
今の生活、先の生活に不安がある、病気を受け止められずに不安や恐怖心が消えない。このような思いは多くの人が経験することです。
同じような体験、それ以上の体験をしているにも関わらず不安感や恐怖心の感じ方に差があるのはなぜだろうか。
軽いケガでパニック状態に陥っている人もいれば、ガンを宣告されても周りが心配するほど本人は深刻ではない人もいます。
この違いはとなると、人それぞれの受け止め方の違いということでもあり、それぞれの気根(心の広さ)によるものでもある。
人生には変えようのない出来事も起こりえるということ、自分が置かれている立場を否定しても拒否しても現実は変わるものではないということ。
現実を受け入れて徐々に癒えることを待つという姿勢が大事であり決してうろたえてはならない。
渇愛(かつあい)より憂(うれ)いが生じ、渇愛より恐れが生ず。
執着を離るれば、憂いなし。一切を受け入れ慈しむ心に恐れがあろうか。

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