禅の心
インフルエンザ初めての経験でした。微熱と節々の痛み。器官の不調から脱出できました。
禅といえばあなたは何を連想するでしょうか。たいていの人は、薄暗い禅堂で足を組んで、目を半分閉じてじっと座っている僧を連想するのではないでしょうか。
また、実際に座禅を体験したことのある人は、足のしびれや、じっとしていることのつらさとともに、静寂な時間の新鮮な経験や終わったときの爽快感などを思い出すでしょう。
私たちはまた、禅がさまざまな文化現象にかかわっていることも知っています。禅僧の書いた文章、書、墨絵に高名なものが数多くあります。
茶の湯や能などの伝統芸能、剣道、柔道、合気道、空手などの武芸にも禅の精神は生きています。つまり、禅は心を静め、精神を統一し、自らの感性を高めるなかで美意識や自己探求と深くかかわってきました。
さらに、禅はストレスの多い生活のなかで不安や悩みを抱える人、あるいはもっと深く、人生の根本問題と向き合っている人、それらの人にとって問題解決のための手段のひとつともなってきました。
禅がどのような思想か、また歴史的にはどのように発展してきたのについて理解することも大事です。しかし理解といっても、歴史、人物、思想内容という事柄の理解だけを求めているのではありません。
禅とかかわるなかで、自分とはなにか、生きるとはなにか、人生とはなにかという問題意識をもっていただければと願います。古人は自然の音を聞いて世界の真実を悟り、眼に入った色を見てわが心がどういうものかを明らかにしたのである。
これをみて分かるように、私たちの周りには、あらゆるところに真実への門が開かれているのである。ある僧が老師に向かって、「私は禅の教えを求めているものですが、禅というものには、どこから入ればいいでしょうか」と問うた。
すると禅師が、「お前さんはあの谷川を流れる水のせせらぎが聞こえるかい」と言われた。「はい、よく聞こえます」と答えると、「そこから入れ」と言われた。
そう言われて、いくら谷川のせせらぎに耳を傾けても、すぐに心の道理を悟ることなどできないであろう。その理由はせせらぎを聞く者の未熟さにあって、いくらせせらぎの音が自然の呼び声であっても、馬の耳に念仏である。
同じように大自然が宇宙の真理を眼の前に見せつけてくれていても、気づかない者にはまるで夢を見ているようなものであろう。
南泉和尚は、庭に咲き乱れる花を指さして、「時の人、この一株の花を見ること、夢の如くにあい似たり」と言われている。われわれ凡人の眼は、骸骨の眼のようにポッカリ空いた節穴でしかないのである。
ところが苦労して道を求めてきた人には、何でもない日常的なものを見たり聞いたりするだけで、瞬間に世界の真相を見抜いてしまうのである。あるいは真理をつかんだ自分の、尊い心に気づくのである。
雪が舞う 冬すずしかり 心静かなり (観童)
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