オープンマインド
心をひらくという言葉があります。この言葉はどのように理解されているのだろうか。
自分のことを何でも隠さないで話してくれることだろうか。
気付いたことや思ったことを何でも本音で言ってくれることだろうか。
それとも、こちらの意見をすべてOKしてくれる人のことをいうのだろうか。
心を閉ざしている人よりも心をひらいている人の方が、明るくて、朗らかで、誰とでも分け隔てなくつき合えるような印象があります。
しかしそれは「すべてをオープン」にして、何でも話す、何でも受け入れるということではないように思う。
コミュニケーションにおいて「心をひらく」というのはどういうことなのかを考えてみたい。
多くの価値観を受け入れることとも言われるが、とすれば人に対しては多くの人を受け入れるということになるだろうか。
そうはいっても、実際は誰も彼もの価値観を容認することはできないでしょうから、あるラインまでは受けいれるということでよいのではと思うのです。
例えば、何でも話す人。自分や家族に起こった身近な出来事、これまでの体験、自分の知っていることのあれこれ……。
どんなことでもオープンに話してくれる人がいたら、あなたはどう思うのだろうか。
一見、「何も包み隠さず、すべてを話してくれる人」は誠実そうな印象を持ちますが、その一方で、その人と人間関係を持ち続けることを考えると「もしかしたらこの人に知られたら、自分の話したことも他で話されてしまうかも……」という懐疑的な思いが浮かぶかも知れません。
「ここだけの話だけど……」というのは、いろいろなところで展開されている可能性が高いものでもあります。
また、何でも話してしまう人は、傷つく可能性が高くなることもあります。
自分の話したことについて、相手がどのように解釈するのかは相手次第であり、コントロールできるものではないからです。
会話というものは、素直な気持ちで話したことでも、誤解や言葉の行き違いから、こちらの意図とは異なる受け取られ方をすることもあるでしょう。
タテマエを気にせずにいつでも本音で語る人も同様で、本音であるがゆえに誤解を招きやすいことがあるものです。
例えば「気付いたことは何でも言って下さい」という人に「では……」と歯に衣着せぬ物言いで、建設的な批判という名のダメだしをしたとしたらば、仮にその中に役立つ情報が入っていたとしても、突然、嫌な顔をされることもあるでしょう。
ストレートな話し方が良いとも限りませんし、この辺は節度の問題、話すことの程度問題ということになってくるのではないだろうか。
また、正しいことだからといって、そのままハッキリと話してしまうことで言葉に柔らかさがなくなったり、あるいは相手の心に突き刺さるような印象を与える場合もあります。
では逆に、心を閉ざしている人というのは、どんな人をイメージするのだろうか。
自分のことをまったく話さない人、こちらが話していても下を向いたりよそ見をしたりして少しも目を合わせない人、こちらの意見をまったく受け入れない人……という感じでもある。
せっかく関わる機会があっても、その相手がまるでバリアをはっているか、鎧(よろい)を着ているかのような雰囲気を醸(かも)し出していると、つき合いやすい印象は持ちにくいものです。
でも、だからといって、前述したような「フルオープン」の状態になって自分のことを無防備にすべて話すことや、相手の要求にすべてOKするといったことが、快適な人間関係の中で求められているわけではないのでしょう。
心をひらくことは、より良い関わりを持ちたいと思った人に、自分という人間を理解してもらうことでもあり、また関心を持ってもらい、相手の考えていることにも柔軟に耳を傾けていますという姿勢をとることでもあるでしょう。
心を開くこと「オープンマインド」は、お互いに気分の良いコミュニケーションを持つためにこそ役立てたいものです。
だとしたら、それはどんな心の開き方なのだろうか。
肩の力を抜いてみよう。
私が程よく感じる「心をひらく」という状態は、心に「すきま」をつくっている人です。スキマ即ち、ニュートラルがあると余裕が生まれます。
スキマが空いていると、風通しがよくなります。スキマが空いていると、執着しなくなります。
執着しないことでかえって物事を客観視することができるようになります。
逆に、不必要な拘りや執着心は人の言葉を曲解して理解したり、誤解したりすることになりがちなものです。
人の意見には聞く耳を持たず、頑なに自分の正義に固執している人は心にスキマ「ニュートラル」がありません。
何を言っても受け入れてもらえる余地がなく、跳ね返されてしまうとするならば、このような関わりはとても気分の良いものだとは言えないでしょう。
こちらの話に耳を傾けてくれたり、相手の話を謙虚に受け止める姿勢があって、心のどこかにその情報が入るスキマを感じられたとき、私たちはコミュニケーションが持ちやすくなるのではないだろうか。
また、自分の思いや考えていることを一切見せないでいる状態も、ぴったり扉を閉めて一分のスキマもないような印象です。
無防備に何でも話すほど全開にしなくてもいいが、ちょっとのスキマからその人の大切にしているものが覗けたら、私たちは次のコミュニケーションを考えやすくなります。
大切にしているものを分かち合うという、せっかく肩の力が抜けて心のスキマ「ニュートラル」ができたなら、愚痴や文句ではなくて、気分の良いものを語り合わなくてはならないでしょう。
悩みを打ち明けるのは悪いことではありませんが、その関係を心地よくするという意味ではあまり効果的ではない。
それよりだったらむしろ、最近嬉しかった出来事、お気に入りのモノ、自分が大切に思っていること等、それを語る顔が思わずほころんでしまうことを話す方が、より良いコミュニケーションに繋がりやすいでしょう。
もしも、そこにお互いの共通しているものを見つけることができたら、その関係は不思議なくらい近くなります。
心のスキマを空けて自分が大切にしているものをちらりと見せることができたら、きっとこれまでとは違うコミュニケーションが生まれるのではないだろうか。
歩み寄る
固く閉ざした心には、誰も何も届けられません。
オープンマインド即ち、心を開くことの必要性は自分と他人だけの関係に限ったことではありません。
夫婦で争いの絶えない家庭の場合、何らかのかたちで子どもの心に歪んだ精神構造を造ってしまっています。
理由はその家庭によって様々ではあるが、いずれにしても理由の如何を問わず、自我を通しては家庭平和は望めない。
妻に対する思いやりに欠け、言葉が足らずに心が伝えられない夫、言葉がきつくて夫のプライドを削いでしまい、夫の欠点を子どもに愚痴る母親、そして手をあげられる妻。
幼いころはお母さんの言ううことを聞いていたいわゆる「いい子」が思春期になって反抗的になり、やがては「偉そうなことを言っている自分はどうなのよ」と子どもに逆襲される親。
暴力はあってはならないが、このような家庭の妻の最大の問題点は、いつも自分が正しいことである。
そして、逃げている夫であり、父である。
家庭内においてもそうですが、夫婦喧嘩は100%片方だけが悪いということは少ないものであることは、これまで相談者の話を聞いてきたなかで実感することです。
ただ価値観が違うという理由だけで離婚にまで踏み切るとするならば、これは子どもにとって悲劇であり、人間不信のネガティブな火種を子どもの心に点すことになる悲しみであろう。
家庭の不和によって精神不安定になり、それが常態化し、無気力になり、一貫性が無く、対人関係に支障をきたしている子ども、社会に対応できない青年ができあがっている。
いつも一生懸命に仕事をし、何事にも真剣に取り組むお母さんは、傍目には努力家で真面目な人とみえるでしょう。
実際にその通りであるが、しかし、このお母さんは言葉に刃をもっているために時折グサッと子どもたちの心を突き刺してきたのである。
そして他人に対しても、いつも自分の口数が多く、最後も自分の言葉で終わりたいのだ。
冷たいお母さん、頑張ればっかり言っているお母さん、どうしてやらないの、勉強しないとついていけなくなるよ、と追い立てるお母さん。子どものペースなど関係なしで自分の価値観を押し付ける。
このお母さんは社会でも同じように相手の心に刃を突き刺しているのであるが、自分は気づいていない。
そして、自分の生まれ育った家庭環境が同じような劣悪な環境だったのである。
正に因果は巡るとはよく言ったものだが、しかし、そうであってはならないだろう。
心をひらくということは、全ての枠を取り払うというものではなく、今よりも少しだけ肩の力を抜いて、自分の心の隙間「ニュートラル」を覗いてもらえるように、その人の方に身体を向けたり、もう一歩距離を近づける、つまり歩み寄る ということなのかもしれません。
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