本能と欲望


本能と欲望は同じもののように考えられますが、異質のようにも思えます。この二つの本質とその関係、そして違いがあればどう違うのかを検証してみましょう。
つい最近の事件、カラオケボックスのなかで複数の男性警察官が後輩の女性警察官を呼びつけたうえに、命令してブラウスを脱がせ頬にキスをするセクハラ事件が報道されたばかりであったが、最近また若い警察官数名が海水浴場で女性をナンパして酒で酔わせてボートの上で暴行に及び逮捕される事件が起きた。
このような、わいせつな事件は警察官だけではない。中学や高校などの未成年に対して、わいせつ行為をして逮捕される教師があとを絶たないし、教師や公務員が飲酒運転で検挙され懲戒免職になる例が多いのは残念でならない。
『世間では公職にあるものが』といいますが、人間は公職であろうが、民間企業であろうが、名誉職であろうが職業で人間性が決まるものでもないし、公職にある人間も同じく欲望をもった生き物であることは間違いない。
その意味では心を説く宗教家や拝み屋、霊能者といわれる人たちも欲に目がくらみ、金に執着し、信者に多額の寄進をさせて、暴利を貪る教祖、幹部、僧侶も実に多い。
少しまともなことを説けば人々は信じてしまうのだが、冷静に疑問をもってみることをすれば、そうした人たちの矛盾がみえてくるはずである。
このような、ただブレーキの利かない他人の迷惑を考えない欲望は犯罪を生むエネルギーとなるから厄介だ。ここで本能と欲望をひも解いてみましょう。
先ず、本能についてですが、本能の中には食べることに対する食本能と、種族保存の生本能があります。
母性本能というものもありますが、食と生本能はもっとも根元的なものです。
この本能は生物が生きてゆくうえに、絶対欠かすことのできないものです。
もしも、この二つの本能が与えられていなかったならば、生物は絶滅しているでしょうし、種族の保存が不可能となります。
絶滅させないために天はこの二つの本能を、全ての生物に平等に与えました。
それゆえ本能は生物の生存に必要な、最低限の条件であるといえます。
人間以外は、生物の本能においては、一定の発情期以外は繁殖できないような、強い制約をうけています。
野放しにしますと、種族内や種族間の調和を乱すおそれがでてくるからです。
人間については、こうした制約がありません。万物の霊長たる所以(ゆえん)も、こうしたところにうかがい知ることができます。
何故、人間については制約をうけないかといいますと、人間は自らの知性と理性によって本能をコントロールしてゆくようにできているからです。
しかし、冒頭に述べたような事件の加害者は、本能をコントロールする理性と知性が欠落していたのです。幼い時に親が何でも子どもの好き勝手にし過ぎた溺愛の子育てがこのようなケースの温床になる場合が多いのです。
また逆に正しい母親の愛情をいただけていない子供の場合も母への愛情を求める気持ちが強くゆがんだ欲望として女性に向けられた場合には性的暴走をする傾向にあります。
理性は事の善悪を判断させ、知性は道徳心のうえに成り立つ社会の常識的教養秩序を備えたものでなければならないでしょう。
次に欲望についてです。
欲望には、本能の影響力が最も強く現れます。何故なら本能は生存に必要な最低の条件を求めてゆくものであり、したがって欲望をもっとも強烈に刺激してゆくからです。
しかし、欲望はもともと本能の二次的作用として生れた人間だけの精神作用です。
本能は生存に欠かせない一次的なものです。
欲望のなかには、知性からくる知識欲もあり、何でも知識、資格と偏重しすぎると人間として丸みのない個性となってくる傾向にあります。『知に過ぎれば角が立つ』とはうまく表現したものです。
好き嫌いを表す感情からは、そねみ、ねたみ、中傷といったものから、本能との兼ね合いから、権力、地位、名誉などに対する欲望など、さまざまに生じてくるでしょう。
こうみてまいりますと、本能と欲望の相違点が非常にはっきりしてくると思います。つまり欲望が発生する土壌は極めて広く、私たちの生活の中で、あるいは社会のなかで、ありとあらゆる場面にあるといえます。
本能はその中の一部にすぎないということが言えると思います。
従って本能と欲望は、もともと異質のものであり、違った次元で考えてゆかなければならないものです。
『欲がそうさせた』とはいいますが、『本能がそうさせた』とはいいません。
それでは欲望はどんな理由から発生してくるのでしょうか。欲望の根本は自我、執着です。
自分と他人との相対観。比較の価値観。苦しみ悲しみが必ずしも一致しないために、極めて個人的、孤立的、排他的ななかから生まれます。
こういうと、今日の物質文明は欲望が土台であり、欲望がなければ何事も発展しないと考えられるわけですが、本来こうした欲望がなくても社会は発展するものです。
それは人間としての義務、献身、博愛、強調、連帯感といったものがあれば、文明はより精神的な、より高度な発展を遂げてゆくことでしょう。
こういうことも言えるのです。例えば、欲望をもった人間の意識社会のなかで、仮に社会福祉を広く考えたとします。すると人間は勤労や発明発見にたいする意欲を失い、その社会の運営を難しいものにしてゆくでしょう。
自殺者や性の乱脈が福祉社会の行き届いた国家に多くみられるというのも義務とか献身といった高度の価値観、意識のめざめが欠けてくるためにおこるようです。このようなことは世界の史実をみれば明らかである。
60代以上の人たちを福祉という名のもとに、ただ楽をさせ食べて寝るだけの生活環境をさせた国家があった。そしたら先ず、病人が増え始め医療費財源不足になりはじめた。次いで精神疾患の老人が一気に増え始めた。
国は考えた末に老人に職場を与えて仕事をさせるように政治行政が動いた。結果、老人の病気が減り、精神疾患の患者も激減したのである。当然、医療費の削減ができた。
ともあれ現代の意識社会の状態においては、欲望と発展ということを切り離して考えることは、確かに困難だと思います。欲望と発展はそれだけ密接な関係になってしまったからだといえます。
そこで先ず大事なことは、足ることを知った生活(使えるものは使い切る、物を大事にする。不満をいわない。)助け合う日常を送ることです。
必要なものにお金を使うのは良いが、欲しいものを買う習慣は欲望を増幅させるため、そのことから苦しみが始まります。この点はよくよく考慮が必要なところです。
何事にも節度は調和を生み、調和はより大きな精神的文明の発展をもたらすだろう。
本能は生きるための意識であるが、欲望は人間が足ることを失ったときに起きてくる不調和な意識である場合が多い。
私たちは、この真理を忘れてはならない。