成就するための心のおき方

hirameki_31
会話のやり取りでお互いが思うこと、感じることのなかで、心地よさ、いらだつこと、安らぐこと、怒ること、悲しむことなど、これらはみな肉体五官(眼、耳、鼻、舌、身)のなかの耳と眼から入る情報に心が反応した結果において発生してくる感情です。
言葉というエネルギーをもった音声に反応するのです。
音声は振動(波動)となって相手の耳から心に届き、反応を起こすきっかけになります。
言霊(ことだま)ともいいます。
ですから温かい言葉や、思いやりや、優しい言葉は人を癒すこともあり、また逆に、言葉によって相手の心を傷つけることもあります。
人の世は能力の別、好みの別、体力の別、知識の別、節度の違い、生れた環境の別があり、人によって喜怒哀楽にも相違が出ているのは何故だろうか。
働くものとその義務を怠る者、行動する者と傍観する者、学ぶ者と享楽に溺れる者、昨日を引きずる者と明日を憂いる者、また今日を生きる者、健康な者と病弱な者、自分に厳しい者と人を責めて裁く者がいる。
愛情深い者と薄い者、和合を旨とする者と争いの種をまく者、謙虚な人と自分を高く見せようとする者、責任を果たそうとする者と依頼心の強い者、足ることを知る者と欲深き者、・・・。
こうした心の作用と相違が、自らの心をして病むことにつながったり、平等であるべき人間の関わりに不平等を造り出している。
人間には地位という立場の違いがあります。
しかし、国や人種が違いはあっても本来その品格は同じで人間の貴賤(きせん)に何らの区別はない。
ですから誰もが心を開き、お互いを尊重できるようにありたいものです。
※貴いことと、卑しいこと。また、身分の高い人と低い人。
人間は生まれた環境や教育、躾、習慣、文化、思想、哲学、等によって価値観に違いも生まれ、個性が出来上がってくるものですが、生い立ちが劣悪な家庭環境であることが一因となって心が歪んでしまう子どももいれば、逆に逆境をバネにしてよく忍耐して成長していき、心の広い大人になる人もいます。
中学、高校、大学、社会人となっていくそれぞれの段階において、うつ病を発症したり、パニック障害に陥ったり、人間不信のために社会に歩調を合わせることができず、或いは溶け込めずに苦悩している若者もいれば、精神的疾患という診断を下され向精神薬にどっぷりと浸かり、心身ともに疲弊している人もおります。
当事者は大変な思いをして生きていることは勿論でありますが、しかし、心を病んでいる人の深層には一つの共通点があることがこれまでのカウンセリングによって明らかになってきました。
それが傾向性すなわち、心の癖である。
幼少の頃の家庭環境が影響していることは十分理解もし、認めるのですが、だからといっていつまでも過去の出来事、トラウマなどに心を引かれていては前進することが非常に難しくなってきます。
人間の心にはエゴという心理も働く時があり、それが失敗や前に進めないことの言い訳として過去の嫌な体験を引き合いにする場合もある。
変わりたいとは言っていても、自分のせいではない、親が悪い、クラスの生徒が悪い、上司が悪い、会社が悪いと、他のせいにする気持ちが少しでも心の隅に居座っている限りは自分が変われることはない。
何故なら進歩ということは、過去の経験に縛られず今を果敢に生き切ることだからだ。
人間は不要なことを心に抱えて手離そうとせず苦悩する愚かなところがある。
そして本当に必要なことに気づけず理解できないでいる。
心を調えるために大事な事
過去でもない、未来でもない、今という時間を生き切ることで今日の充実感と安息の心がうまれる。
今という瞬間、瞬間を完全燃焼すること。
その瞬間という点の連続が未来につながります。
迷っている人間は単純な道理を複雑に考え、いつも同じところを堂々めぐりして悩んでいるものだが、ごく普通の人たちは複雑なことをそのまま複雑に考える傾向にあるようだ。
しかし、賢い人は複雑なことを単純に考えます。
この三者三様の違いにはどういった学びがあるかということに気づいていただければと思うところです。
私自身の小さな経験から言わせてもらえば、一つの事を成就するには強い思い、情熱というものが必要ですが、では情熱とはどういうことをいうのかとなると、寝ても覚めても、いつも、そのことを考えている状態であり、一年経っても三年経ってもそのことへの思いが覚めることがなく強く継続していることではないだろうか。
しかし、このような状態は、悩み苦しんで、寝ても覚めても悶々としてノイローゼ状態にある心理とは異なるものです。
何故なら、不安や恐怖心、苦悩には情熱のような進歩的で明るい心がないからです。
人生はその時の心の境涯によって長くも感じ、短くも感じますが、好きな仕事でないとなかなか長続きしません。
若い世代の人たちが好きな仕事と思うのは、どんな仕事なんだろうか、そしてそれが本当に好きな仕事なんだろうか?
給料の高低や楽な仕事、綺麗な仕事、汚れない仕事などというように、安易に近道を選ばず、どんな仕事でも一歩一歩、一日一日を懸命、真剣、地道に積み重ねていくことが夢を現実に変えていくものです。
そして自分の思いを成就させるのは、天才ではなく、そういう非凡なる凡人であり努力を続けることができる人なのです。
この世で起こるすべての現象、事象は自分の心の反映です。
それ故に、純粋な心で、素直にひたすら念じ続け、努力をすれば、たいがいのことは成就します。
自分の思いを現実のものとする人と、そうでない人の差は、実はそれほどの差はなく紙一重だ。
思いを成就できない人に熱意がないわけではないし、努力をしていないわけではありません。
その違いは、粘り強さと忍耐力の問題だけであろう。
物事を成しえない人は、壁に行き当たったときに、体裁のいい口実を見つけて努力をやめてしまい、今しばらくの辛抱すれば成就するチャンスがくるのに回避してしまうことが多い。
一つの事例ですが、マッサージにはその人の心が現れます。
心が雑であれば手の運びがぎこちなく、リズム、ポイントの捉えどころを外し、後に筋肉痛というリバウンドばかりが目立ち、改善に向かう速度が遅くなる。
心が雑であれば手技が雑になり、心を研ぎ澄ましていればその手技も繊細なものとなり、受け手のポイントをセンサーのように見逃さず好結果がついてきます。
こういうことは物作りにもいえることでしょう。
心を込めて仕事をするということはこういうことをいうのである。
自分の生涯を通じて打ち込める仕事を持てるかどうかは、日頃からどんな仕事に対してもひたむきな心があるという訓練ができていることです。
打ち込める仕事に就けるかどうかは人生の幸不幸にもつながりますが、先ずは、何故働くのかという働く意義を見つけることが肝要ではなかろうか。
成功に至る近道などあり得ません。
情熱を持ち続け、生真面目にコツコツと地道な努力を続ける。
このいかにも愚直な方法こそが、実は自身の境涯に沿った成功をもたらす王道なのである。
そうして世のため人のためという、きれいな心をベースにした思い、願望というのは必ず好結果となって現象化してきます。
盛者必衰の理
逆に私利私欲に基づいた「汚れた願望」というものは、一時的には実現できたとしても長続きをせず、ほんの瞬間的な繁栄に終わるでしょうし、社会的な信頼をも失ってしまうだろう。
心の繁栄があってこそ物質文明が栄えるということでなくては真の繁栄とはならないのである。
人生をよりよく生きるためには、昨日よりもよりよく生きようという今の意思、そして継続的な努力がなくてはそうはなりません。
そのためには何が自分に必要なのか、何が不要なのかを考えなければなりません。
実は、必要な事より以上に、不必要なことを心に抱えこんでいる場合が多いからだ。
今の時代は、陸上で多くの人を運ぶものとしては、新幹線が最速の乗り物でしょうし、空では、ジェット旅客機がそうでしょう。
しかし、人生の歩みには、このような乗り物はありません。
依存せず自分の意思を以って、自分の足で歩いていくしかありません。
理想とする夢を実現する手っ取り早い手段や近道があると思うなど、とんでもない心得違いです。
きょうの歩みを確実に一歩づつ、このような歩みこそが己の人生へチャレンジする最速の生き方であり、姿勢です。
人生という長い道のりを、楽して高速で突き進むような真似はやめましょう。
一歩一歩着実に歩むからこそ意味があります。焦らずに前に進みましょう!!
人生とは、自分自身が青写真を書き、その図面を行動に移し、主役を演じるドラマではないだろうか。
どのようなストーリーを描くかは自分次第であり、心のあり方や考え方を高めることによって、運命を大きく変えることができる。
こうしてみると、人生というのは魂の修行の場だとは思えないだろうか。
苦難こそが魂を純化、深化させるために与えられている試練であり、また一つの成功もその人間がどこまで謙虚でいられるかを試されるものであろう。
小さいながらも私も常にスタッフが4~5人はいて、これまで20人以上の人たちを世に送り出しながら院の経営をしています。
私なりに気づき実践していること、それは人を動かす原動力は、ただ一つ、公平無私ということとスタッフの利益を優先することだ。
そして人を育てるということは待つことと実感している。
自分中心で物事を考えてしまうと、人は動いてくれませんし、上の者が傲慢になるとやる気が失せてしまうことになってくる。
よりよい仕事にしていくために必要なことですが、人はインスピレーションを外に求める傾向にあります。
しかし私は、内に求めます。
自分が今やっている仕事の可能性をとことん追求して、改良を加えていくと、想像もつかないような大きな革新を図ることができるし、好結果を得ることができるものです。
新しい事業を始める際に、もっとも重要なこと、それは自分自身の心に「動機には善なる思いがある否か、そして私心はないのかどうか」と問うことと申し上げたい。
動機に善なる想いがあり、且つ、実行するその過程が善であれば、結果を心配する必要はないからだ。必ずやその想いは現実のものとなって反映されてくるであろう。
関わり合いのなかでうまれてくる信頼関係は自分自身の心の反映そのものです。
たとえ、自分が一時的に損をしたとしても、人を信じていく。
そういった中でしか、信頼関係は生まれない。
信頼というものは、外に求めるのではなく、自らの心の内にもとめるべき思いと行動によって成される。
常にこういった原理原則に基づいて判断し、行動しなければならない。
原理原則に基づくということは、人間社会の道徳、偏りのない倫理観というものを基準として、人間として正しいものを正しいままに貫いていこうということ。
人間としての道理に基づいた判断であり、傲慢ではなく、根底に愛あるものであれば時間や空間を超えて、どのような状況においても受け入れられる。
常にこれでいいのかということを再考する。
決して、昨日と同じことを、同じ方法で、同じ発想でやってはいけない。
自分を取り巻く人間、社会、組織、それはあなたの資質を反映する鏡のようなものだ。
何事もできないものと、はじめから決めてかかっていれば必ずそのようになる。
言い換えれば、努力は一応するのですが、あるレベル以上はしないのです。
仕事を完全に成そうとすることは非常に辛い。
しかし、これによって学んでいると思えばさほど苦も無くできるようになる。
特にリーダーの立場にある人や経営者の場合はこういった完全性の習慣化ということが必須スキルの一つではないだろうか。
リーダーは常にチャレンジし続けなければならない。
さらには、先を行くリーダーが倒れても、その精神を継承したスタッフがリーダーの屍を乗り越えてチャレンジを続けていく、そのような社風をつくらなければならない。
経営は、人として正しい生き方を貫かなければならない。
金銭だけでは量れないこのスタッフの喜びや感謝こそ、経営者の望みうる最高の代償。
経営上たび重なる強烈な経験は、潜在意識(心)に蓄積される。
そしてその経験からなる潜在意識は顕在意識(表面意識)に代わって驚くべき早さで、正しい判断をするようになる。
あらゆることを真剣に繰り返すことにより、潜在意識が迅速に正しい判断を下せるようになる。
世の中にはたくさんの会社があり、人間関係があり、ビジネスがあり、それに伴う大きな渦がある。
自分が漫然と漂っているだけであれば、それにのみこまれてしまう。
仕事の本当の喜びと醍醐味を味わうためには、自らが渦の中心になって、周囲の人たちを巻き込むくらい、自発的に、積極的に仕事に取り組む姿勢でありたいものです。
次回は7日(木曜日)投稿予定です。
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