善が業に変わるとき

これまで悩みを抱えた多くの方のお話を聞かせていただき相談にものらせていただいてきた。そのなかでつくづく思い知らされるのが、人間の業という、心を苦しくさせる働きの習性である。

私たち人間の業はどうしてつくられ、どのようなものを業というのだろうか、更に業の想念について検証してみます。

業という言葉は別名カルマとも言われています。業(カルマ)は非情に強い力で働き、人間の思うこと、行うことをいいます。つまり思うこと、口でいうこと、行動したことのなかに悪業が表れてしまいます。

このカルマに足をすくわれると、なかなかこの働きから離れることができなくなります。それほどこのカルマと言うエネルギーは強いものです。

業の虜(とりこ)になると、その人の人生は鉛色の空のごとくになってしまうでしょう。

さて、人間の業はどうして生じてきたのかといいますと、それは生れ変わりのなかで何度もこの世とあの世を行き来していく過程において(輪廻転生)それもこの地上において生じたものです。

あの世においては肉体がなく肉体に変わる霊体(光子体)と魂だけの世界ですから、新たに執着がつくられることはありません。

あの世で執着している人たちはあくまでもこの世で執着してそれを死後も持ち越した魂です。

それでは何故、この世の地上生活では業が生じやすいのだろうか。

本来、最初の人類は今日のような業は身につけていなかったのですが、現世に生れては死に、生れては死にゆくにしたがって、汚れた黒い想念を色濃く重ねていきました。

人間は、先ずその汚れた黒い想念を払い、心の垢を落とすことが人生の目的となって、その目的を果たすことが地上の楽園をつくる大きな前提になってきたといえるでしょう。

では汚れた黒い想念とはどういうものかというと、それは執着です。

人間が持って生まれた五官六根に振りまわされた自己保存という執着が、様々な業をつくっていったのです。

御存知のように五官は眼、耳、鼻、舌、身です。

見るもの、聞くもの、匂い、味覚、寒暖、痛、快などの皮膚感覚に執着し、そこに意識が加わり六根となる。

したがって、業とは、私たち人間の想念と行為による執着がつくりだしたものといえるでしょう。

こうして見ると業は悪です。良い意味とはいえません。

非常に狭い意味では、善と思えるものも業となります。

例えば、教育者や公的職業に就いている家庭に想像もつかないようなトラブルが発生するのも、善という事への執着、世間体などへの執着で意識が強く働き過ぎ、家庭の人々を縛りつけてしまうからです。

2月17日投稿のカテゴリー『死後の世界』のなかに御両親が教育者で、高校受験を控えた娘が憑依され霊障に苦しむ実例を書いてありますので参考にしていただければと思います。

『ああしてはいけない、こうしなさい。』というように、親の都合による善への執着も業をつくります。

人間、善に囚われると四角四面な心になってきます。心(魂)は丸くなければならないのです。

要するに業は五官六根に基づく執着の想念が作り出した、汚れた黒い想念であり、囚われた心、これを業というのです。

こうしてみると、善にしろ、悪にしろ、業をつくってゆきますと、それに心が引き回されて、良くない、悪いと知りつつ悪を犯してしまう。

あるいは、人の意見が正しいと思っても、その意見にあえて逆らい、逆な方向に自分を持って行ってしまいます。

奇癖、頑固、優柔不断、驕り、傲慢、虚栄心、見栄、これらはみな業の作用によるものです。

業想念というものは、地上生活の中で相対的観念に自分の意識、魂が振り回されている状態をいいます。

お金は絶対であり、命の次に大事なもの、地位が高ければ人々から尊敬される、汗水流してまで働くのはバカバカしい、人生は面白おかしく過ごした方が得だ・・・・・・・といったようににです。

こうなると業想念は、やがて業をつくってゆき、重ねてゆき、死んであの世に行って、魂の修正が未熟なままで再び来世に生まれても、その業に引きずられる要因を強く持ち越すことになり、新たな業を生みだしてゆきます。

業にしても、業想念にしても、私たちは大なり小なりその影響を受けながら生活をしており、そのため自分の都合の悪いときには、とっさに悪い癖が出やすくなるのです。

このようにして輪廻転生しているというのが現実です。しかし、業に引かれてはならない。

そこでこのような業から抜け出すにはどうしたらよいかとなると、中道に沿った想念と行為をすることが大切となってきます。

なぜ大事か、それは囚われが多ければ多いほど苦悩が多いからです。

悩みが多ければ人生は灰色となってくるでしょうし、心に安らぎなどは生まれてきません。

真の安らぎは物事への執着から離れて初めて心の中に発生する穏やかさなのです。

一切の執着から離れて心が静まった状態を仏教では涅槃寂静ともいい、これは絶対安心の境涯を言ったものです。

また解脱という言葉がありますが、これは人間の宿命的な業から離れたことを表現したことばです。

私たちは、相対的な業想念に振り回されず、中道に沿った生活に心を注ぎ、安らぎのある自分をつくっていきたいものです。

※用語解説

中道ー腹八分という言葉があるように、健康を維持するには食べすぎず、また少なからず、丁度いいあんばいに食べること、人間の心の健康も決して両極端にならず、囚われず中ほどの道を歩むこと、これが中道、つまり調和の基本です。

相対的観念

他と自分を比較したものの見方をすることで、人間は人より自分が勝っているとか、優れているとか、優越感をもってみたり、反対に自分はダメ人間だとか、卑下したり、劣等感に陥ったりするものですが、実はこのような考え方が業を上塗りすることにつながるのです。

日々の生活で意識的に心を調える訓練をしていかないと、なかなか魂の業を取り去ることが難しいでしょう。少しずつの努力がやがて魂のステージアップにつながるのです。

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ