人間らしく
「神のご宣託」などという言葉を聞くが、その実態は神の言葉ではなく、その人自身の人格、霊性の高低の違いから発する言葉であり、あるいは人霊の言葉であったり、邪悪な霊の言葉であることはあっても、神が直接、地上の人間に言葉や意思を伝えることはない。
神がこう言っている・・・・・。と話す人間に限って、その本人の行動はとなると、まるっきり、ハチャメチャで物欲、金銭欲は人一倍強く、深酒で酒癖は、はなはだ目を覆う言動にあきれ果てた人物がいた。
霊界の仕組みとして、地上の人間には守護霊や指導霊が協力することはあっても、神が直接つくことはないし、そういう仕組みにはなっていない。
そのような事情から、人間は人間であって、しょせん、神になることはできないのです。
そして、神とやり取りしていると思っているのは、実は、神ではなく守護霊、もしくは指導霊、あるいは高級霊とのやり取りであって、心不調和な人の場合は邪悪な霊である場合が100%だと思ってよく、決して神と直接コンタクトできるのではない。
なぜかというと、この地上では何人といえども、己の心を練磨するという修行の第一目的を外すわけにはゆかないからです。
全てが大宇宙、大自然の法則にしたがって循環するように、そして、転生輪廻が永遠に続くように、この地上の修行も、また永遠に続いてゆくものです。
これでよい、これで完成したという行き止まりはない。
医学の進歩、科学の発展は、人工心臓や宇宙船をつくり、百年前の人知では想像も及ばないような進展をみせています。
しかし医学の進歩は、反面において必要以上に薬を多用したことによって、かえって副作用が肉体に負担を強いて新たな病態をつくっています。
薬の多用による新しい病気と医学は、いわば追いつ追われつつで進んでいるのです。
科学の発展によってつくりだされた原子力や宇宙船は人類に新たな希望を与えたでしょうか、逆に人類絶滅という不安感をも同時に与えています。
このように科学ひとつとっても、これでよい、これで終りであるという到達地点はない。
同様にして、人間の魂も、時々刻々、より以上の完成をめざして進んでいるのです。
こういう意味からも、肉体人間が神仏になる、ということはあり得ないのです。
そこで人間は、まず人間らしく、生きてゆくことが大事でありましょう。
人間らしく生きるとはどういうことかといえば、人間として、生きることの目的をはっきりと自覚し、その自覚にもとづいて思惟(しい・深く考える)し、行為することではないだろうか。
中道の心、即ち、偏りのない心を忘れないということです。
反省ばかりしているとかえって心は狭くなります。
さりとて、反省を怠ると自我に流されます。
そこで、働くときは働く。
体を休めるときには休むことです。
ときには家族総出で旅行し、自然と語るのもよいでしょう。
芝居見物も楽しいでしょう。
音楽を聴くことも情操を高めます。
こうした中からでも数限りなく教えられるものです。
やむを得ない事情とはいえ、夜遅くまで、仕事、仕事で追いまくられ、追いまわしていると、やがて丸く大きな心までいびつにしてしまわぬとも限りません。
また、社会生活から遠ざかり、山にはいって滝行や禅定三昧、にも問題があります。
正しい生き方の基準を知って生活に実践している者が、肉体的鍛錬を目的とするなら悪くはないでしょう。
しかし、心の実態を知らず、正しい生き方の実践することを怠っている自我の強い人が、こうした力を求めて霊的な行をすると、心に隙ができ、非常に危険であるということです。
反対に、人間は神様ではない、やりたいことをした方が楽しいし、得だと考えるのも真の人生の目的を見失ってしまいます。
大事なことは、人間がなぜ生まれ、どんな目的で何をなすべきかをはっきりと自覚し、その目的に沿った想念と行為をなしてゆくことでしょう。
体を休める、音楽を聴く、旅に出る、芝居を観る、アウトドアを楽しむもよし、子供だちと語る、そうした時間のない人生は砂漠をゆく旅人に等しく、人間らしいふくらみ、安らぎから遠ざかるものでもある。
こうした機会は、人間の目的から少しも離れぬばかりか、むしろその目的を、いっそう叶えさせる原動力となるでしょう。
日常の生活はやることがたくさんあって忙しいのに、信仰を持ったがための義務感や罪悪感から貴重な時間をさいて読経をしなければならない生活は、形だけの信仰生活といえるだろう。
心に安息を得る方法は、いわゆる修行ばかりでもなく、精進ばかりでもない。
普段の生活を偏りのないものにするならばそれで十分人間らしい生き方といえるのだ。
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