見える命・見えない命
人の命はみなつながっている
社会の仕組みを見ると、漁業で使う網のようにもみえます。
人間は、一つひとつの網の目であり、そうした多くの網の目が集まって大きな網ができあがっている。
しかし、網の目が集まれば即、網になるというものでもなく、一つの網の目が歪むと全体が歪む。それぞれの網の目はみなつながっているからです。
人間社会も、個と個が互いに結ばれ、交流し合って初めて成り立つものです。
こうしてみると、大自然界における命の法則は、この世と、後世はつながっており、人は亡くなっても魂として生きています。
だからこそ供養ということが行われているのでしょう。
いま、「無縁社会」という言葉がよく使われますが、人は無縁でなど生きられるはずがない。このことをまずしっかりと認識しなければなりません。
例えば、三陸沿岸の震災を通じて、命というのはこんなにも重たく、尊く、かけがえのないものだとあらためて強く感じた人は多いのではないでしょうか。
そしてその命はみんなつながっているのです。
命には「見える命」と「見えない命」があります。
見える命とは生物的生命で、とても尊厳なものです。
一方、見えない命とは神や仏という宗教的言葉でいえば宇宙的生命のこと、つまりわれわれを支えてくれている物の奥に潜むエネルギーです。
見える命、見えない命のそうした無量の見えない力に支えられているのです。
そのように考えると、すべての命に感謝しながら、心豊かに暮らしていきたいものです。
供養・家庭の和合
供養というと、昔から仏とか、先祖の霊に物を供えることのように思われているが、本当はこれでは供養にならない。
供養の意義は「先祖の霊よ安かれ」とする子孫の祈り心でなければならないからです。
物を上げ、それで″よし″とする考えほど安易なものはない。
私たちが現在こうして肉体を持って生きていられること自体、それぞれの先祖が私たちを生み育ててくれたからであり、それに対する感謝の心は、報恩となって形の上に現われてこなければ意味がありません。
死者の霊にもこの世にいたときと同じように、日常的な普通の言葉で、人間としての正しいあり方を語って聞かせることが最も大事であり有効な内容となるのです。
その為にも地上で生きる私たちが偏りのない、執着しない生活をしなくてはいけない。
地上の人間が不調和な生き方をしていながら故人や先祖の供養というのもおかしな話しだと思わないだろうか。
人を諭すということは、先ず、自分自身が中道に沿った偏りのない生活をしていなければならないでしょう。
夫は妻に対し不満と愚痴と怒りをぶつけ、妻も夫に対し同じことを思い夫婦がバトルの生活をしていて先祖供養などできようはずがありません。
故人や先祖にしてみれば、『私たちを供養する気持ちがあるなら、あなたたちがもっとしっかり仲良く執着しないで愛も慈しみも実践した生活をしなさい。』ということになるのです。
自分の日頃が、足ることも忘れ、不満を持ち、愚痴を言い、怒りをもって生活していながら、故人や先祖に対しては成仏してください、安らかに眠ってください、自分が意味の解らないお経を唱えて供養のつもりでいる形式的なことに囚われている子孫をみるあの世の縁者や先祖たちは、滑稽(こっけい)な光景に苦笑することだろう。
自分が、故人や先祖の立場に立ってみたら簡単にわかる物事の道理ではないだろうか。
供養の真意はそれゆえに、先ずは、家庭の和合、調和にあるといえるのです。
人間の霊魂は、死という肉体機能の停止によって、あの世で生活をはじめます。
世間の人は、肉体が灰となれば人の魂まで無に帰すと思っていますが、それは間違いです。葬儀の席上で故人に対して弔辞を述べるときに「安らかに眠ってください」というのですが、死者は眠ってなどいません。
人間の予知能力や、天才児に出現、霊の存在については、その例は枚挙にいとまがないし、こうした諸現象は人間である以上、多少の差はあっても誰しも備わっています。
こうした諸現象は、すべてこの世の人の心と、あの世の霊とが作用しておこるものです。魂の永遠不滅と、転生輪廻ということも単に人間の願望としてではなく、事実として存在するのです。
あの世は三次元ではなく、四次元以上、多次元の世界であり、それだけに、普通はある人には認知できても、ある人には全然わからぬということもあり得ますが、だからといって否定できるものではありません。
法事で物を供えることは、本来、気安めにすぎませんがヽ死ねば無になると思いながらも、物を供えるその心を確かめたことがあるでしょうか。
家庭の和合、調和が先祖への最大の供養という意味は、あの世に帰った先祖の霊が、その子孫の家庭をたえず見守っており、もしも先祖の霊が地獄に堕ちて自分を失っていたとしても、子孫の調和ある家庭をながめることにより、己自身の不調和を改め、その霊をして昇天させる原動力となるからであります。
子の幸せを思わぬ親はないはずです。しかも、その子が親より立派であり、家庭が円満に調和されていれば、親は子に励まされ、その子に恥ない自分になろうとするのは人情ではないでしょうか。
あの世もこの世も、人の心に少しも変わりはないのです。
もちろん、なかには例外がありましょう。地獄に堕ちれば文字通り苦界にあえぎます。
類は類をもって集まるの喩(たとえ)で、その霊は自分と同じ思想、考えを持った人に助けを求め、いわゆる、憑依作用となって人の体、実際には意識に憑いてしまいます。
すると憑かれたその人は、心が乱れたり、精神的疾患になったり、病気をしたり、最悪は自殺するということになってしまいます。
地上が調和されると、あの世の地獄も調和されるための光となります。
あの世とこの世は、いわば相関関係にあって、個々別々に独立して存在するものではありません。
先祖の供養というものは、このように、まず個々の家庭が調和されることであり、調和こそ最大の供養ということを知って頂きたいと思います。
※きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。
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