夫唱婦随・真の安らぎ

夫婦愛

安らぐ家庭

『最近、主人は仕事が忙しくストレスもかなり溜まっているようで、家庭では少しでも安らいで欲しいと願っています。主人は「○○(私)の顔を見るだけでホットする」といってくれますが、精神的にも辛いみたいで助けになりたいです。男性は奥さんに何をしてもらえば嬉しいのでしょうか?、どんな時、癒しを感じるのでしょうか?』というお話しがありました。

この奥様の気持ちはご主人に伝わっていることでしょう。

ストレスが溜まっていながらも奥さんに、顔を見るだけでホットするって言ってくれるご主人もとても心優しい方なのだということが伝わってきます。

そんな関係のご夫婦でしょうから、いつも通り食事し、お話しをされて、奥さまも甘えればよいのです。

ご主人も愛する奥さまを守るためにつらい仕事に耐えているのでしょうから、奥さまが明るく接してくれているのが一番心が癒されるはずです。

そしていつも感謝している事をさりげなく生活のなかで伝えられれば、それで良いのではないだろうか。

また、環境や条件が許されるならば旅行などに行って日常から離れるのも良いかもしれません。お互いを思いやる、穏やかな愛が感じられ、素晴らしいご夫婦だと思います。

夫婦の縁

なぜ家庭に帰ると心が安らかになり、

なぜ家庭が崩壊すると心がむなしく淋しくなるのか。

夫婦の縁はどうして決まるのか。

私たちの心はいつも動いています。

これを無常と言います。(常ではない、そのままではないという意味)

女は一人では生きてゆけない、女は男に頼らなければならない弱い者であるからとか、そうした経済的理由によって結婚してはならないでしょう

女が家事、出産、育児に専念することは、男が外で働くのと同じように価値のあることであって、役割が違うというだけのことでありましょう。

男と対等になるためには、女の役割を捨てて、男と同じように外で働いて収入を得なければならないという社会であってはいけないし、またそういう考えであっては、女は絶対に真の幸福になれないのである。

女の幸福は、男にはできない女の役割を充分に果たすことによって、男性の尊敬を得るということの中にあるのではなかろうか。

また男性としては、いくら共働きのじだだとはいっても、女性が家事、育児に専念しているのを見て、自分で収入を得ないから男より劣っているというように女性を見てはならない。

従来の夫唱婦随(夫婦の仲が非常によいこと。夫が言い出し妻がそれに従う意)の道徳が、亭主関白となってきたのは、男性の誤った女性観にプラスして、女性白身が自分を弱者としてみる見方が、そうさせたところが大きいだろう。

これを正しく理解して取り戻すには、女性は家事、育児に専念することが、男が外で仕事する以上に価値のあることであることを認識しなければならないのである。

だからして、女が経済的理由によって外で働く心理の底には、口では男女平等といいながら本来の女の役割である家事、育児をつまらない仕事だと見たり、女は弱い存在だと思っている心があるからではないのか。

その心が潜在的にある限り、どんなに経済的に収入があっても、心の淋しさを隠すことはできないのです。

実際のところは、女が女自身を弱者だと見るのは、その肉体的構造からきている場合が多いのだが、女はその肉体的特徴の故に自分を弱者だと見てはならないのである。

それは、女に与えられた神聖な役割の象徴(勲章)なのであって、女はむしろそれを誇りとして、その与えられた役割を充分に果たさなければならないのです。

故に、女は、その役割を果たした時に初めて心の底からの幸福感を感ずるようになっているのであり、女の役割を放棄して、どんなに他の方法で幸福を追求しても、それらの方法では真の幸福感を感ずることはできないようにつくられてあるのである。

男は、女を、女の肉体的構造、特徴、その役割の故に、男より劣っているもの、弱者と見てはならないのである。

これまでの歴史の中で、女を不幸にしたのは、男のそのような見方が原因であったのですから、男は女をよき人生のパートナーとし、尊敬し、女の性を大事にしなければならないのである。

男は、女の性の前に跪(ひざまず)く謙虚さを持だなければならない。

家庭とは、因縁によって親子、夫婦、兄弟姉妹となった者が、それぞれ固有の魂を頂いた人間であることを自覚し、霊(魂)を磨いて向上していかなければならないということだ。

男女は、神がつくられ造られた共通の生活の場所において、家庭に帰るということは、神のふところに帰るのと同じであり、神のふところに帰った安らかさ(宇宙大自然によって生かされている喜び)、それは真実の家庭に帰った時の安らかさと同じものである。

だからして、特に男性が家庭を大事にすることは神の意思を大事にすることであり、家庭を粗末にすることは神を粗末にすることであり、自分の都合とはいえ、家庭から逃げて自分だけの世界に迷妄し、ほったらかしにして真の幸せはないのである。

小さなことにいつまでも拘り、プライドを砕かれて意気消沈しているその姿は、人生の本らの目的や意味を理解することなどできていないだろう。

大きな視点に立ってみると、小さなことに拘っていたことに気づかされるときがあるものだ。

夫よ、不要なプライドなど捨ててしまうがよい。そのほうが楽に生きられる。

妻よ、男が嫌いな嫉妬は捨てるがよい。そのほうが自分も夫も笑顔になれる。

おかみさん」とは良く言ったものである。

「おかみさん」を粗末にして、「お神さん」を大事にすることなど有りえようがない。

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