親子の情愛・うつ病からの脱出

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38歳の独身女性Aさん、うつ病で8年間体調不良(不眠、頭痛、腕の震え、無気力、倦怠感、食欲不振)が続き、精神科に通院し、高額なお金を負担しながら定期的に民間のカウンセリングを受けてはきたが、全く改善されず困り果て、知り合いから紹介されたということで、うつろな目で相談にみえた。
彼女は向精神薬と胃薬、鎮痛剤を含めて7種類の処方箋を服用していた。
毎度のことではあるが驚くばかりの薬の量であり、作用が重複している薬の多さには唖然としてしまう。
薬が増やされてから震顫(しんせん・ふるえ)が始まった。腕の震顫は薬の副作用である。
最初はAさんが相談にくるまえにお母さんが相談にみえたのだが、翌日、本人に来ていただいた。
いつものように私は相談者の心の深層にアプローチしていく。
Aさんが小学生のときに、お母さんがAさんの幼い妹だけを連れて家を出たのだが、一人残された悲しみ、淋しさ、このことがAさんの心の奥底に深い傷となって残っていた。
その後に母はAさんを不憫(ふびん)に思い帰ってはきたが、その傷は消えることはなかったのである。
Aさんは泣いた、泣いた。
さらに二年ほど前に自分を可愛がってくれたお爺さんが闘病の末に亡くなったことを機にうつ状態が酷くなったことも話してくれた。
Aさんは根が真面目で良いのだが、ひとつの事に拘る傾向があるために、それを長期に引きずる傾向があるようだった。
彼女の心にはこれまでの38年間の不必要な心の曇り、垢が溢れるほどに詰まっていたのである。
私は話し掛けた。
「あなたの事を愛してくれたお爺さんにはどうあって欲しいと思いますか?」
「最後が辛そうな闘病生活でしたから、しあわせになって欲しいと思います。」
「お爺さんがしあわせになるためにはどうしたらよいでしょうね?」
「わかりません」
「あなたがお爺さんを思い悲しまないことです。あなたの悲しみはお爺さんの心をこの世につなぎとめる呪縛の力となってしまうのですよ。あなたが心からお爺さんに感謝することはお爺さんの心に明るい光となって響くのです。
その感謝とは言葉だけではなく、あなたが何事にも執着せず、不必要に拘らず、自分の人生を生き切ることなんです。これがお爺さんの恩に報いること、すなわち、報恩となるのであって、真の供養なのです。
あなたが笑顔で生きている姿をお爺さんがみたら、お爺さんはどれほど安堵するでしょうか。」
「自分がお腹を痛めて産んだかわいい子を置いて出なければならないお母さんの置かれた状況はどれほど厳しいものだったのでしょか。
お母さんはそのことを心から反省し、あなたに対して懺悔の気持ちしかないのです。
許してあげなさい。お母さんが出なければならなかったのはお父さんにも原因があったのです。今はお父さんも深く反省していますよ。
またAさんは泣いた、泣いた、私までがもらい泣きするほどにAさんは嗚咽していた。
2時間のカウンセリングが終わった後の顔は笑顔がこぼれ、うつろな目が消えて別人のようだった。
後日、紹介者からから連絡が入った。カウンセリングのあと、帰りの車中で娘からお母さんにいろいろと話しかけ、お互いに話し合い、喜びの涙を流しながらの2時間半の帰途であったと。
親子の情は言葉では表現しきれるものではなく、幼い頃の自然体の愛情がどれほど豊かな子供の心を育むものであるか、私はいつも思い知らされる。
Aさんは、一週間後の来院を約束して帰って行った。

話しは一転しますが、私が生まれ育ったのは農家だったために、豚舎があり、豚の出産には子供のころから立ち会って取り上げ、お産の手伝いをするのが常だった。

子豚が小さいうちは親から隔離しないと圧迫死する場合がある。

この危険があるから隣の部屋に離しておき、時間が来れば出してお乳を飲ませるのだが、この授乳は小学生の私の仕事だった。

一度の出産で生まれた10頭前後の子豚たちは、競って母の乳房にむしゃぶりつく。

生命の誕生や死を、幼少の頃からみてきたことが私の犬好きを助長したのかもしれない。

動物は生まれるとすぐ歩き出して行動する。

人間は生まれて一年くらいしないと歩き出さないし、自分では着ることも食べることもできず親が世話をしてやらなければなりません。

そのために、ダーウィンの進化論を盲信している医学者や動物学者達は、「動物は人間より胎内で進化しているのである、人間は動物ほどの進化をしないで未熟なままで生まれる、だからそれだけ手がかかるのである」といっているのです。

しかしこれは、生後すぐに歩くか否かを論じているのであって、本当の進化という意味においては生後すぐに歩くかどうかで進化を論じてはならないだろう。

動物の世界においては、生後すぐに歩けなければ天敵の餌食となってしまうことになり、子孫は残っていけないことになる。

動物が生後すぐに歩くのは自然界の仕組みでもあろう。

そのように肉体的なことだけで判断するのは間違っている。

ダーウィンの進化論を信ずる人達の盲点は、肉体的、身体的なことだけを見て「心」の発達を無視していることにある。

動物の赤ちゃんは生まれた時から毛皮という着物を着て生まれてくる。

人間の赤ちゃんは裸で生まれてくる。

目も見えない、つきっきりで世話しないと赤ちゃんは生きられないのである。

そのように世話するようにつくられてあるところに、私は天の深い慈悲という意義を感ずる。

赤ちゃんを世話することによって親子の情愛は深くなり、愛の神秘さを経験することになる。

その愛情の如何によって子どもの精神的な成長、その子どもの人格の発展に大きな影響を与えることになる。

そのことについて先人達の経験が生み出した諺(ことわざ)が「三つ児の魂、百まで」ということである。

育児の本を買って勉強して、その通りにいかないことでかえってノイローゼになって相談に見えた若いお母さんがいましたが、学問的育児学だけに頼ってばならず、また囚われてはならず、もっと人間のもっている感性を大事にしなくてはならないとうことであろう。

心の発達とは

私の母親もそうであるが、戦前の母親達は育児学というものは全く知らなかったし、そういったものがなかった。

それまでの母親達の経験に学んで教えられてりっぱに子どもを育ててきた。

最近の若い母親達は、育児書なしには子どもを育てられなくなっている。

育児書が与えてくれる科学的な知識とはなんなのか。

「育児学」という言葉は、フランスの医師ロマンによって、1858年に初めて使われたということになっているようです。

例えば、今から200年ほど前のフランスでは、当時の女性は十五~二十人くらいの子どもを産むことは、さしてめずらしいことではなかったようです

しかしそのうちのわずかな子どもしか生き残ることはできなかった。

それで子どもをどうやって生かすかということが切実な問題であった。

乳児の死亡率をいかにして減少するかということである。

衛生的にりっぱに育つようにという育児学によって乳児の死亡率は減った。

しかし、身体的、肉体的な面だけが重視されて、心の発達は全くとりあげられていないのである。

胎内で赤ちゃんは安らかである。

もちろん後に書くように、妊娠しているお母さんの心の状態が赤ちゃんにいろいろな影響を与えるのであるが、一般的にいって胎内の赤ちゃんは安らかである。

裸で生まれた赤ちゃんは早速、お母さんの胎内にいた時と同じ温度にあたためなければならない。

教えたわけでもないのに赤ちゃんは自然にお母さんの乳房を求める。

授乳することになる。

そして排泄が始まる。

赤ちゃんは胎内にいた時の心の安らかさを記憶している。

胎外に生み出された赤ちゃんはお母さんのふところに抱かれた時に胎内で経験したと同じ安らかさを感ずるのである。

なぜ赤ちゃんは頭を左にして抱くことが多いのか、「赤ちゃんを抱く時は、頭を左にして抱きなさい」と誰から教えられたわけでもないのに左にして抱く。

なぜそうするのか。ここにも神秘的な天の慈悲を感ぜずにはいられない。

胎内の赤ちゃんが、一番最初に聞く音は、お母さんの腹部大動脈を流れる血液の流れの音である。「ドク、ドク、ドク……」と一定のリズムをもって心臓から血液が送り出される。

赤ちゃんは胎内でその音を聞いていた。

心は安らかであった。

いざ、胎外に生み出された赤ちゃんの頭を左にして抱くと、そこにお母さんの心臓がある。

そのお母さんの左の心臓のところに頭をつけて赤ちゃんは「ドク、ドク、ドク……」という、胎内で聞いていたと同じ、なつかしい音を聞くのである。

すると胎内にいた時の安らかさを思い出して泣きやんでスヤスヤ眠るのである。

教えられもしないのに自然に赤ちゃんの頭を左にして抱くことの不思議さ、その神秘にわれわれは感動しなければならないだろう。

心を育てることは妊娠した時から既に始まっているのであって、以前に投稿してある胎教1~6という言葉がそれであります。

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